第2話 予兆



▼20XX年7月10日 熊本県上天草市



「ひどかね……」


堤防の上で、漁業長の緑川正二は錆びたような色に染まる海を眺めていた。目尻のしわは日に焼けた肌で目立たないが、その視線は苦渋に満ちていた。


上空からドローンを使えば、いくつもの滑らかな緑の突起が大小の湾を形成、その湾の波打ち際には道路の白い帯が湾の輪郭を縁取っているのが分かるだろう。光に照らされた海面は、穏やかな波を示している。見事な景観だ。下島をはじめとする諸島と本土に囲まれた八代海は、夏の時期、荒れることは少ない。


だが……今、湾の中はすべて赤く彩られている。赤潮だ。そこに無数の白い魚の腹が混じっている。


一歩、湾を出れば、陽の光を反射させた青い外海が広がっており、赤い湾を囲う緑の突起と、それを覆う透明感あふれる南国の青い海の情景は、アンバランスであり、半ば狂った絵画のようだった。


熊本県全体でみれば、赤潮は珍しいものではない。珪藻類(グイナルディア属、レプトキリンドルス属など)を原因とする赤潮情報は年中、報知されており、昨年は100回を超えている。


もちろん、赤潮情報のすべてが深刻なもの、というわけではない。赤潮プランクトンが種類ごとに定められた基準を超えることで報知されていて、そのほとんどは、魚介類への影響が見られない規模だ。


だが……


今、緑川が見ている赤潮は湾全体を真っ赤に染めており、そこに見渡す限り多くの魚の白い腹が浮いている。この規模の赤潮は、めったにあることではない。おそらく赤潮が引くまで1か月以上かかるだろう。外海での漁には影響はなくとも、湾内の養殖には深刻な被害だ。天草では、どこでも車海老の養殖が盛んに行われているし、トラフグやマダイの養殖も盛んだ。しかし、赤潮の範囲内は全滅だろう。


それにしても……


緑川は、堤防に来てからゾワゾワした感覚が、抜けきらないことに不審な思いを抱いていた。


……なんだ?


分からない。なぜ、落ち着かない気持ちが続くのかが分からない。


もちろん、目の前に広がる赤潮の被害に気が重いのは確かだ。しかし、この規模の赤潮は過去に経験がないわけではなく、また組合として保険にも加入している。被害の影響は最小限に抑えられるはずだ。


「鳥がおらんなあ」


突然、後ろから声が聞こえた。組合の職員の佐々木の声だ。赤潮の状況を確認に来たのだろう。


!!……そうか!


佐々木の言葉に緑川は、自分が抱えていた違和感の正体に思い当たった。そう。浮いた魚を狙うはずの鳥たちがどこにもいないのだ。


いつもなら、上空を飛び回る鳥たちの鳴き声でやかましいはずのそれがない。その静けさに違和感を抱いたのだ。


赤潮による魚の死は、えらを大量のプランクトンがふさぐ、あるいは、水中の酸素が消費されてしまうことによる窒息死が主になる。外国では赤潮の原因となった藻が作り出す神経毒が死因となることもあるので、そういった場合には死んだ魚は毒になる。日本でも戦後、同様の報告例がある。しかし、窒息死した魚であれば、腐敗が早く進まない限り、鳥が食べるのに差支えはない。


それなのに、鳥が寄ってこないということは……


念のために、死んだ原因を調べておいた方が良いかもしれない。


「すまんが、魚ば検査に出して欲しか」


緑川は振り向くと、佐々木に声をかけた。


「検査?」


「死因ば調べてもらえんかね」


「わかった」


そういうと、佐々木は浮いた魚を回収する手配を行うため、組合の方に戻って行った。


年々、漁業への取り組みは難しさを増している。特に、高齢化の波が止まらないのは、他の業種にもみられる傾向だ。ここ最近の異常気象が関係しているのか、赤潮の発生頻度も年々増えている。安定した収入が見込めなければ、余計に若者は離れていくだろう。


