第3話 拡散



▼20XX年7月24日 農林水産省(水産庁 増殖推進部 漁場資源課、漁場保全調整班)


「新種?」


「はい」


全国で発生した赤潮の情報は、各都道府県の水産研究センターや水産技術センターなどを通して、水産庁の漁場資源課、漁場保全調整班に送られてくる。調整班の班長、波多野は先月末に熊本県で発生した赤潮による魚の死因が窒息死ではなく新種のアルカロイドによる中毒死であった、という報告に眉を顰めたひそめた


「それは、まずいな……」


デスクに座って、班員の報告を受けている波多野は、トントンと軽く指でデスクを叩いた。気になることがあるときの波多野の癖だ。


「どんな特徴がある新種なんだ?」


「まだ、そこまでは……とりあえず解析結果では、発見されたことがないアルカロイドであることが分かっただけです。毒性はかなり強いと思われます」


班員は手元の資料を見ながら答える。


「そうか……」


新種というのが引っかかるが、何よりアルカロイドの中毒が死因であることの方が問題だった。再び、波多野は机を叩き始めた。


波多野が憂ううれうのも無理はない。赤潮による魚介類の死亡原因は、大量発生したプランクトンが、えらを覆うことによる窒息死、あるいはプランクトンが水中の酸素を大量に消費して水中が酸欠状態になること、そしてプランクトンやプランクトンに寄生するバクテリアが生成・保持した有毒物質による中毒によるものとされている。


特に、最後の有毒物質による中毒死は影響が多い。


実際、戦中から戦後にかけて、浜名湖のカキ、アサリによる中毒死が112名報告されているが、この貝毒による中毒死の原因物質が、海水中のプランクトンの抽出物質から発見され、その抽出物質がアルカロイドであることが確認された。つまり、赤潮によるアルカロイドが、それを摂取した魚介類を人が食することで、中毒症状が伝播でんぱすることが分かったのだ。


それも、新種のアルカロイドが確認されたとなると、まずアルカロイドの種類の特定、そして毒性などの試験も必要になってくる。赤潮による中毒死が発生した一帯の海域は、それらが特定されるまで漁業が行えないことになる。漁業関係者にとっては、死活問題だ。


波多野は、机を叩いていた指を止める。


「他の地域で、赤潮の発生状況はどうなっている?」


「今年は、例年よりも報告が多く上がっています。現時点では熊本を除いて、瀬戸内海で4か所、伊勢湾で2か所、北海道の太平洋側で3か所、宮城県の気仙沼市1か所で確認されています」


赤潮は、主に湾内で起きるが、今年は太平洋の広範囲の地域で発生の報告が上がってきているようだ。


「そのうち、魚および貝類の大量死が見られるの三重県の津松坂湾だけですが……」


「その大量死の原因は?八代海と同じか?」


「いえ。現時点は分かっていません。調査中です」


「そうか。報告が上がってきたらすぐに教えてくれ」


「承知しました」


報告を終えた班員が立ち去るのを見ながら波多野は考えていた。まずは早急に赤潮が発生した地域での漁業の操業を停止させる必要がある。同時に救済措置の検討も行わなければならない。


課長への報告と同時に、原因物質の早急な特定、全国規模の調査等の要望を含めた長官への上申書の作成も始めた方がよさそうだ。


今年は、来週から早めの夏季休暇を取得する予定だったが、延期せざるを得ないだろう。さすがに、秋田県の祖父母を訪ねることを楽しみにしていた子どもたちの予定は崩せないから、それは妻に任せるしかないが……


今日は、帰ってから妻に散々、文句を言われることになるだろう。


小さくため息をつきながら、波多野は上申書を作成するためにパソコンのソフトを立ち上げた。



▼20XX年8月2日 江ノ島片瀬海岸



ワンワンワンワン……


遠くから、複数の犬の鳴き声が聞こえてくる。朝の散歩をしている犬たちの挨拶の声だろう。大田は、片瀬東浜海水浴場の砂浜を踏みしめながら、視線を鳴き声が聞こえてくる辻堂の方向に向けた。どうやら江ノ島大橋を挟んだ西側の海岸から聞こえてくるようだが、鳴き声だけでここからでは姿を見ることができない。犬好きの大田は、少し残念に思いながら再び押し寄せる波の方を向いて歩を進めた。


