第9話 豊作汁



▼20XX年9月16日 農林水産省、大臣室



「魚介類の備蓄があればな……」


桑原大臣の力ない言葉に、向かい合って水産庁長官と並んで座った水産流通指導官の長谷川が苦渋の表情で答えた。


「海産物の取引停止から5日目になりますが、今、海産物だけでなく、加工品を含めた水産物の流通が完全に滞った状態になっています」


「そうか……」


日本が行っている農産物備蓄は穀物だけだ。米が100万トン、小麦が外国産食料用小麦の需要を基準として2.3か月分、そして飼料穀物が100万トンだ。ただし、小麦と飼料穀物は民間備蓄となるので、政府備蓄は米だけになる。


もちろん、その他の食料品も民間と協定を結び、一定量の確保を行ってはいるが、流通や販売に対する協定であり、明確な備蓄量を明示できていはいない。政府が明示している食料品備蓄は、米、小麦、飼料穀物の3つだけだ。


そして――今、魚介類の市場流通は、壊滅的状況となっていた。


まず、海産物が全て取引停止となっており、停止前に処理された冷凍、加工品を除き、魚介類の生鮮食品が市場から消えた。


さらに、海以外の水産物も、検査を実施したものしか流通が行えず、生鮮食品の消費期限を考えると検査時間の関係もあって、事実上の取引停止状態に陥っていた。


冷凍、加工品の在庫も、消費者の心理パニックが引き起こされたことで、急降下する航空機の高度カウンターのように、時間単位で激減していった。


スーパーの棚は、どこも、冷凍、加工品を含めて魚介類がからとなった状態で、その範囲は他の食料品にも及んでいた。


政府は、声を大にして、食料供給に問題がないことをアナウンスしていたが、日本の食料自給率は世界175カ国中124位、先進国に限れば29ケ国中26位と非常に低い。このことは多くの国民が知っており、政府の説明をそのまま受け取る国民は少なかった。


そのため、「食糧ハザード」はどうやっても避けることはできなかっただろう。


むろん、食糧危機が生じたのは日本だけではない。すでに、多くの国が魚介類の出荷停止を行っていたので、水産物以外の食料品も輸出が制限されたことは自然の流れの中にあったといえる。


「本当に、配給を検討しなければならないのか?」


「大臣、残念ですが……主食の備蓄はまだありますが、魚介類が全滅となると、『食』に対する人々の意識改革はどうしても必要になります」


水産庁長官、西村の言葉に桑原大臣は低くうなった。


日本で、年間に廃棄される「食べられる食品」の量は600万tを越える。赤ちゃんからお年寄りまで、日本人一人当たり、お茶碗一杯分の食品を毎日捨てている計算だ。


飽食が当たり前になった人々が危機意識を持つには、相応の衝撃が必要だろう。「配給」という言葉は、パニックをより大きくする恐れも秘めていたが、危機感を煽ることはできる。


「配給の計画の方はどうなっている?」


「はい。緊急事態食料安全保障指針に基づいて策定された計画案を、現況に合わせて見直しているところです。おそらく二日以内に最終案が上がってくるかと。総務省や厚生労働省、経済産業省など、関係諸機関にも通達済みで、案ができ次第、国家安全保障会議を開催します。すでに内閣官房の了承は得ております」


「そうか……」


戦中、戦後の時期ならいざしらず、令和の時代、まさか食糧配給を実施することがあるとは考えてもいなかった。もちろん、そうしたリスクは常に内在していたわけだし、計画も策定されていわけだが、現実の危機として目の前に現れた今、その重さに胃が痛くなる。


「ところで、今回の中毒症状を引き起こした原因は、何かつかめたのか?」


「はい。沿岸部において藻類を餌とした魚類を食することで、呼吸困難の症状が引き起こされること、その原因は、藻類が生成している新種のアルカロイドによる神経毒であることが、現在、確認されています」


「それで、藻類が神経毒を作っている原因についてはどうだ?」


「いいえ。分かっていません。研究指導課の方で大学の研究機関とも連携しながら研究を進めていますが……」


水産庁の長官は、キャリア事務次官が就任するのが通例だったが、西村は生え抜きの技官で就任しただけあって、実務に長けていた。水産に関する専門的分野にも足を突っ込むことができる。


「気になるのは、当初は藻類の中でもラン藻など真正細菌が――いわゆる植物プランクトンのことです――アルカロイドの生成を行っていたのですが、昨日の報告で普通の海藻類からの生成も確認されました」