腹の奥に感じるざわざわした嫌な感覚に顔を顰めしかめながら、緑川は小さくため息をつき、海に視線を向けた。すると、沖の方に鳥山が見えた。


サバか……


遠くに見えた鳥の群れに少しだけホッとした思いを抱きながら、緑川はジッと赤潮を見つめていた。



▼20XX年7月23日 地震雲予知研究所


株式会社地震雲予知研究所は、地震の前兆とされる地震雲の研究から始まった地震予知の研究を行い、その情報を販売している会社だ。地震雲以外にも、電波や地下水、GPS、さらには生物の動向など地震予知に関係があるとされるさまざまな因子を複合的に解析、そこに最近では、独自の地磁気の変化の状況を加えて予知情報発信を行っている。


「地震雲予知研究所」は、東日本大震災以降、震度5クラスの地震を立て続けに数か月、連続して予知できたことで、一定の配信者数を抱えている。マスコミで大きく取り上げられたことも関係しているだろう。今は主に、近く起きるとされている南海トラフ地震をターゲットに予知の研究を行っている。


もっとも、最近の予知の精度は芳しくなく、有料配信者数は右肩下がりで減っているのが実情なのだが……


それでも法人格の代表であり、研究所所長も務めている桑原香織は、自身が大学院時代に専攻していた地磁気が地震に深く関与しているとの強い思いと同時に、いつか人の役に立つことを信じて、腐らずに日夜研究を続けている。


「島田くん、北アメリカの磁場は、まだ安定してない?」


大きな窓を背に、父の代から受け継いだアンティークのT型片袖机に座って、パソコンを打っていた香織が、三方をモニターに囲まれて作業を行っている島田正太郎に尋ねた。


香織の会社の正社員は、島田しかおらず、非常勤の職員パートが、他に数名いるだけだ。


「ええ、所長。特に外核の活動に大きな変化はみられないのですが、地磁気は元に戻っていないようです。最新の気象衛星のデータでは、カナダ南部で18,000ナノテスラですから、40%ほど減少したままです。太陽風の影響も、0.2%増加した状況は、半年前から変化はありませんね」


島田は、マウスでモニターの一部を拡大しながら香織に答えた。


地球の磁場は地球を中心に、宇宙空間に広がっている。そして、太陽から放出された高エネルギー粒子、いわゆる太陽風の影響から地球を守る働きをしている。この地球磁場が支配する領域のことを「磁気圏」という。


地震が発生するメカニズムは、主に地殻に近いところにある硬い板状の岩盤、いわゆる「プレート」にかかる力で起きるとする「プレートテクトニクス」という説で説明されることが多い。


そして、プレートは地球内部で対流するマントルの上に乗っかっているのだが、このマントルや、地球の中心にある外核の動きが地磁気と密接に関わっていることが分かっており、香織たちの会社では、この地磁気磁場の動きと地震との関係に深く注目していた。


特に今、強い関心を寄せているのが、北半球、その中でも北米における地磁気の変化に注目している。


その変化が発覚したのは、渡り鳥の大量死がきっかけだった。冬を前に、アメリカ南部に向かうはずのカナダガンが、逆方向のアラスカに向かいほぼ全滅に近い状況に陥ったのだ。


アラスカは未踏の地が多く、厳しい冬を迎える時期、踏破する人もおらず、大量のカナダガンの死骸が見つかったのは、春になってからのことだった。もちろん、いつもは訪れるはずのフロリダやカリフォルニアでは、飛来してこないカナダガンのことがニュースになったりはしたのだが、人々の生活に大きな影響を与えるわけでもなく、自然界の一つの現象として埋もれていった。


香織は、このカナダガンの大量死と地磁気の乱れの関連を調べていた。


日本では、国土交通省国土地理院が、全国12か所でリアルタイムで地磁気の連続観測を行っている。さらに、気象衛星からのデータを加え、そこに国際リアルタイム地磁気観測ネットワーク(INTERMAGNET)やグローバル地磁気観測ネットワークの協力も得て、気象庁の施設等機関である「地磁気観測所」が地球規模でのデータ集計、分析や解析を行っている。


香織の会社は、与党の国会議員である父の人脈から、地磁気観測所と公式に契約、その解析データを入手することができていた。もっとも、開示されるデータは制限があり、また、多くのデータが即時ではなく数週間から数か月遅れでの入手だったのだが……


北アメリカの地磁気に関するデータも、入手できたのは年が明けて春になった頃だった。日本でも、昨年の夏ころから、1割程度の地磁気の減衰がみられていたが、日本と同緯度地域でも同様の傾向がみられていた。


