第四話 お披露目の夜会

 皇帝陛下の元を辞した公爵一家は帝宮内部を移動して、控え室に向かった。公爵家は皇族なので専用の控え室があるのだ。


 控室にはお兄様二人とルドワーズが待っていた。三人ともビシッとしたコートを着ていて格好良かったわよ。


「姉さま」


 紺色のコートを着たルドワーズがトコトコとやってきて私に抱き付いた。私もルドワーズを抱きしめてホッとする。やっぱり皇帝陛下のところでのお話し合いは緊張したのだ。ルドワーズに癒されていると、アルベルト兄様が凛々しい眉を寄せてお母様に言った。


「皇帝陛下のお話はなんだったのですか? やはり養子を認めないと?」


「陛下のご本心ではそのようだな。なんとか納得して頂いたが」


「ふざけた話だ! どこの家だ。我が可愛い妹にケチをつける奴は!」


 兄様も最初は「こんな娘は公爵家に相応しくない!」なんて言っていたんだけどね。変われば変わるものだ。


「まぁまぁ兄様。ここは夜会で、ニアがヴェリトン公爵家に相応しい令嬢だと見せつければ良いわけだから」


 ヴィルヘルム兄様が私の頭を撫でながら言う。お兄様、お屋敷にいる時は野生児みたいなんだけど、緑のコート姿で隙なくキメていると貴公子にしか見えないのが不思議だ。


「そうだな。私たちが囲んで、無礼な連中がニアに近付かないようにしよう」


 アルベルト兄様も頷いて言った。頼りになるお兄様に守られれば安心だ。


「僕も姉様を守ります!」


 可愛いルドワーズまでそう言ってくれた。私は感動のあまりルドワーズの頬にキスをする。こんな素敵な家族を守られて私は本当に幸せ者だわ!


「ふむ、では行くか。ニア? 心配しないでも良いからな。父が付いている」


「そうですよ。母もいますからね!」


「はい!」


 私は元気良く返事をすると、お母様と手を繋ぎお父様とお兄様、ルドワーズに囲まれて、静々と控室から進み出たのだった。


  ◇◇◇


 入場した広間は広大で、私はちょっと唖然とした。帝都下町の神殿の聖堂よりも大きいのだ。天井も高くてそこには雲の中を飛び回る神々の絵が描かれている。そこからシャンデリアがいくつも下がり、魔法の光で広大なホールを昼間のように照らしているのだ。


 そこここに金で出来た装飾が施され、様々な色の布や花々で飾り付けられ、彫像や磁器が配置されている。そして室内の装飾にも負けないほど飾り立てた大貴族の男女が魔法の光で金糸や宝石を輝かせていた。なんというか、現実離れした空間だと思ったわね。


「ヴェリトン公爵、公妃様、アルベルト様ご入来!」


 侍従の紹介を受けて私達はホールの中に進み出た。お父様お母様とアルベルト兄様しか呼ばれなかったのは、ヴィルヘルム兄様、私、ルドワーズは未成年だからだ。貴族は十五歳で成人になる。それまでは一人前扱いされないのだ。ヴィルヘルム兄様は今年十四歳で冬には成人だけど「成人したら遊べなくなる!」と嘆いていた。


 私達が入場すると、百名ほどの出席者の皆様が拍手でお迎え下さった。入場は身分が高いほど遅いので、ヴェリトン公爵家は最後から二番目の入場になる。最後は皇帝ご一家だ。


 拍手の中入場したのだが、入った途端に私はきつい視線を感じた。教えられた通り笑顔を作っていたけど、背筋がヒヤッとして笑顔を忘れそうになる。私達に注目している貴族の男女の悉くが、実は私に冷たい敵意を向けているのが感じられた。ゾッとするほどの冷たさだったわね。


 皇帝陛下が懸念していた通りだったわね。敵意、侮蔑、嫉妬、更にはもっと大きな憎悪。そういう感情が一気に押し寄せてきて、私は足を止めそうになってしまう。私はこれまでこんな大きな悪意に晒された事は無かった。丁稚として働いていると、大金持ちや貴族がお店にやってくるのだけど、そういう連中は丁稚なんて人間と見做していないから、侮蔑や悪罵はよく受けたし、無視されたり邪魔にされたりはしゅっちゅうだった。でも、あまりにも身分が違い過ぎたから悪意を向ける対象では無かったのだろうね。