「……それは、何を意味している?」


「簡単にいってしまえば、今まで単細胞のプランクトンが対象だったのが、多細胞生物の植物に広がった、ということです」


「ちょ、ちょっとまってくれ。ということは、もしかすると、陸上の植物にも同様のことが起きる可能性がある、ということなのか?」


焦った表情の桑原大臣に、西村長官は困った表情を見せた。


「いえ。そういった報告はありません。厳密に分類すると、陸上の植物とラン藻は同じ植物であっても、生物としては違う種類とする考え方が最近では主流になってきていますから、海中で起きていることが、そのまま陸上で起きるのか、と言われると、そこはなんとも……」


昔は確かにラン藻も植物として分類されていたが、近年、生物を系統関係類縁関係で分類体系の見直しを進めたことで、ラン藻は植物から外れるという考え方が定説になっている。植物とは、あくまで陸上植物(コケ植物、シダ植物、種子植物)を指す、という考え方だ。もっとも、葉緑体を起源に考え、藻類の中で緑藻類海藻は植物とする考え方も根強いようだが……


「そうか……」


「ただ、今回のアルカロイドの生成は、光合成の主反応有機化合物の生成の結果であることは確かです。ということは、陸上の植物も同じく光合成で有機化合物を作り出していますから、この新種のアルカロイドの生成を始めたとしても、何ら不思議ではありません」


「…………」


桑原大臣は、西村長官の説明に言葉を失った。


もし、陸上の植物がラン藻と同様に、人体に有害なアルカロイドの生成を始めたなら、どうなるのか――食糧危機、という言葉が生温い状況になることは間違いない。


「……兆候は、今のところ、ないのだな?」


何とか桑原大臣は言葉を絞り出す。


「はい。今のところ、はですが……」


頼りない言葉だが、彼に明言できるはずがないことは桑原大臣も理解していた。


「とりあえず、そうならないことを祈るばかりだな」


「ええ」


西村長官、長谷川指導官が答える声も小さい。


「ところで、世界の状況はどうなっている」


「はい……日本と似た状況です」


ローテーブルの上に置かれたいくつかのクリアホルダーの中から、一つを選んだ西村長官が、書類を広げた。


「アジア、アメリカ、南米、アフリカ、オセアニア、欧州など、海産物の取り扱い停止を行っている国は部分的な停止を含めると、42カ国になります」


「諸外国での対策はどうなっている?」


「本格的に動いているのは、やはりアメリカです。日本よりも一人当たりの海産物の消費量は少ないのですが、それでも、すでに死者数は日本の倍以上になっていますから」


「そうか……何か情報は来ていないのか?」


「はい。今朝、届いた海洋大気庁からのデータと分析結果から、いくつか興味深い情報提供が入ってきています」


数年前から、農林水産省と海洋大気庁の間では、温暖化が漁業に与える影響について日米で共同で実施している研究の関係で、情報の共有化を行っていた。そのため、今回の件も、比較的スムーズな情報交換ができていた。


「そのデータはすぐに、水産専門管理官の方に渡してくれ。それと、私も確認したいからコピーを。ちなみにマル秘扱いか?」


「いえ。スタンフォード大学との連名ですが、秘密指定外です」


今回の問題は、各国の治安にも影響を与えている。実際、アフリカの小国ではすでに大きな暴動になっているが、アメリカは得られた情報を秘密保全制度の対象とはせず、オープンな情報として提供してくれたようだ。秘密指定された情報は外部に提供できないが、これなら香織に渡しても大丈夫だろう。


「わかった。私の方でも、外部の研究機関で精査させよう」


「よろしくお願いします」


海産物の取引停止を公表してから、西村長官は家に帰れていない状況が続いている。本当なら、自分が指揮して解決にあたるべきところだが、解決の糸口が見つかるのなら、手法を問う必要はないし、そのような時期でもない。


最初の情報は、7月に入った、熊本・八代海の赤潮からだった。それが、2か月たたないうちに、全国に拡大して、さらに食糧危機が目の前に迫っている。これから2か月後の日本の姿を一瞬だけ想像した――それは人が誰もいない街の姿だった――長官は、頭を軽く振った。




▼20XX年9月18日 福井県のある村



村の中心にある寺の参道には、多くの屋台が並んでいた。


お寺さんお坊さん、夕方には来るって」


ほうかそうか


馬場夫妻は、のんびりと屋台を眺めながら歩いていた。今日から三日間は村の秋祭りだ。何もない田舎だが、この時ばかりは、大勢の村人が寺へと集まってくる。馬場家では、来週法事が行われるが、法要のお経をお願いした住職が、今日の夕方に打ち合わせに来てくれるらしい。


