第五話 聖女認定
カトライズ殿下を癒やした翌日、私とお父様お母様は再び帝宮に招かれた。朝早くから準備をしたから、昨日夜更かしした私は眠くてたまらなかったけどね。平民は夜は蝋燭やランプの油が勿体ないので夜はすぐ寝てしまうから。
昨日は皇族用の通用口から入ったのだけど、この日は正面入り口。来客口で降りた。豪華絢爛かつ威圧的な来客用エントランスホールに目が丸くなってしまう。しかし、皇族口から入るという特権をなんで使わないのかしら?
それは、この比のヴェリトン公爵家はお客様として招待されていたからだ。正確には「私」がお客様だったのよ。この時の私が知る由もなかったけどね。
バーンと広くて華麗な装飾や絵画で埋め尽くされた廊下をお母様に手を引かれて歩く。侍従や侍女や警備の兵士が私達に頭を下げている。? 不思議なことに、昨日感じたような悪意は全然感じられない。昨日は私を見る人全員が遠慮無く悪意をぶつけてきたのに。
そして控え室(これも公爵家専用のお部屋では無く、更に豪奢な外国から来る来賓をもてなす時に使う控え室だった)で少し待ち、侍従が呼びに来たので立ち上がってその侍従に続いて、私の身長の三倍はあろうかという高さの扉の前までやってきた。大きいだけでは無く、勇ましい騎士と神々の彫刻が施され、金銀で装飾されている。明らかに重要なお部屋の扉だ。
侍従が二人でゆっくりと扉を開くと、荘厳な音楽が鳴り響き、目の前にドーンと大空間が広がった。後で知ったけど、帝宮で一番大きな謁見室で、通常は国賓の謁見や戦勝将軍の凱旋式くらいでしか使わない特別な謁見室だったのだ。
真っ直ぐに伸びた紫色の絨毯の上をお母様に手を引かれて進む。お行儀を意識したからキョロキョロは出来なかったけど、頭上には大貴族の家族旗が何枚も下がっているし、絨毯の左右には帝国の誇る近衛騎士が華やかな鎧を身に纏って等間隔に直立不動で立っている。非常に壮大で厳粛な儀式的な空間だ。私は一体何事なのかと目を瞬いたわよね。
絨毯の左右には何百人という貴族の皆様が正装を纏って綺麗に整列して立っていた。そして私達に静かに頭を下げている。儀式の主賓に頭を下げるのは当然なのかもしれないけど、それにしても静かだ。昨日感じた悪意はまるで感じられず、それどころか息を詰めて、緊張も露わにこちらを観察しているようにすら感じる。畏敬、と言えば良いのだろうか。そんな感じだ。それはお父様お母様は公爵夫妻なんだから、畏敬されるに足る存在なのだろうと思うけども。
階の正面に私達が辿り着くと、程無く侍従が大きな声を張り上げた。
「世界の太陽。東西南北を統べるお方。大女神より帝都を託されしアガルージャの末裔。帝国そのものである麗しき皇帝、ベルリウス陛下! 並びに皇妃様、カトライズ皇子ご光来!」
その声に合わせてお父様お母様が跪く。私もなるべく優雅に膝を突いた。皇帝陛下を讃える音楽が鳴り響く中、皇帝陛下ご一家がご入場なさった。カトライズ殿下は普通に歩いていた。すっかり良くなったんだ。良かったわ。
「皆のもの。面を上げよ」
皇帝陛下のお声に貴族の皆様はゆっくりと頭を上げ、ヴェリトン公爵一家は立ち上がる。見上げる位置にある席にお座りの皇帝陛下、皇妃様。そしてその横に立つカトライズ殿下はすぐ間近に見えた。
私は何も聞かされずにここに来ている。なので一体これは何事なのか? と思っていたわよね。昨日、あの事件で大騒ぎになって、私はお父様お母様に色々質問されて、お二人は私が寝た後にも何やらしていたようだった。多分その結果がこの大仰な謁見になっているのだと思うのだけど。
