第7話 消失



▼20XX年9月15日 インド洋、ソマリア沿岸



ポンポンポンポン――


雲一つない青空を映す海面を、焼玉エンジンの特徴ある音が、舐めるように鳴り響いている。いわゆる「ポンポン船」だ。多くの漁船は、高性能なディーゼルエンジンに積み替えているが、ソマリアではまだポンポン船が、現役で稼働している。


もっとも、ポンポン船は小型船舶が多く、外洋に出ることは難しい。せいぜい、浅海から内湾での漁となる。それでも、無理を承知で外洋近くまで漁に出る漁船は、釣果ハイリターンに見合った危険ハイリスクを常に傍に置いた状態での漁を求められることになる。


「見えるか……?」


「いや……何もないな」


船べりに立ったアリの問いに、並んで海面を見つめるアブディが答えた。


アリが、覗いているオペラグラスの視界が、船の揺れに合わせてブレる。昔は、この揺れに慣れず、何度も吐いたものだが……船に乗り続けるうちに、いつの間にか船酔いはしなくなった。


二人が探しているのは「ナブラ鰹の群」だ。ナブラが見つかれば近づいて、餌のイワシを撒き、そしてポンプを使ってそこに水を撒く。すると、イワシの群れと勘違いしたカツオが興奮状態になるので、それを「かえし」が無い「かぶら」と呼ぶ針でひっかけて釣るのだ。いわゆる「カツオの一本釣り」。数年前にアリが伝手を頼り、日本で学んできた漁法だ。


だが……肝心のナブラが見つからない。


「そうだな……魚探はどうだ!?」


アブディが、船室にいるファラーに大声で尋ねると「魚影はない!」と叫び声が返ってきた。


「今日で何日目になる?」


「5日目だ」


ソマリアは海賊が有名だったが、NGO非政府組織の活動によって、多くの海賊たちを漁師に「職業変更」させることに成功した。アリとアブディも、そのように職変して成功した漁師だ。


漁師は、自然相手のため収入のムラがどうしてもある。とはいえ、常に海軍や民間の警備チームに怯えなければならない海賊と比べれば、生活の安定感は段違いだ。海賊時代は泣いてばかりいた家族も、今は笑い顔が増えた。


5年前には、何隻かの中古船も――半世紀以上前のポンポン船だが――村で共同購入することができ、収入も数倍に増えた。中古船の代金も支払いが終わっていて、昨年からは、内戦が始まってから中断していた村祭りも開催できるようになった。


二人が乗船しているのは、全長15メートル、11tの小型の漁船だ。一本釣りの漁法で釣った傷が少ない魚は、輸出向けとして重宝され、単価が高くなる。アリが、日本で学んだ漁法を村に広めたことで、大きく漁獲量を上げることができるようになっていた。


この生活を維持するためにも、たくさんの魚を釣りたいと思っているのだが、5日前からパタリと釣果がなくなった。


「海がおかしくなっていないか」


遠くを見つめ、必死にナブラを探しながら、アリが口にするとアブディが「ああ」と答えた。


職変して漁師になってから10年が過ぎたが、この海域で――インド洋に面したこの海域は豊かな漁場だ――カツオどころか他の魚の魚影すら見つからない、それも数日にわたって、というのは一度も経験がない。


もちろん魚探を使って深層を探れば、魚影がゼロではない。だが、そこはアリたちの漁ができる範囲ではないし、深海での漁ができる設備もなかった。


「あと30分ほど西に向かってみよう。それでダメだったら港に戻ろう」


アブディが心配しているのは燃料代だろう。ポンポン船はとにかく燃費が悪い。一匹の魚も釣れないまま、船を動かし続けるわけにはいかない。


「仕方ないな……」


アリは、魚がいない海に、言い知れぬ不気味さを感じると、小さく身震いしながら、もう一度、手にしたオペラグラスを覗いた。



▼20XX年9月15日 中華人民共和国農業農村部、漁業局


「消えた?」


中華人民共和国農業農村部、漁業局長の王は部下の報告に眉をひそめた。


「何を言っているんだ?」


今日は、部内の局長クラスが集まる定例会議の日だ。来月には全人代全国人民代表大会が予定されていて、農業農村部の予算獲得の関係もあり、関係議員とのセッションや、「超富豪クラブ」への根回しで、部内の局長クラスは最も多忙を極める時期となる。些細な報告など聞いている時間はなかった。


「ですから、トンハイ東シナ海から魚が消えたのです」


定例会議に向けた準備を少しでも進めたい今、どうしても報告に時間を割いて欲しいという部下の要望に応えたことを王は少し後悔していた。海は生き物だ。魚が取れない日があることは不思議なことではない。


「それで……魚が消えたことの何が問題なんだ?」


不機嫌な口調を隠そうとしない王の言葉にも、部下は怯まなかった。


「日本で数日前にあった、魚介類取扱停止の発表を覚えておられますか?」


魚介類取扱停止……?そういえば、そんな報告があったな……確か、食中毒か何かで魚を食べたことによる死者が多数出た、という話だったはず――


「まさか……!トンハイで同じことが起きたのか!?何人亡くなった?」


「いえ……中毒死した人が現れたわけではありません」


王は、部下の言葉に少しホッとした。全人代を前に、大きな健康被害のニュースは間違いなく悪影響が出る。


「健康被害がないなら、魚が消えたぐらいのことは、大きな問題ではないだろう?」


いったい、この部下は何が言いたいのか……


「正確に言えば、全ての魚がいなくなったわけではありません。沿岸での定置魚の漁獲量はあります。しかし、ここ3日、回遊魚の漁獲がほぼゼロになっています」


「ほぼゼロ?」


「はい。トンハイ東シナ海ピンイン黄海を合わせると、世界の漁獲量の10%を占めることはご存じかと思います」


漁業局の局長を務めて2年になる王は、それぐらいのことは知っていた。部下に向かって頷く。


「毎日、該当海域には10万隻以上の漁船が漁に出ているわけですが、全ての船で回遊魚の漁獲がなかった、ということは、過去に一度もありません。1日だけならまだしも、それが3日も続くとなると……今月初旬にはアメリカでも魚介類の異常死の報告がありましたし、日本でのことも考えると、今、何か大きな異常が海で起きているのではないかと……」


