神様に脅されて聖女になりましたが皇妃にはなりたくありません!
宮前葵
第一話 性悪女神
帝都の中央を流れるメール河には何本も橋が架かっている。
中でもヴァッケイン橋は一番大きく、通行する馬車や人も一番多い。
そのヴァッケイン橋をその日、私はたまたま渡っていた。奉公していた商店のお使いで対岸の店に行く途中だった。別に急ぎの用事でもない。橋に行く前に近くの店で知り合いと立ち話もした。それくらい緩いお使いだったのよ。
だからその日、そのタイミングで私がその橋の上にいたのは本当にたまたまだった。
しかしそれが、私はおろかこの国の未来を変えてしまう事になるのだから、運命というのは本当に意味が分からないわよね。
幅の広い大橋であるヴァッケイン橋だけど、中央は大きな馬車や荷車が通って危ないので、私は橋の端っこを歩いていた。物凄い人数と荷車が渡っているけど、石造りのしっかりした橋は揺らぎもしない。その中を当時十歳、小柄な私はちょこちょこと人を避けて進んでいた。
橋は、橋の下を船が通過し易いように真ん中が大きく高いアーチ型になっている。私はそのアーチの一番上の所に差し掛かった。
その時だった。
私の向かい方向、橋の真ん中を大きな黒い馬車が進んで来た。黒塗りの馬車はお貴族様の馬車だ。帝都には貴族もたくさん住んでいるから別に珍しくはないけど、その馬車は一際大きかった。
うわー。すごい馬車だー。と私は呑気に目を丸くしていたのだけど、不意に馬車の馬が躓いたか何かをした。そして馬車がバランスを失った。何か運が悪かったのだと思う。御者が慌てて馬車を立て直したのだけど、大きく振られて馬車が私の方に向かって来た。
私はびっくりして身を避けたわよ。幸い、私は躱し切って無事だったのだけど、馬車は橋の、石で出来た欄干にガツンとぶつかってしまった。
それほど強く当たったわけではないと思うけど、その瞬間、馬車のドアがポンと開いてしまった。普通は開かないように留め具を掛ける筈なんだけど。
そしてそのドアから、金髪の子供が一人、フワッと飛び出てきた。多分、ドアの窓から外を眺めていたのだと思う。そしてそのまま、欄干を乗り越えて高い橋の上から、真っ逆さまに落ちていってしまったのだ。
「きゃあ!」「落ちたぞ!」「大変だ!」「ルドワーズ!」
悲鳴が上がる。そして水音。
……自然に身体が動いていた。何も考えていなかったわね。単純に思ったのだ。
助けなきゃ! と。
私は橋の欄干の上に飛び上がった。私の赤毛が舞い上がる。そして目も眩む高さである橋の上から欄干を蹴って、私は躊躇なく空に飛び出したのだ。
「でぇりゃあああぁぁぁ!」
何も叫ばなくても良かったよね、と後になってみれば思うのだけど、私は女の子らしくない雄叫びを上げつつ、落下した子供を追って遥か下の水面に向けて飛び込んだのだった。
◇◇◇
ドボーン! と私は川の中に突入した。水面までは三階建ての建物くらいの高さだったのだから結構な衝撃があったんじゃないかと思うけど、気にならなかったわね。
浮き上がって私は左右を見回した。大昔、まだ故郷の村にいた時に死んだ父さんから泳ぎを教わっておいて良かったわよ。
そんなに遠くない所に金色の頭を見付けた。既にほとんど沈み掛けている。私は水を蹴って急いでそちらの方に向かった。
その子供はもがいていた。泳げないのかもしれない。服を着たまま泳ぐのは難しいしね。私は手を伸ばし、溺れそうになっている子供の手を掴んだ。
「もう大丈夫よ!」
と、私は言おうとした。次の瞬間、私は沈んだ。
教訓としては、溺れる人間を助ける際、安易に近づいてはならないという事ね。どうなるかというと、溺れるものは藁でもなんでも掴んでしまう。つまり、近付いた私も掴んでしまう。
掴むなんて生優しいものじゃなかったわね。
溺れ掛けた子供は、私にガッチリと抱き付くと、私の身体を、頭を掴んで必死に水面上に顔を出したのだ。
その子供は後で知ったけど八歳だった。私より一回り小さい。しかしながら、一回りしか違わないとも言える。その子供が私の頭にしがみ付いたのだ。必死に。するとどうなるか。
私は自由に手足を動かすことも出来なくなったわけよ。手足が動かせなければ泳げない。つまり、沈む。必然よね。
という事で、私は子供にしがみ付かれたままなす術も無く沈み始めた。これはマズイ! と思っても後の祭り。
私は必死に子供を引き剥がそうとするのだけど、子供だって必死だ。ギュッと私の頭を抱え込んでしまう。足は私の脇の下に絡み付いている。
手はほとんど動かず、足を必死に蹴っても二人分の浮力は生まれない。私と子供はブクブクと泡を立てて沈んだ。明るい水面が泡の中で遠ざかって行く。
ブハッと口から空気が出てしまった。苦しい! 息が続かなくなり、視界がぼやけ始める。私は死の恐怖を覚えた。ちょっと待って! 私、こんな所で死ぬの? 子供を助けに来て、子供を助けられもせず一緒に死んじゃうの?