普通、謁見ではここで皇帝陛下から来賓に対してお言葉がある筈だ。しかしこの時は違った。
皇帝陛下、皇妃様が立ち上がり、カトライズ殿下も一緒に階を降り始めたのだ。私の身長ぐらいの高さで七段ある階をゆったりと降りて来る。これは異例も異例、あり得ないような事だったとは随分後で知った。
皇帝御一家は並んで降りてくると、私の前に立った。お父様お母様は私を残して一歩下がっている。え? 取り残された私が思わずお母様に振り返ろうとしたその時だった。
皇帝陛下御一家が一斉に跪いたのだ。見守っていた貴族の皆様がどよめく。それはそうよね。皇帝陛下が跪く相手などこの帝国にはいない筈だ。皇帝陛下が膝を突く相手は神様のみ。それが帝国の常識なのだ。私は知らなかったけど。
「聖女よ。感謝致します」
皇帝陛下が仰った。声に感激の色が滲んでいる。皇妃様も表情に歓喜の色を表して言う。
「聖女エルファニアよ! 息子を助けて下さって感謝致します。そして帝国を末長くお助け下さいませ!」
……え? 帝国で一番お偉いお二人に跪かれて感謝されて、流石の私も戸惑ってしまう。それに、なんでいきなり私、聖女扱いになっているのかしら?
って、それには心当たりがある。というのは昨日、お屋敷に帰った私はお父様お母様、お兄様達に大袈裟に褒められた。物凄い魔力だった! 小さな癒しを魔力を押し込んで効果をあれほど高めるなんて信じられない! あの輝きはまさにフェレミネーヤの緑! あんな純粋な緑色は見た事がない! ニアはフェレミネーヤの化身に違いない! とか。
あんまり褒められて私はちょっと不安になった。あの魔力は私が出したのだけど、実は大女神様からもらった(押し付けられた)力で、実は私の実力ではない。それをこんなに褒め称えられると、正直ちょっと居た堪れない気分になったのだ。
あんまり人に言う事でもないだろうと思って、お父様お母様にも話していなかったけど、これからも魔力を使う機会があるのなら、この魔力は実は私自身の魔力じゃないのだと言っておいた方が良いのかも。
そう思った私は「実は……」とお父様お母様にメール河に飛び込んだ時に大女神フェレミネーヤとお会いして、力を授かった事をお話しした。その時の「契約」の内容はまだ秘密にしておいたわよ。
私は、お父様お母様が「なーんだ」と言うと思っていたのよ。それで怒られたり呆れられたりしたら嫌だな、とまで思っていた。隠し事をしていたんだからね。
ところが、私の話を聞いてお父様お母様の顔色が変わった。お母様は青い顔をして「なんでそれを早く言わなかったのですか!」と叫んだわよね。
私はびっくりして、やっぱり隠し事を怒られたと思って「ごめんなさい」としょんぼりしたのだけど、お母様は私を抱きしめてさらに叫んだわよね。
「やっぱり私の目に狂いはなかった! ニアはやっぱりタダモノじゃなかったのよ!」
お父様も大きく頷いた。
「そうだな。しかし、そうか……」
お父様お母様はそこから難しいお顔で考え込まれてしまい、私はヴィルヘルム兄様に連れられてお部屋に下がったのだった。不安がる私に兄様は安心させるようにニコニコと笑い掛けて「大丈夫だよニア。ニアはカティを助けた英雄なんだから、きっと凄い褒美をもらえるぞ」って言ってくれたわね。
で、朝起きたらいきなり「今日は謁見の儀式があるから」と身支度を整えさせられたのだ。お父様お母様は晴れやかなお顔で、常にも増して私をニコニコしながら撫でてくれたので、私はてっきりヴィルヘルム兄様の言う通りご褒美をもらえるのかと思っていたのよね。
それがそれどころではなかったという訳だった。