 でも、ここでは私は平民出のくせに公爵家の人間としてここに居る。貴族にとって平民なんて人間以下の存在だ。それがなんで自分よりも上の身分になれるのか! そういう怒りが悪意の源泉なのだろう。この時の私にはそこまでは分からなかったけどね。でも息が詰まるほどの悪意。私が歓迎されていない事だけは十分に感じられた。もしも私が物事がもう少し分かる状態で養女になったのだったら、こういう悪意をぶつけられる事が予想出来ただろうこの夜会には出席しなかっただろうし、そもそもが養女の件を自分で辞退しただろうね。


 私があまりの大きな悪意、抵抗感に思わず立ち止まり、後戻りしそうになった時だった。


 ルドワーズが繋いでいた手をキュッと握ってくれた。思わず彼の事を見るとルドワーズは緊張した顔で、それでもニッと笑ってくれたのだった。そして、お母様も身体を寄せて私の肩に手を置いてくれて、お父様もさりげなく私の前に入って貴族からの視線から私を隠す。そして、アルベルト兄様もヴィルヘルム兄様も厳しい表情で私を睨む人々を睨み返してくれた。


 私を守る事を態度で示してくれた家族に、私は勇気付けられ、何とか顔を上げて足を止めずに済んだのだった。


 私達の後に皇帝陛下ご一家が入場なさった。皇帝陛下と皇妃様であるオルファリア様。そして皇子であるカトライズ様だ。オルファリア様は亜麻色髪の美しい方だった。そしてカトライズ様は非常に凜々しい方だったわね。


 カトライズ様はこの時十四歳で私よりも三つ上。ヴィルヘルム兄様と同い年だった。銀色の髪と薄黄色の瞳で顔立ちはお兄様達と親戚だけあって良く似ていたけれど、より一層洗練されているというか、整っているのだ。


 そしてある種の威厳というか、迫力をこの頃から既にお持ちだった。皇帝陛下ご一家の唯一のお子として、次の皇帝としての自覚を既にお持ちだった彼は非常な努力家で、その分誇り高かったのだ。


 皇帝陛下ご一家がお席に座られると、身分順で挨拶をしに行かなければならない。なのでヴェリトン公爵家は揃って皇帝陛下ご一家の元へ向かった。


 夜会の席なので通常は簡単な挨拶をするべきなのだが、今回は私のお披露目である。周囲の出席者も私がどんな挨拶をするかに注目しているだろう。なのでヴェリトン公爵家はまず、一家で立ったまま挨拶をした後に、私だけが進み出た。


 途端に注目が集まって思わず息が詰まってしまうけど、この時のために何度も練習したので身体は動く。私は皇帝陛下の前に跪いた。スカートを優雅に払って、流麗に、あくまでも静かに。右膝を突いて両手は胸に重ねる。身体を前に伏せ、頭は前に落とさない。そして、一拍おいてからはっきりとした口調で挨拶の口上を述べる。


「世界の太陽。東西南北を統べるお方。大女神より帝都を託されしアガルージャの末裔。帝国そのものである麗しき皇帝陛下に、ヴェリトン公爵家のエルファニアが初対面のご挨拶を奉ります。この時より私は皇帝陛下の臣として表裏なく、誠心誠意、全ての力を尽くしてお仕えすると誓います。どうか、私の忠誠をお受け取り下さいませ」


 この時、周囲からほう、と僅かに声が上がった。平民出の私が皇帝陛下に堂々とご挨拶をやり遂げた事に驚いたのだと思われる。皇帝陛下も僅かに眉を上げ、そして満足そうに仰った。


「其方の忠誠を受けよう。以後、我が臣として帝国のために尽くすように」


「ありがたき幸せにございます」


 私は続けて、皇妃様の前に移動して跪く。間近で見ると皇妃様はお母様に少し似ていたわね。多分、親戚関係なんだろう。ニコニコと微笑んでいらっしゃって何を考えているのかよく分からない感じがした。


「皇妃オルファリア様。ヴェリトン公爵家のエルファニアでございます。ご機嫌麗しゅうございますでしょうか。以後、よろしくお導き下さいませ」


 皇帝陛下へのご挨拶に比べれば簡素な挨拶だよね。別に皇妃様を蔑ろにした訳ではなく、こんな夜会の場で長々と挨拶をすると他の方々に迷惑だからだ。皇妃様はゆるりと頷くと、目を細めて仰った。