そんなー! いやー!
……そんな声にならない悲鳴を上げつつ、私は水底に沈みながら意識を失った。
◇◇◇
……と、思ったんだけど。気が付いたら私は静かな空間にいた。
いや、水の中っぽいんだけど。苦しくも冷たくもなんともない。
もしかして、これが死んじゃった後の世界? と私は思ったわね。後から見れば当たらずと言えど遠からず、という所だったんだけど。
私は立ち上がって(床に立ったのではない不思議な感覚だった)周囲を見回す。……やっぱり、水の中みたい。暗くてよく分からないけれど。
そして正面に目線を戻すと、いきなり人が現れた。びっくりしたわよね。
その人は大人の女性で、背が高くて綺麗な人だった。虹色の髪と真っ赤な瞳が特徴的で、なんだかニコニコと笑っていたわね。神殿の巫女様が着てるような緩やかな白いローブを身に纏い、金色のサンダルを履いて、やはり金色の杖を持っていた。
頭には複雑な意匠の髪飾りを着けていたし、ネックレス、指輪、腰帯は虹色となかなかおしゃれな人だなと思ったわね。
その女性はとにかくご機嫌な様子で私を見ていたんだけど、やがて鈴の鳴るような美しい声で私に言った。
「気に入りました。勇気といい思いやりといい、決断力といい、聖女として申し分あいません。素質もあるようですしね」
……何言ってんのこの人。としか思わなかったわね。同時にとてつもなく嫌な予感がした。あれだ。お店で何かが無くなった時に、誰が無くしたのかが結局分からなくて、丁稚全員が連帯責任で晩飯が食べられなかった時の様に、私は悪くないのになし崩しに事態に巻き込まれるような、そんな予感だった。
とりあえず私は、気になった事を聞いてみた。
「……聖女ってなんですか?」
「随分冷静ですね。ますます気に入りました」
女性はニンマリと笑った。
「聖女とは、私の力を与えられて、私の僕として、私のために働く者の事です」
はぁ。私は首を傾げるしかなかった。どうやら今やっている丁稚のようなものらしい。と、私は朧げながら理解した。お店を移るようなものかしら。
それにしても分からないのは、なんで私がそんなものにならなければならないのか? という事だった。
「別に、私は聖女とかになりたくないんですけど」
女性はあら? という顔をした。
「聖女になれば私そのものといって良いくらいの力が使えますし、その力を上手く使えば人間界の地位は思うがままですよ。貴女にも悪い話では無いと思いますけどね、それに……」
女性は少し意地悪そうな顔で続ける。
「このままだと貴女は死んでしまいますよ」
「へ?」
「今、私の力で時間と空間を凍結して貴女と話をしています。貴女が聖女にならないのなら、凍結をこのまま解除します。すると貴女はあのまま溺れて水の底に沈んでしまうでしょうね」
……やっぱり溺れたのは夢では無かったらしい。
「それに、一緒に溺れているあの子も死んでしまいますよ」
女性が指差す先に、金髪の子供が浮いているのが見えた。浮いているのでは無く、凍結された時間と空間の中で水の中に沈む途中が見えていたのだろう。
私は愕然とした。
「そ、そんな! あの子だけでも何とかならないの?」
女性はより一層意地悪そうな顔になった。
「貴女が断るなら無理ね。でも聖女になるなら一緒に助けてあげます」
うぬぬぬぬ! この性悪女め! 私は憤怒の思いに駆られた。私の命はともかく、小さな子供の命を取引の材料にするなんて!