「皆のもの良く聞くが良い。ここにいるエルファニア姫は、大女神フェレミネーヤと直接お会いしてそのお力を授かった、聖女である」
大きなどよめきが起こる。皇帝陛下にお話しした事はないのだから、陛下はお父様お母様から報告を受けたのだろう。実際、あまりに重大な事であるから、夜なのに構わずお父様お母様が帝宮まで緊急で登城して、皇帝陛下と皇妃様に報告したのだとは後で聞いたわね。
「皆の中にも昨日の夜会で我が息子の傷を癒した奇跡を見た者もいるだろう。あの緑色の甚大な魔力を見れば、大女神のお力を授かったという事が、嘘ではないのは明らかであろう」
皆様は静まり返っていたわね。異議の声は聞こえない。それほど、昨日の夜会で私が行った事は非常識な事だったのだ。
「帝国の長い歴史上、大女神様にお会いしたという人間は三人しかいない。太祖帝アガルージャ。二百年前の聖女ローリュージュ。百年前の英雄サズリード。……私は皇帝としてここに、このエルファニアを四人目と認定し『聖女』の位を授けるものとする!」
おおおお! っと大きなどよめきが沸き起こったわよね。二百年ぶりの聖女の誕生なのだから当然かもしれないけど。でも当然私には分かっていない。確かに、大女神様は私に「聖女になれ」とは言っていたけれど、私は聖女が前例のある階位だとは知らなかったのだ。
「聖女エルファニアよ、帝国をお護り下さい」
皇帝陛下が唱えると、その場の全員が一斉に跪いた。お父様お母様までもだ。そして一斉に唱和する。
「「聖女よ、帝国を護りたまえ」」
私がもう少しものの分かる年齢だったら、恐らく卒倒していたでしょうね。皇帝陛下、三大公爵家、二十侯爵家の皆様が揃って頭を下げたのだ。この平民出の小娘に! とんでもないことだ。良く分かっていなかったこの時の私でも、これはとんでもない事になった事だけは理解出来た。
全員が祈りを終えると、皇帝陛下は立ち上がり、優しい笑顔を私に向けた。おそらく私が困惑と恐れを顔に出していたからだろうね。
「前聖女であるローリュージュ様は平民の巫女の出であった。そして帝室に迎えられ皇妃にまでなられた。その前例から言えば、聖女であるエルファニア様は帝室に迎え入れるべきだが」
皇帝陛下はそこでチラッと私の後ろを見た。
「ヴェリトン公爵家が手放す筈もないな。故にエルファニア様は公爵家養女のままとする」
見上げるとお母様が私の肩に手を置いて、皇帝陛下を睨んでいた。私を奪おうとするならたとえ皇帝陛下でも許さない! という態度だった。私はホッとした。聖女になってもお母様の娘でなくなるのは嫌だったのだ。
「まぁ、帝室に迎え入れるのは今でなくても良いのだからな」
皇帝陛下はニヤッと笑った。お母様が渋い顔をする。
「エルファニアをカトライズ殿下と娶せるというのですか?」
「前聖女ローリュージュ様は皇妃になられた。つまりはそういう事だな」
前例があるという訳だ。それを聞いて私の頭の中に、あの意地悪そうな顔をした美しい女性、大女神フェレミネーヤその人(?)の姿がまざまざと蘇ったのだった。
あの性悪女神は言ったのだ。
「貴女は皇妃になって、隣の国を滅ぼして帝国を拡げなさい」
と。
そ、そうだった! 私は愕然とした。
元より夢現で、しかも言葉が難しくて良く理解できず、一年も前の事でその間に色んな事があり過ぎてほとんど忘れ掛けていた大女神様の言葉だったのだけど、こんな事態になってしまうと、思い出さない訳にはいかなくなる。
た、大変だ。
大女神様の言葉通り私が罷り間違って皇妃になってしまいでもすると、もしかしてこれも大女神様の言葉通り隣国との戦争になってしまうかも知れないじゃないの!