「よろしくね。エルファニア」


 最小限の応対という感じで、この時は皇妃様が私に好意的でなかった事が分かるわよね。この時の私には分からなかったけど。


 そして私は皇子カトライズ様の前に跪いた。静かに身体を伏せる。


「カトライズ殿下。ヴェリトン公爵家のエルファニアでございます。ご機嫌麗しゅう。以後、よろしくお願い致します」


 すると、カトライズ様はフン、と鼻息を放ったのだった。


「ヴェリトン公爵家には娘などおるまい。どこの誰なのだ、其方は」


 あからさまな侮蔑の言葉に私は目が丸くなってしまう。こんな儀礼の場で、皇子があからさまに私を侮蔑するとは思わなかったのだ。見上げると、皇子は冷たい目で私を睨んでいた。これを見れば、皇子が私の公爵家への養子入りに反対である事は火を見るよりも明らかよね。周囲からもざわめきと嘲笑が起こっている。


 皇子は私の反応を待っているようだった。私は皇子を見上げたまま首を傾げて言った。


「先日、養女になりましたので」


 私が言い返してきたのが意外だったのか、カトライズ殿下は驚いた様な顔をした。そしてより一層表情を厳しくすると、私を睨み付ける。


「誰が認めたのだ! 其方のような平民を公爵家に迎え入れるなど!」


 私はスラスラと答えたわよね。自明のことだったから。


「ヴェリトン公爵たるお父様。公妃たるお母様。そしてお兄様たちとルドワーズが認めて下さいました」


 今度こそカトライズ殿下は驚愕のお顔だったわよね。何をそんなに驚いたのか私にはよく分からないのだけど。周囲で見守る人々もザワザワしていた。そんな中、私の左右にやってきた人が大きな声で言った。


「そうだぞ。カトライズ。エルファニアは私の妹だ。蔑ろにすると私が許さないぞ!」


 アルベルト兄様がきつい目つきでカトライズ殿下を睨んでいた。もう一人、ヴィルヘルム兄様も歯を剥いて怒っていた。


「それ以上ニアを侮辱すると、もう遊んでやらないぞカティ!」


 カティというのがカトライズ殿下の愛称らしい。愛称で呼べるということはヴィルヘルム兄様はカトライズ殿下と相当近しいのだろう。まぁ同い年だしね。


 親戚二人に睨み付けられて、カトライズ殿下は明らかにたじろいだ。


「わ、分かった分かった! もう言わぬ!」


 アルベルト兄様は安心したように頷くと、私の後頭部をポンと叩いた。挨拶を切り上げて戻ろうという意味だろう。私はゆっくりと立ち上がると、カトライズ殿下に向けてニッコリと微笑んだ。


「これから仲良くしてくださいませね? カトライズ殿下」


 その瞬間、殿下は何故か仰け反ったわよね。


  ◇◇◇


 皇帝陛下ご一家へのご挨拶が済んだら、今度はこちらが挨拶を受ける番だ。ヴェリトン公爵家は貴族序列一位だからね。ただ、この場合、他の二公爵家であるラルバイン公爵家、ヤックリード公爵家からの挨拶は受けない。この三家は形式的には同格という事になっているからだ。お父様が皇帝陛下の腹心であり、お母様が皇帝陛下の妹君だから上に扱われているのだけど、格に現れるほどの差は無い。


 しかし「栄えある二十侯爵家」の皆様は全員挨拶に来る。お父様お母様、そして私はその皆様の挨拶を延々と受けたのである。ヴィルヘルム兄様とルドワーズはこの時は席を外してしまっていた。二人は未成年だし、人数が多すぎると挨拶が長引くからだ。それを言ったら私も未成年だけど、今回は私のお披露目なので挨拶を受けないわけにはいかない。


 長椅子でお父様お母様の間に座らされ、アルベルト兄様は私の後ろに仁王立ちしていた。この状態で大貴族の皆様から挨拶を受けたのだ。


 大貴族のご当主様、夫人、ご嫡男がぞろぞろと挨拶に見えたのだけど、正直言って皆様私になんて挨拶をしたくなかったと思うのよ。でも、他ならぬ公爵夫妻が溺愛も露わに間に座らせ、次期公爵であるお兄様が威圧感たっぷりに見下ろすこの状況で、私にだけ挨拶をしないなんて無理よね。


 皆様渋々ご挨拶を下さったわよ。夜会の場だから略式でも言い訳になるから、立ったまま私に初対面の挨拶を下さったわね。私はにこやかに笑いながらそれを受けて「これからよろしくお願い致しますね」と挨拶を返す。「ニアは可愛いからニッコリ笑ってお返事をすれば大丈夫よ」とお母様に言われてその通りにしていたんだけど、今考えるとそういう話じゃ無いわよね。


