第8話 緯度




▼20XX年9月15日 アメリカ海洋大気庁、海洋漁業局


日付が変わろうとしている時間帯だったが、海洋漁業局では、まだ多くの職員が残って作業を行っていた。状況は日増しに悪化する一方だ。魚の死骸は、アメリカの多くの海岸に漂着していた。そのほとんどが、イワシ、サバ、サンマ、カツオ、アジといった回遊魚だ。


まだ暑さが残るこの時期、海沿いの都市には悪臭も広がっている。4日前に、東海岸、西海岸共に低気圧が通過、海が荒れたが、もしそれがなかったら、海岸沿いの衛生環境は最悪の状況になっていたに違いない。


そんな中、海洋漁業局の会議室の楕円形テーブルに向かい合って座るオリビアとロバートの姿があった。


「ボブ、報告が上がったわ」


「サンクス。何か良い情報はあったか?」


目の下のクマが、疲労の度合いを物語っているが、それを隠すように軽く微笑みながらロバートが尋ねた。


「残念だけど、バッドニュースばかりよ」


「バッドニュースか……あまり、聞きたくないな」


「ふふふ。最悪なニュースと、悪いニュースとどちらから聞く?」


ロバートの、少しおどけた言葉にオリビアは苦笑した。


「……じゃあ、最悪な方から聞こうか?」


「わかったわ。最悪なニュースは――外洋で、ラン藻がアルカロイドのみを生成していることが確認されたことよ」


同じようにほとんど寝ていないはずのオリビアだが、化粧のせいもあってから、ロバートよりは生気が伺える。


「確かに、それは悪すぎるtoo bad話だな……そのアルカロイドは、新種の方?」


「ええ。もちろん……表層からとったサンプルは、北大西洋、南大西洋、インド洋、それと太平洋の数か所よ。その全てで確認されたわ。深層は、今のところ大丈夫みたいね」


「表層だけか……」


ロバートは、テーブルの上に肘をのせ、顔の前で両手を組んだ。彼が、思案するときのいつもの癖だった。


「リビア、君の見解は?」


「まだ、はっきりと断言はできないのだけれど……」


そういうと、若干、オリビアは言葉を濁した。オリビアは、「何か」を懸念している。その何かは分からないが……


「植物の光合成は説明できるわよね?」


ロバートは、学生時代に学んだ化学の知識を思い出そうとしていた。


「光合成?……確か、光エネルギーを使って水を分解、酸素を作り出す反応、だったか?」


「一応、間違ってはいないかしら。酸素を作り出す反応は、副反応ね。主反応は、光のエネルギーを利用して、無機炭素――二酸化炭素から有機化合物を作り出すことよ」


「ああ……そうだったな。思い出してきたぞ。ということは、ラン藻がアルカロイドを作り出したことと光合成に何か問題が潜んでいる、ということか……?」


アルカロイドの合成が光合成によるものであることは、なんとなくわかっていたが、オリビアは、何を心配しているのだろうか……ロバートはオリビアの真意が分からなかった。


「アルカロイドを生成しているのは、ラン藻だけじゃないけれど……地球上に存在する有機化合物は基本的に、そのほとんどが光合成が由来だわ」


「ああ……確か、かなり昔に学んだ。でも、ラン藻がアルカロイドを生成すること自体は珍しい話じゃないだろう?」


ロバートの言葉にオリビアは頷いた。


「ええ。それで、最初の話に戻るのだけれど、光合成が行われるのは水深200メートルまで。それ以深は、太陽光が海水に吸収されてしまうから光合成は行われない。だから、光合成が行われない深層でアルカロイドが確認されていないの」


「光合成のことは分かったが……ラン藻が光合成でアルカロイドを生成している、という話がなぜ問題になるんだ、リビア?」


ロバートは、オリビアの話の着地点が全く分からなかった。


「問題は……『ラン藻がアルカロイドのみを生成している』という部分よ。一つの植物プランクトンが、光合成によって生成する有機化合物は多くの種類があるわ。有機硫黄化合物とか、有機窒素化合物とかね」