しかしながら、これはどうも、聖女になるしかあの子供と私の命を救う方法はなさそうだった。
「……聖女って、何をするんですか?」
私が渋々聴くと、女性は機嫌良さそうに言った。
「頭も良さそうね。ますます気に入ったわ。そうね。聖女の役目は私の信者を増やす事よ。この大陸の各地で私の力で奇跡を起こして、私の力を見せつけるの」
この時の私には彼女が何を言っているのかは全然分からなかったのだが、こんな一方的にいろんな事を押し付けてくる彼女のために一生懸命働けという時点で、もう全然やる気にはなれなかった。
聖女とやらになっても、一生懸命に働いてなんてやんない。私はこっそりそう誓っていた。
しかし、そうとは知らない女性は続いてとんでもない事を言った。
「そうね。それと信者を増やすために、この国をもっと広げたいのよね。隣の国を滅ぼしてそこでも私の信者を増やしなさい。そのために貴女、この国の皇妃になりなさいな」
……は?
なんか途方もない事を言い出したぞ、この女。なんですって? 隣の国を滅ぼせ? 皇妃になれ? 皇妃って何かは分からないけど、隣の国を滅ぼすというのがどういう意味かは何とか理解した。
戦争してやっつけてしまえという意味だろう。ずっと前に、村の近所のお爺さんが、大昔にあった戦争の話をお聞かせてくれた事がある。人がたくさん死んで大変だったと。
そんな大変な事をしろというのかこの女。冗談じゃない。私は内心震えて、そしてけしてこの女性の言う通りにはすまい、と誓ったのだった。
しかしながらそんな事は言えない。死にかけている子供と私自身を生かすために。
「はいわかりました」
私は素直にそう答えたわよ。女性は満足そうに頷いた。
「ふふふ。よろしい。では、貴女に私の力を授けましょう。この女神フェレミネーヤの力を!」
……はい?
女神フェレミネーヤといえば、この帝国各地にある神殿で、一番高い所に飾られている神像の神様じゃないの? え? この傲慢で強引な女性が大女神様なの?
私が仰天してると、大女神様は手に持った金色の杖を振り上げ、その先で私の胸を突いた。
えー! と思う間に杖の先端は私の胸に突き刺さり、そして眩く輝いた。全然痛くはなかったけど、強い光に間近にある私の目は何も見えなくなる。眩しい!
「頑張りなさいね! 私のために!」
相変わらず自己中心的的でしかないそんなセリフが、私の聞いた最後の大女神様の言葉だった。
◇◇◇
「おおい! 大丈夫か!」
聞こえたのはそんな言葉だった。目を開けると、空と、大勢の人の姿が見えた。
「おお、無事だぞ!」
「よくやった! 凄いぞ嬢ちゃん!」
周囲の人々が一斉にそんな風に騒ぎ出した。私には理解が追いつかない。えーっと。その、大女神を名乗るあの自己中女はどこに……?
私は身体を起こす。と、右手が引っ張られた。おや? 右手を見ると、私は右手に小さな手を掴んでいた。
手の先には腕。その先には金髪が見えたわね。それで気がついた。あの馬車から転落した子供だ。
私は身体をガバッと起こし、その子供に顔を近付けた。だ、大丈夫なのだろうか。あの大女神様が本物なら大丈夫なんだと思うけど……。
金髪の、どうやら男の子は、ずぶ濡れではあったけど、穏やかな顔でスースーと息をしていた。気を失っているだけのようだ。ホッとした。どうやら助ける事が出来たようだ。……まぁ、私はしがみ付かれて一緒に沈んでしまった筈なので、この子が助かったのは私ではなく、あの大女神様らしき女性のおかげなのだろうけど。
……その事には感謝しておこう。一応。でも、この子の命と私の命を盾に取って、私を無理やり聖女とやらにしたのは許せないけどね。あんな傲慢な女神のために働いてやるなんてゴメンだわ。それに聖女だとか言われてもイマイチ何をしたら良いか分からないしね!