 ただ、かなり後で仲良くなった方からは「ニア様はあの時からただ者じゃなかった」「どうしてあんな涼しい顔でいられるのか、訳が分からなかった」と言われたので、対応が間違っていたわけではなかったらしい。それにしてもどういう感想なのか? 私はただ緊張を隠して笑顔でいただけなのに。


 一家族の挨拶はものの三十秒くらいだけど、何しろ百家くらいの貴族が参加していた大夜会だから、挨拶がなかなか終わらない。挨拶を終えた方々は宴を楽しみ始めていて、食事をされる方やダンスを始める方などもいらっしゃった。私もいい加減に草臥れたし、お腹も空き始めた。中座するわけにはいかなかったから我慢したけど。お母様は時折私の手を握って「上手よ、ニア」とか「あと少しよ、頑張って」と励ましてくれた。


 この挨拶行列が終わったら、私はアルベルト兄様と皆様にダンスを披露した後、この大広間の魔法の灯りを一度落とし、私の魔力で点ける手筈だった。この広大な大広間の灯りを全て一気に点灯させるなんて大貴族にもそうそう出来ない事であるので、それで私には公爵家の養女に相応しい魔力があることが皆様に周知出来るだろうとの事だった。


 それにしても大変だ。ふと見ると、広間の奥の方で子供達が何やら集まっているのが見えた。


 ルドワーズもヴィルヘルム兄様もいる。それにあれはカトライズ皇子ね。その他にも何人もの少年が集まって、何やら楽しげに遊んでいるような風情だ。それは子供にはこんな夜会なんて退屈だろうからね。私だってこんな挨拶やダンスやお話よりも、あそこに混じって遊びたいわ。


 まぁ、そういうわけにもいかず、私は微笑んで皆様の挨拶を頑張って受け続けた。


 そしてようやくあの数家で皆様のご挨拶が終わろうと、そういうタイミングだった。


  ◇◇◇


「キャー!」


 大きな悲鳴が聞こえて、公爵一家に頭を下げようとしていたお家の方々が思わずそちらの方を振り向いた。疲れ果てて油断すると危うく瞼が落ちそうになっていた私も覚醒して、そっちの方に視線を向ける。


 何やら叫んでいるのは女の人だった。格好が地味なドレスなのでおそらくはお付きの人。彼女が更に叫んだ。


「殿下! 殿下! 大変です! お医者を、お医者を早く!」


「なんだ! 何が起きた!」


 ただならぬ様子に会場が騒然とし、お父様が言った。医者? ということは病気か怪我人でも出たのだろうか。私が思わず立ち上がると、公爵一家の元に走ってくる人がいた。


「大変だ!」


 焦げ茶色の髪と水色の瞳の少年。つまりヴィルヘルム兄様はお父様に駆け寄るなり叫んだ。


「カティが怪我をした! 血が一杯出ている!」


「なに!」


 驚愕したのは話を聞いたお父様だけではない。周囲にいる全員が驚倒した。だってカティってカトライズ殿下の事じゃない! 皇帝陛下の唯一のお子だ。


 後で知った事情はこうである。


 私が先ほど見たように、大人の社交が退屈な未成年の貴族の子供達は、集まって会場の隅で遊んでいたのだそうだ。双六や将棋、カードなどをしていたほか、格闘や剣術試合の真似のような事をしていたらしい。


 そして、そこにたまたま、ダーツが置いてあったのだそうだ。


 ダーツは、点数の描かれた的に短剣を投げつける遊びで、貴族の男性が酒宴の余興でよくやる遊びなのだそうだ。それがこの会場にも用意されていて、それがたまたま子供達が集まっていた所に置いてあった。


 重い短剣を投げつける遊びなのだから、危険なので本来は大人の遊びで子供がやるようなものではない。しかし、大人は社交に忙しく、一応は侍女や侍従が見てはいたようなんだけど、彼らはダーツをやったことが無くて危険性に気が付かなかったみたいなのね。


 それで、子供達は大人を真似てダーツ遊びを始めてしまったらしい。成人年齢に近い子供達。つまり十四歳のヴィルヘルム兄様やカトライズ皇子などが率先して遊び始めたのだそうだ。ちょうど大人に憧れる年齢だしね。