「この人混み、わけもないなぁものすごいなあ


行き交う人々の多さに、思わず夫の毅が呟いた。毅は、村営の病院で内科医を務めている。今日は当直明けだ。


「今年はしょうもないでの仕方がないから。15年ぶりの山車やから」


夫の言葉に、看護婦で妻の仁美が振り返った。その視線の先には、高さが5メートルはあるかと思われる山車が、しめ縄で周囲を囲われた中に鎮座していた。この地方では、15の地域を毎年持ち回りで山車を引く。今年は、この村の番に当たっていた。


「明日は、快晴やってだって


毅は、前回の山車を引いた時のことを思い出していた。あの時は、まだ高校を卒業したばかりで、右も左もわからずに祭りに参加していた。雲一つない秋の空に、黒と金の山車が映えていたなあ、と考えながら、「こわめし赤飯、多めに作らんとな」と仁美に話しかけた。


その時――


「道を開けてくれ!」


寺の境内の方から、幼稚園前の子どもを抱きかかえた男性が人混みをかき分けるように走ってきた。毅の幼馴染、志水誠二だ。抱きかかえているのは長男の春馬だろう。その後ろから「おおごっちゃ大変だ!」という声が聞こえてくる。寺の境内の方だ。


今日は、婦人会が村民に無料で「豊作汁」を振舞っていて、多くの村人たちが訪れていたはずだ。豊作汁は、この村でとれる青梗菜ちんげんさいと牛肉を煮込んだ汁だ。特に、青梗菜はこの村の特産品だった。


「どうした!」


毅が声をかけると、立ち止まった誠二がこちらを向いた。青ざめた表情と涙が滲む目を見て、とてつもなく悪いことが起きたことを毅は知った。


「毅!、春馬が……」


声を詰まらせる誠二の元へ、慌てて毅は駆け寄った。そこには、白目をむいて、ヒッ、ヒッとしゃくり上げるようなか細い呼吸で痙攣けいれんしている春馬の姿があった。


「はる君!」


後からついてきた仁美が、着ていた上着を脱ぐと、そのまま地面に敷き、「渡しね渡して!人工呼吸するから!」といって誠二から奪い取るように春馬を受け取った。


遠くからピーポーという音が近づいてくる。今日は屋台と人混みで境内まで、すぐに車が入ることができない。誠二は、子どもをいち早く救急車に乗せるため、走ってきたのだろう。


仁美が、胸骨圧迫心臓マッサージを始めるのを見ながら、毅は普段から持ち歩いている医療用のペンダントで、瞳孔の状態を確認する。瞳孔は拡大、対光反応も喪失しており、刺激に反応が見られない。チアノーゼも見られて危険な状態だ。


この症状は、どこかで見たことがある。いや、自分が診療したわけではない……そうだ、学生時代の講義で使われたビデオだ。固定散瞳瞳孔の拡大、痙攣、昏睡……これは確か、シアン化水素ガスの中毒症状に似ていないか?


シアン化水素ガス――青酸ガスと言えば、知っている人も多いだろう――は致死性が高い毒物で、シアン化化合物から発生する。未成熟のビワやウメの実に含まれるアミグダリンも、シアン化化合物の一つで有機化合物だ。


「何があった!」


動揺が激しく要領を得ない断片的な誠二の説明から、毅は何があったのかを聞き出した。


どうやら婦人会が作った「豊作汁」を食べた直後に、大勢の人が苦しみ始めたようだ。そして、誠二は重体の春馬を救急車まで連れて行こうと走ってきていた、との話だった。


「おーい!」


汗だくになりながら仁美がCPR心肺蘇生法を続けていた中、担架とオレンジ色のリュックのようなものを持った二人の救急隊員が駆けつけてきた。リュックに見えるのははAED自動体外式除細動器だ。


「こっちだ!」


毅が手を振り、隊員たちを呼ぶ。


「AEDを!」


一人の隊員が素早く装置を置き、準備を始めた。リュックを開いて、スイッチをスライドさせ蓋を開ける。AEDから音声ガイドが聞こえてくる中、毅は医師の目で見た厳しい状況に、誠二をチラリと一瞥してから唇を嚙み締めた……




三日後。


詳しい状況が判明した。婦人会が用意した豊作汁を食べた村人38名中、子ども1人を含む7名が死亡、14名が重体、残りも全員が入院した。


死因は、いずれもステロイド系のアルカロイドによる呼吸不全。その日の朝に収穫されたばかりの青梗菜が原因だった。


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