ちょうど、年明け早々に、トルコでマグニチュード6クラスの直下型大地震が発生、地震との関連性を調べるため地磁気の解析を進めている中で報告を受けたのが、その北アメリカでの地磁気の大きな変化だった。通常は30,000ナノテスラほど測定される地磁気が半減していたのだ。


ほぼ同時期に渡り鳥の変死のニュースがあったことで――渡り鳥が、地磁気を知覚して方位を正確に把握しているのは有名な話だ――地球規模の地磁気の変化がみられていると香織は確信していた。


とはいえ、地磁気以外のデータは、特に大きな地震の予兆を捉えてはいない。また、地磁気の乱れについても、今回のような急激な減少が過去に大地震と関連するというデータはなく、もしこの変化が大地震につながるならば、まずは大地震の発生を待たなくてはならない。


地震予知とは、統計学の要素が非常に強い。予兆=地震発生という事象の積み重ねが必要になる。そのため、過去のデータから重要性が高い新しい予兆と考えられても、それが予兆と認められるためには、実際に地震が起きる必要があるという矛盾を孕んでいる。犠牲を出さないための研究だが、予知情報として認識してもらうためには、「犠牲」が求められる、というのが香織にとって歯がゆいところだった。


今回の北アメリカ、いや北半球全体でみられている地磁気の変化が、地球内部でマントルの流れが変化したことによるものかどうかはわからないし、仮にマントル対流の変化があったとしても、それがプレートに直接、影響を与えているかは不明だ。


だが……


香織には、今回の地磁気の変化が、何かの予兆であるという確信を感じていた。それはなんら科学的根拠には基づくものではなかったが、北半球全体という広域であること、また地磁気の減少が、過去に類をみないぐらいに大きいものであることから、地球の中で何かが蠢いてうごめいているイメージが頭から離れなかった。


特に今月に入ってから、日本でも北緯30度から35度の範囲内で、地磁気の減少幅が大きくなる日が増えている。2日ほどの短期間だが、20%減の日が4回現れているのだ。北アメリカのように半減するほど大きな減少幅ではないし、また短期間で回復することを繰り返しているが、1か月での増減でみると、データを入手し始めてから3年間、一度も確認できなかった現象だ。単なるイレギュラーと考えてよいことなのだろうか……


「GPSでのデータはどうかしら?」


「最新の電子基準点のデータは、直近一か月の動きと全く変化はみられません」


国土地理院では、GPS衛星を用いて連続観測を行う電子基準点を全国1,240地点に設けている。その幅は約20km間隔で、かなり精密なデータだ。確かに、近畿地方を中心に動きは出ているが、その動きはもう数年にわたり続いていて、一つの予兆ではあるが、今すぐ、何かが生じる動きまでは結び付いてこない。


「他に、何かの動きはない?」


「動きですか……」


島田は、マウスを操作して、Webサイトで配信されているニュースを調べるAIを起動させた。地磁気、雲、天候、動物、自然現象など、地震との関連性をAIが重要度判定する。


「うーん、今は特に何もないですね。D判定が一つありますが……」


「D判定?久しぶりね」


AIの重要度判定は、地震との関連性がないとするE判定、過去のデータでは関連性は特にないが珍しい情報とみなしたD判定、関連性が疑われる情報であるC判定、直ちに分析を始める必要があるB判定、確度が相当高い情報となるA判定の5段階の評価だ。例えば、地震の前兆ともいわれるリュウグウノツカイが打ち上げられた、あるいは湾内にクジラが迷い込んだ、という過去に地震との関連性が疑われたことのあるニュースはC判定だ。今年はジャガイモの生育が例年よりも悪い、あるいは、火球が見られた、というニュースは過去に地震との関連性が認められていないけれど、普段には見られない情報としてD判定になる。


毎日、多くのニュースがある中で、D判定のニュースは月に数回、C判定は数か月に一度、B判定以上の報告は年単位だ。ここ一か月ほどはD判定のニュースもご無沙汰だった。


「ええ。38日ぶりです。ニュースの内容は――熊本で発生した赤潮により死滅した魚介類の死因が、窒息ではなく有機化合物の中毒死が疑われる、というものですね」


「ふーん……」


地震に結び付くとは思えないニュースに、香織は、興味を抱くことがなかった。



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