 で、彼らは短剣を的に投げつけ、楽しく遊んでいたのだそうだ。しかし持っているのは本物の短剣だ。実は酔っ払ってダーツをしている最中に怪我をする事故は、大人でも良くあることらしい。重大な事故に発展する事もあるそうだ。


 で、事件は起こる。


 丁度カトライズ殿下の番になり、皇子が短剣を持って狙いを定めている時の事だった。近くで剣術の真似事をしていた子供達が白熱のあまり大きく動いて、カトライズ殿下にぶつかってしまったらしい。カトライズ殿下は集中していたために躱せず、あっとばかりに前のめりに倒れた。そして思わず突こうとした手には鋭い短剣を持っていた。


 手を突いたが勢いは殺せずそのまま床に叩きつけられる。その時に短剣がカトライズ殿下の首に刺さってしまったのだ。


 言うまでも無く首は人体の急所である。自殺の際に首を突くくらいの箇所だ。皇子の首からは血が噴き出し、助け起こそうとした侍女が悲鳴を上げた、という事だったのだそうだ。


「大変だ!」


 お父様は慌てて立ち上がり、お母様も悲鳴を上げて私を抱き寄せた。


「医者を、いや、癒やしを使える者は!」「早く、血が止まらぬ!」「殿下! しっかり!」「カティ! カティ!」


 騒然としている。これだけ大魔力を持っている大貴族がいるのだから、癒やしが使える方くらいいるだろうと思うかもしれないけど、普通の貴族は私が習ったような弱い癒やしが使えるのがせいぜいで、皇子が負ったような大けがを癒やせる強い癒やしは専門のお医者様くらいしか使えないのだ。これは繊細な儀式が必要な事と、魔力の色が癒やしに向いた、つまり大女神フェレミネーヤの強い加護を受けた魔力でないと強い癒やしの力が使えないかららしい。


 つまりこの場には強い癒やしを使える者が居なかったのだ。勿論、帝宮には皇帝陛下ご一家の侍医が住み込んでたのだが、この夜会には出席していなかった。既に呼び出すために使いが走っていた筈だけど、とても間に合うまい。


「カトライズ! 目を開けて!」


 皇妃様の悲痛な叫び声が聞こえる。何人かが無駄を承知で必死に弱い癒やしの魔法を使っているようだけど、血を止める事も出来ないようだ。会場には絶望的な雰囲気が流れ始めていた。


 その時。


 私はお母様の側から飛び出して走り出していた。「ニア?」お母様の戸惑った声が聞こえたけどそれどころではない。


 私がこの時思ったのはルドワーズのために橋から飛び出した時と同じ。


「助けなきゃ!」


 という思いだけだった。


 助けなきゃ! 私なら助けられる筈! だって、癒やしの魔法は教わったもの!


 それが根拠だった。……勿論、魔法を習い始めたばかりの私には、癒やしにも色んな種類があるなんて知らないからね。全部同じだと思っていたのだ。大けがや沢山血を失った場合は、大女神様に願う儀式を行い長い術式を組み上げて大きな魔力を奉納する大魔法でなければ治せないなんて事は後で知ったのだ。


 そんな事を知らない私は自分になら助けられると誤解して走り出したのだった。


 騒ぎの中心に人をかき分けて到達する。そこは血まみれの、なかなか刺激の強い惨劇の舞台だった。ドレスを血で染めた美しい貴婦人(皇妃様だ)がぐったりとした青白い顔の少年を抱いて泣いている。周囲の方々はほとんどが既に諦めたのか、沈痛な表情だ。何人かはまだ癒やしの魔法を掛けているけど、効果が無いのか魔力が尽きそうなのか苦しげな表情だ。


 カトライズ殿下のお命は急激に尽きようとしていた。もう一刻の猶予もない。父さんが病気で死んだ時の事を思い出す。


 私がお側に走り寄ると、皇妃様が驚きに目を見張った。「な、何を……」とか仰ったけど私はそれどころでは無かった。ぐったりしているカトライズ皇子の首にはまだ血が流れ出している傷がある。私はそこに両手を当てた。皇妃様は驚き、怒り、私の手を払いのけようとする。しかしその一瞬前、私は叫んだ。


「大女神フェレミネーヤよ! 私に力をお貸し下さい! 傷を癒やし再生する力を! この者を癒やせ!」


 すると私の手から濃い緑色の光が爆発的に沸き上がった。皇妃様も周囲の人々も驚愕する。しかし、所詮は小さな癒やし。血の流出は治まり始めたけれど、傷口は塞がらない。むむむ、おかしい。お家で試した時には切り傷が一瞬で塞がったのに。何も知らない私は思った。魔力が足りないのか、それともあのいい加減女神がサボってるんじゃないのかと。