神奈川県藤沢市の保健所に通報があったのは、昨日の夕方だった。


――海岸に大量の魚の死骸が漂着している。


夏の日は長い。すぐに南藤沢の保健所から職員が向かい、海岸を魚の死骸が埋め尽くしているのを確認、茅ケ崎市汐見台庁舎にある藤沢市土木事務所なぎさ港湾部なぎさ港湾課に連絡が入ったのが夜の8時頃だった。さすがに時間も遅かったため、課員の大田は翌早朝に車で現況確認に来ていた。


江ノ島の東側に広がる海岸線は、見渡す限り魚の死骸で埋め尽くされていた。そこが海面であることが分からないぐらい続く白い腹の群れは、数十メートルほど沖に向かっていた。仕事柄、潮の臭いは慣れているが、これだけ大量の魚が浮いていると、さすがに鼻をつく。


どこから流れてきたのか……


魚の死骸は、江ノ島を挟んだ向こう側、片瀬西浜・鵠沼海水浴場の方にも流れていたが、向こう側は、ところどこに浮いているぐらいだった。しかし、この片瀬東浜海水浴場は、100メートルも離れていないとは思えない異様な光景が一面に広がっていた。


今日は、海水浴場の営業は無理だな……


早朝のこの時間でもサーファーの姿がみえるが、もちろん波打ち際が見えない海に入る強者つわものはいない。ボードを抱えたまま、堤防の上で呆然と海を見ている。


ふと、サーファーが立っている堤防の下に、黒く横たわる何かがあるのに大田は気が付いた。


なんだ……?


近寄ると、それは大きなネズミの死骸だった。ドブネズミだろう。その口元にはかじりかけの魚があった。


魚を食べて死んだのか……


そして、大田は海の方に振り向いた。もし、このネズミの前にある魚が、海を埋め尽くしている魚の一匹だとしたら……


毒か?


毒ならまずい。今すぐ、海水浴場を閉鎖しなければならない。もっとも、魚の死骸が埋め尽くす臭いくさい海岸で遊ぼうとする酔狂な者がいるとは思えないが……


そういえば……


同僚が、先週の土日、茅ケ崎市漁港から出港する釣り船すべてに釣果が全くなかったらしい、という話をしていた。相模湾は豊かな漁場だ。釣果が悪いことはあっても、好天に恵まれた土日、二日間にわたってどの釣り船にもアタリがなかった、というのは異常なことだと言っていた。


大田が勤める「なぎさ港湾課」では、「なぎさギャラリー」をオープン、管理している。展示物の中には津波の啓発コーナーもあるが、津波を引き起こす地震の前兆として、魚類の異常行動があることを思い出した。


もちろん、地震は考えすぎかもしれない。しかし、海そのものに何らかの異常が生じていることは確かだろう。少なくとも海水浴場の閉鎖については、関係部署にすぐに通達が必要になる。


特に子どもたちが夏休みとなる今の時期、午前中の早い時間から人が集まってくる。近くには、他の海水浴場もあるが、閉鎖による混乱を最小限にとどめるには、早ければ早いほど良い。


大田は、スマホを取り出して、魚で埋まった海岸、ネズミの死骸など、何枚かの写真を撮ると、事務所に戻るため車へと向かった。海岸の状態を見た後は、一度、家に帰って朝食を食べてから職場に向かう予定だったが、諦めるしかない。肌を焼く夏の日差しを浴びながら、大田はこれからの行動予定を組み立てていた。



◆◇◆◇



画面いっぱいを覆う無数の魚の白い腹を見ながら、神奈川県江ノ島の海水浴場閉鎖を伝えるニュースを見たとき、まだ日常生活の中に入り込み始めた「異常」に気が付いた人は、ほとんどいなかっただろう。

まして、それが遠く離れた熊本県八代海での赤潮と直結して考えることはできなかった。


しかし、静かにその異常状態は、人知れず世界中に拡散を始めていた。密かに……深く……


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