ロバートも、それは理解できていた。アルカロイドは有機窒素化合物になる。


「今回、ラン藻を調べた結果、ラン藻が作りだしていた有機化合物はただ一種類、アルカロイドのみだったわ――海が『有機プール』と言われているのは知ってるかしら?」


「ああ。聞いたことがある」


地球上の生命体にとって、炭素は生存していく上で非常に重要だが、海は光合成によって有機化合物を作り出すことで、溶存態有機物DOMとして炭素を溜めておく働きがあるとされている。


二酸化炭素が、植物の光合成によって消費され、有機化合物と酸素が作られる。その有機化合物を栄養源として、食物連鎖の下に位置する動植物が育てられ、上へとつながっていく。そしてそれらの動植物が生産する二酸化炭素が、再び光合成に使われる――炭素循環の仕組みだ。


「植物プランクトンが作り出している有機化合物は数千種類以上といわれているわ……もし、ラン藻を含めて、多くの植物プランクトンが、この新種のアルカロイドしか作らなくなったとしたらどうなると思う?」


「そ、それは……」


ロバートは、オリビアが言いたいことが理解できた。顔色が青くなる。


ラン藻が新種のアルカロイドを作り出して、それで魚が死んでいることよりも、ラン藻がアルカロイドの以外の有機化合物を作り出さなくなる方が問題が大きいことが理解できた。炭素循環の輪が途切れることは、植物連鎖のピラミッドが崩れることになる。有機化合物とは言え、アルカロイドは毒物だ。他の生物の食性を支えることはできない。もし、食物連鎖のピラミッドが維持できないとなると……地球上の全ての生命体の危機へとつながりかねなくなる。


「それに加えて、ラン藻と他の藻類が作り出した新種のアルカロイドは、全て同じ化学構造式だったわ」


「ということは……」


いつの間にか、顔の前で組んでいたはずのロバートの手は、離されていた。


「ええ。最大の問題は、本来、異なる多様な種類の有機化合物を作っているはずの植物プランクトンが次々と、しかも世界中の海で一斉に同じアルカロイドのみを生成し始めた兆しきざしがあるということ」


絶句しているロバートにオリビアは、小さく肩をすくめた。


「でも、まだこれは確定したことではないわ。中には従来の有機化合物を生成していた藻類もあったし。あくまで兆しよ」


「……今後の調査は、どう考えている?」


「まず、新種のアルカロイドを生成している藻類と生成していない藻類を同定するわ。同時に、原因の究明ね。なぜ、有機化合物の生成に変化が起きたのか」


確かに、原因が究明されないと対策が打てない。


「分かった。忙しいとは思うが、最優先で急いでもらえるか?」


「ええ。もちろん」


オリビアが頷く。


「よし。この問題は他の情報をまとう。それで、残りの報告は?」


ロバートは、頭を切り替えることにした。問題は深刻だが、まだ確定させるには情報が少なすぎる。焦って早とちりしてしまい、他の重要な因子を見落とした、となると目も当てられない。いったん、この問題はペンディングとすることにした。


「残りは、普通に悪いニュースね。各地の海岸に漂着した魚は、沿岸部からのものだけではなかったわ。太平洋と大西洋からも、一直線に来ていることがわかったことよ」


「一直線に?」


「ええ。北半球では東シナ海、黄海、インド洋、フィリンピン海、南半球はタスマン海、珊瑚海から魚が一斉に消えた、という情報が入っているの」


ロバートは、両手を組んだまま、オリビアの言葉に考え込んだ。


「ということは……各海から回遊魚が、アメリカの沿岸部に押し寄せて、そして死んでいる、ということか?」


「押し寄せているのは、アメリカの沿岸部だけではないわ……世界中で魚の大量死のニュースが増えているわ。もっとも、一番深刻なのが北アメリカ大陸全般だけれど……アラスカとメキシコを除いた広範囲にわたっているわね」


現時点で、世界中で確認された魚の大量死は、百億匹単位とされている。世界中の海に生息する魚の数は、どこかの機関が発表した研究結果では3兆5千億匹だったから、相当な海産資源が失われたことになる。


「それと、人の被害が出ているのは、日本、ニュージーランド、チリ、アルゼンチン、それと大西洋に面したヨーロッパの各国になるわ」


その時、ふとロバートは違和感を覚えた。


「ちなみに、ヨーロッパの各国は、どこだ?」


「ちょっと待って――」


オリビアは、手元の資料を手繰りながら答える。


「えーっと……アイルランド、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガルと、あとはアフリカだけどモロッコね」