部下の顔色は悪い。王も事態の異様さをようやく理解した。


中国の該当海域での年間の漁船漁獲量は800万トン。韓国の100万トン、日本の20万トンと比べると断然の漁獲量といえる。天候の状況もあるが、好天であれば今の時期、1日の漁獲量は10万トンを越える。それが、3日間ゼロが続いたとなると、明らかに放置しておいてよい状態ではないことは確かだ。


王は多忙を極めるこの時期に、部下がわざわざ報告を上げてきた理由をようやく理解した。


もし、このまま漁獲量がない状態が1か月続くようなことがあれば、中国の漁業は壊滅的な状態に陥る恐れがある。


そして抱える問題は、それだけではない。


中国の一人当たりの年間水産物消費量は日本に近い40kgだが、面積が広い中国ではその消費量の90%が沿岸部で占めている。内陸の農村部での消費量はわずかだ。つまり、沿岸部で食糧事情の悪化が起きる可能性がある。


この問題が拡大すれば、全人代を前に、農業農村部の大きな汚点となることは確実だ。


「……原因は判明しているのか?」


「いえ。現在、水産科学研究院で調査をしておりますが、過去に事例がないだけに、すぐには分からないかと……」


ドン!


部下の言葉に王は、思わず机を叩いていた。


「一週間だ。一週間以内に原因を報告しろ。私の名前で漁政指揮センターを動かして良いから、24時間体制で究明するよう研究院に厳命するんだ!」


「し、承知しました!」


慌てて一礼する部下を前に、王は今日の会議で、この件をどこまで報告するべきかを考えていた。ことが大きくなるようならいち早く報告すべきだが、もし自然解消するようなら、大騒ぎしたことが評価を下げる。


判断するには、まだ材料が乏しい、か……


今日の会議での報告内容を考えながら王は、部下の報告を聞くことにした自分の判断に安堵していた。



▼20XX年9月15日 東シナ海


レミング――


ハタネズミ科の愛くるしい表情を見せるネズミは、ある「行動」で有名だ。


その行動とは「集団自殺」。個体数が増えすぎると、集団で海に入水して自殺する、というその行動は、今では自殺ではなく事故であることが分かっている。


レミングは定期的に集団移住するが、その移住の際の途中に、たまたま海があって、一部の個体がおぼれ死ぬことはある。だが、これはあくまで「事故」だ。本来、レミングは泳ぎが上手なネズミであり、仮に海に入水したとしても全ての個体が死ぬことはない。


こうした誤解を与えたのは、周期的に大増殖と激減を繰り返す種であること、そして何より1958年に某ドキュメンタリー映画で意図的にレミングを崖へと追い込み、海へ飛び込ませた、というシーンや、1991年に示唆するゲーム性で人気となった某パズルゲームのヒットが原因とされている。


レミングの行動は、このように誤解を元にしていたのだが、生物は時に、誤解ではなく、本能に従って、こうした行動をとることがある。


生物の共通した本能は、「しゅの保存」だ。生存本能生きていくことも、遺伝子を残す本能子をなすこと、全ては「種の保存」という本能がそのベースにある。


もちろん個体の行動を個別にみていけば、必ずしも一致しないことはある。しかし、「種」という全体が持つ本能は「保存」だった。


したがって、生物は最終的に、「種の保存」に反する行動はとらない。仮に、反していたように見えても、そこには必ず「意味」がある。滅亡へと導くような行動も、最後は必ず「保存」へとつながっていく。



太平洋は、煌々こうこうと輝く月が穏やかな波の動きを照らしていた。波しぶき以外の音が聞こえてこない海は、文字通り、太平洋(pacific平和な ocean)を現わしていただろう。


その穏やかな海に、今、何本もの航跡が引かれようとしている。魚の群れだ。


その魚の群れは、何かに追われるように、一直線に東へと向かっていた。空から俯瞰ふかんすれば、緩くカーブしながらどこまでも続く海面を湧き立たせた白波の航跡が、静かな海にバシャバシャと騒々しい音を響かせている。


数キロに渡る長さの群れは、一つの航跡あたり数千万匹となる数の魚を抱えていた。群れは、魚種ごとに異なっていたが、一つの魚種の中でも、複数の種類が一緒になって群れを形成していた。例えば、カツオであれば、スマ、マルソウダ、ハガツオなど多種が入り混じっていて、専門家が見れば異様に感じる光景が広がっていた。


各群れは、海面近くを、何かにとりつかれたように高速で泳いでいる。


軍隊のように整った動きに迷いはない。本来なら、各海で生まれた回遊魚は、黒潮に乗って冬から春にかけて北上、そして夏から秋にかけて南下する。だが、今、その群れは南に向かわず、東へと進んでいる。


それは――その群れ全体を滅亡へと導く旅だった。それを理解しているのか、いないのか……群れは迷いを見せずに突き進む。


その行動は、一見すると「種の保存」に反したように見える。


しかし――


そこには魚種という括りを越えた「種の保存」の法則が働いていた。その旅は、生物全体の大局的見地に立ったものだったのだが――その見地に気が付くものはいない。もちろん、その群れ自身も……


やがて……


群れが去り、静けさを取り戻した海には、漂うような海面に映る月と航跡だけが残されていた。


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