 私は気合いを入れ直して魔力を注ぎ込む。私の赤い髪の毛が魔力が起こした風に踊り、後で聞いたけど薄茶色の瞳は金色に輝いていたそうだ。そして私は叫ぶ。あの時見たいけ好かない女神の顔を思い浮かべながら呼び掛ける。


「大女神フェレミネーヤ! 力を貸しなさい!」


 その瞬間、私の手から吹き出す光は緑の閃光になった。あまりの眩しさに目を開けてもいられない。でも魔力の放出は止めない。光は瞼の裏まで届き、目を焼いた。風は暴風になり、吹き飛ばされそうになる。私は必死に足を踏ん張って皇子に手を当て続けたわよ。


 ……ふっと風が止んだ。癒やしの魔法は対象を癒やすと終わる(実は死んじゃっても終わるんだけど)。私は慌てて目を開けた。何度か目を擦って閃光に奪われた視界を取り戻す。どうだろう。魔法が終わったんだから効いたんだと思うけど……。


 ぼやけた視界に、ぐったりとしたままの皇子の無防備な寝姿が映った。先ほどとは明らかに違う。それに首の所の傷が無いもの。じっくり見ても、呼吸は普通にしているし、顔色も普通に戻っている。


 どうやら助けられたようだ。私はほーっと息を吐いたわよね。凄いね魔法って。死に掛けた人まで癒やしてしまうんだから。私は安心してそんな感想を持ったのだけど、実は私のしでかしたことはそれどころでは無かったのだということは、すぐに明らかになった。


「カティ!」


 大きなお声が間近で聞こえて私はビクッとなったわよね。皇妃様が歓喜の声を上げて皇子を抱き締めたのだ。同時に、周囲から大歓声が起こった。


「凄い!」「なんと癒やしたぞ!」「どういうことなんだ!」「なんだあの魔力は!」「大女神様の力ではないか!」「女神の化身だ!」


 わーっと大騒ぎになった。え? 何事? と思って呆然とする私の背中にドーンと何かがぶつかってきた。そしてそのまま私は抱き締められる。


「凄い! ニア! 凄いぞ! カティを助けてくれてありがとう!」


 ヴィルヘルム兄様が私を泣きながら抱き締めて、抱き上げて振り回し始めた。きゃー! 私も助けられたのは嬉しかったので喜んではしゃいだわよね。


「ニア! 貴女は大丈夫なの? あんなに魔力を使って大事ない?」


 お母様が駆け寄って、ヴィルヘルムに今から私を奪い取ると、私の顔や身体をぺたぺた触って確かめ始めた。別になんともない。多分魔力もまだまだあるよね。私が首を傾げると、お母様は満面の笑みとなり、私を胸にぎゅっと抱き締めた。


「よくぞ皇子を助けてくれました! 流石はニアです。流石は私達の娘です」


 お母様に褒められた事が誇らしくて嬉しくて、私もお母様にぎゅっと抱き付いたわよ。そうやってお母様に甘えていると、後ろから声が掛かった。


「エルファニア……」


 振り向いて見上げると、皇子を侍従に託した皇妃様が涙をダラダラと流しながら私を見下ろしていた。私がお母様から離れて、畏まって皇妃様と向かい合うと、突然皇妃様は私にガバッと抱き付いてきた。私は目をパチクリしてしまう。


「ありがとう! ありがとう、ありがとう! なんと、なんとお礼を言ったら良いか……!」


 皇妃様は嗚咽しながら私を痛いほど抱き締めてくれた。なにしろ一人息子なのだ。失い掛けた絶望と取り戻した歓喜は想像に難くない。私も喜んでくれて嬉しかったわね。助けた甲斐があったというものだ。


 皇帝陛下も駆け付けて下さって、皇妃様と並んでもう感謝感謝の雨あられという感じだったわ。皇子は別室に運ばれて飛んできた侍医の診断を受けたのだけど、どこに怪我をしたか分からないくらいだったそうで、本当に怪我をしたのかと訝っていたそうだ。


 こんな大事件があったのだもの。夜会は中止になり、私のダンスのお披露目は持ち越しになってしまった。魔力のお披露目の計画も無くなった。


 しかしまぁ、この事件の後には、この帝国の貴族で私を知らない者も、私が公爵家の養子になることを認めないという者も、もう居なかったけどね。

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