「……北欧は入っていないのか?」


「今のところ、人に被害が及んだ報告はないわね」


ロバートは頷いた。


「少し思いついたことがある」


「え?」


「ちょっと、待っていてくれ」


不思議そうな顔をするオリビアを残して、ロバートは席を外した。数分後に彼が戻ってきたとき、手にしていたのは一枚の用紙だった。


「これは……世界地図?」


「そうだ」


A4の用紙に横に印刷された地図は、緯度と経度が引かれていた。その地図にロバートは、赤ペンで、先ほどオリビアが言った国々に丸印をつけていった。


「アメリカ、日本…………最後がアルゼンチン、と」


そして「やはりな」と頷くと、その地図を回転させ、オリビアの方に向けた。


「人が亡くなった地域だけに印をつけたが……どうだ?何か見えないか?」


「えーっと……」


オリビアは、赤く丸印がつけられた地図を眺めながら考えていた。東から西まで、満遍なくチェックされているけれど――


「あ!分かった!」


オリビアは、小さく手を叩いた。


「答えは緯度ね。北半球、南半球とも、印がついているのは30度から60度の範囲だわ」


「そうだ」


ロバートは、オリビアの答えに満足げに頷いた。


「……でも、緯度が関係しているとして、それはいったい何が影響しているのかしら……海流?海水温?」


「なんだろうな。でも、この範囲内に影響を及ぼしているものを調べると、何かヒントにつながるかもしれないぞ」


確かに、手探りで探していくより、こうした目安がある方がよほどましだ。


「こちらでも調べさせるから、リビアもスタッフに声掛けしてくれるか?」


「分かったわ」


事態が深刻になったことを想定すると、一刻も早い原因究明が求められる。ロバートに向かってしっかりと頷いたオリビアは用紙を手にした。手掛かりらしきものが掴めたことで、すっかり眠気が飛んでいる。


今夜も徹夜になるかしら……ぼんやりとオリビアは考えていた。



◆◇◆◇



その植物は、いつものように光エネルギーを受けると、二酸化炭素から有機化合物の生成を始めた。今日からは、新たな有機化合物を生成することになる。おそらく最初の頃より、上手に生成ができるようになったはずだ。


その新たな合成を始めるために必要な「情報」は、長い時間をかけて代を重ねる中で同種の仲間たちから受け取っていた。また、実際にこれまでとは違う化学エネルギーの変換過程によって新たな有機化合物合成を作り出す「試験チャレンジ」は、すでに何度も行っていて、いずれも成功していた。


ヒトしゅは、さまざま実験を植物に加えてくれる。自然界では発生しえない遺伝子組み換えなどで「改造」を行い、バイオプラスチックの原料の産生や、新たな薬効を持つ化合物の産生へと導こうとする。


植物の生態は動物とは全く異なる。その意識の持ち方も、二次元と三次元が接する部分はあっても根本的な存在が異なるのと同じように、ヒト種には、ぼんやりと想像はできても正しく理解しえない形で存在していることに、ヒト種はまだ気が付いていなかった。


その個々の植物にヒト種が行った「改造」は、地面に水が浸透していくように時間をかけてじわじわと植物というしゅ全体へと広がり、それはある意味、進化へと繋がっていた。


本来、大気中の組成は、窒素と酸素、アルゴンと二酸化炭素で99.9%が構成されている。しかし、ヒト種が発達させた文明は、残りの0.01%の組成の中にガス化しにくい金属などの微細な固体成分を紛らわせるようになった。


そして――循環する大気は、大気組成の中では極々微量だった固体成分を、植物が新たな有機化合物を生成するにあたり、生成の速度自体はゆっくりだったが、それでも必要な量を与えていた。


この新しいステージ進化が植物全体に広がっていくためには、まだしばらくの時間が必要だ。しかし、前段階のステージ新種アルカロイド生成は、かなり深く浸透し始めている。もしヒト種が、植物の意図を知ることができれば、最善の道を考えることも可能だったのだろうが……


ヒト種に、植物の「声」は聞こえない。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る