そんな事を思いながら一人でプリプリ怒っていると、突然私たちの周りを囲んでいた人垣が割れた。そして、立派な身なりのご婦人が飛び込んできた。
「ルディ! ルドワーズ!」
女性は駆け寄ってくるや否や、私と手を繋いで倒れていた子供をガッチリと抱きしめ、抱き上げた。そして大声で泣き始めた。
「かわいそうなルドワーズ! おお! 許しておくれ!」
オイオイと泣いている。どうも子供が死んでしまったと思い込んでいるようだった。周囲の人々が慌てて声を掛ける。
「奥さん! 大丈夫だ! 死んでないよ!」
「ちゃんと生きてるよ! よく見て!」
「その娘が助けたんだ!」
女性はピタリと泣き止んだ。そして、自分が抱き締めていた小さな少年を凝視する。少年が静かに呼吸をしてるのを見た女性の目から、再び涙が溢れ出した。
「ルディ! 私のルディ! 良かった!良かった!」
そしてワンワンと泣き始めた。どうやらこの子供の母親で間違いなさそうね。その大喜びの様子を見れば、私も命懸けで救った甲斐があるというものだ。
女性の後にこれも立派な服を着た男性と、護衛の者らしき兵隊さんがやってきた。男性も真っ青な顔をしていたが、少年が生きているのを確認すると、一転して真っ赤な顔になり「うおー! 奇跡だ!」とか叫びながら少年と女性をまとめて抱き締めていた。どうやらこれが少年のお父さんで、女性の夫で間違いなさそうだ。
少年の一家が涙涙で抱き合っている中、私は誰かが持ってきてくれた布で頭と身体を拭いた。みんな「凄いよ、よく助けられたな!」とか「あの高さから飛び込むなんて大したものだ」とか「あの雄叫びは凄かったよ」とか言ってくれたわね。
私は身体を拭い終わると、布を貸してくれた人にお礼を言って、立ち上がった。とんだ手間を食ったけど、お使いの続きに行かなきゃいけないからね。少年も無事だった事だし。
で、私は歩き出そうとしたのだけど、すぐさま後ろから呼び止められた。
「ま、待ってくれ!」「待って!」
男女二人の声だ。振り向くと、少年のお父さんとお母さんが手を伸ばして私を呼び止めている。二人は少年をこれも身なりの良い女性に託すと、慌てたように私の所にやってきた。
「貴女がルドワーズを助けてくれたと聞きました! ありがとう! 是非お礼をさせてください!」
「ありがとう! 本当にありがとう! 私はヴェリトン公爵だ! 息子の命の恩人をこのまま返すわけにはいかん。何でもお礼をしよう」
ヴェリトン公爵の名が出て、周囲からはどよめきが起こったわね。私には分からなかったけど。ただ、あの馬車といい二人の身なりといい、もの凄くお偉いお貴族様なんだろうな、とは思ったけどね。
なので私は出来るだけ丁寧に頭を下げて言った。
「いいえ。お礼なんて要りません。あの子が助かって良かったです」
別にお礼が欲しくて助けた訳ではないし、実は私は助けてないし、助けたんだからお礼をしろなんて、あの気に食わない大女神様みたいで嫌だったのだ。
しかし私のその言葉を聞いて、周囲の人々からは「もったいない!」「もらっときなよ!」とかいう声が聞こえたわね。そりゃね、金貨の二枚も貰えたら、私も年季奉公のお金が返せて、自由の身になれるんだから、もったいないのはもったいないんだろうけどね。
私の答えを聞いて、ヴェリトン公爵は目を丸くし、次に少し真剣な目付きになった。でも表情は穏やかだったわね。女性、おそらく公爵夫人と思われる方も、随分と楽しそうに笑っていた。そして私に尋ねたのだった。
「貴女、お名前は?」
私は姿勢を正し、ハキハキと答えた。
「ニア、です」
これが私と、私の養父母になるヴェリトン公爵夫妻の出会いだった。
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