そんなの困る! 私のせいで戦争が起きてみんなが困るような事になったら大変じゃない! そんなのは嫌だ! 断固拒否だ!
……そうよ。私は今この場で、皇帝陛下認定の聖女になってしまったのだけど、まだ皇妃になる事は決まっていない。聖女になったって皇妃になんてならなければ良いのよ。うん。そうすれば私には戦争を起こす事なんて出来なくなるだろう。聖女が隣国に攻め込め、なんて皇帝陛下に指示は出来ない筈よね。
つまり、私がカトライズ殿下と結婚しなければ良いのだ。
私がそこまで考え。よし。私は殿下とはなるべく近付くまい、と誓いかけた、その時だった。
「エルファニア様」
その当のカトライズ殿下から声が掛かったのだ。銀髪に薄黄色の瞳の美少年。その彼が目を潤ませて私を見詰め、私の手をギュッと握ったのだからかなりの破壊力だった。まだ恋愛事に疎く鈍感な私でも分かるくらいだったのだから相当なものだ。
殿下は私の事をしばらく愛おしげに見詰めると、静かに跪いた。厳粛な儀式のような所作に、謁見の間が静まり返る。私も思わず生唾を飲み込んだわよ。
カトライズ殿下は私の右手を捧げ持つようにして、ご自分の額に押し付けた。習ったので知っているけど、これは忠誠を捧げるという意味合いのある動作で、最大限の感謝や謝罪を示す行為だ。皇子ともあろう方が臣下にするようなものではない。
しかしカトライズ殿下はその姿勢のまま静かに仰った。
「まずは謝罪を。知らぬ事とはいえ、聖女様に対しての数々の無礼。まことに申し訳ございません。そして感謝を。あのような無礼な態度を見せたにも関わらず、そのお力で我が命を救って頂きました」
カトライズ殿下の足元に、ポタリと滴が落ちる。殿下の涙だ。私は息を呑む。
「この感謝の思い。表現する方法がございません。ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
殿下のお言葉と同時に、皇帝陛下も皇妃様も揃って頭を下げる。頭を下げるのは謝罪の意を示す時だけで、皇帝陛下と皇妃様が謝罪の意を明らかするなんて本来はあってはならないのだ。
しかしそれだけに、皇帝陛下御一家の感謝は私の胸に響いた。心が温かくなった。やっぱり助けて良かったのだ。頑張って良かった。大女神様ありがとう。素直にそう思ったわよね。
「助けられて良かったです。大事なお身体なんだから、気を付けなければダメですよ」
「ありがたいお言葉、肝に銘じます」
カトライズ殿下はそう言って顔を上げると、すっきりとした顔で微笑んだ。それから、私の手を再度捧げ持つと、それを裏返した。つまり私の手の平を上にしたのだ。意味が分からない私と違って、後ろのお母様には分かったようだ。「あ……」という呟きが聞こえた、
そしてカトライズ殿下は静かに私の手の平に口付けをした。その瞬間、周囲の方々は再び大きくどよめいた。
「エルファニア。私の女神よ……」
カトライズ様が朗々と、口上を述べ始めた。のだが。
その途中で私は後ろから引っ張られた。脇に手を入れてブラーンと持ち上げられ、カトライズ殿下から引き離される。
「ダメです! まだ早いです! 二人とも未成年ではありませんか!」
お母様が私を奪い取って叫んでいた。私には何の事やら分からない。カトライズ殿下は苦笑いをしていた。
「邪魔をするとは無粋ではありませんか。叔母上」
「ニアはまだ帝室には渡しません! ダメです!」
お母様はきっぱり言い切ると、私を自分の背中に隠してしまった。その様子を見て周囲から笑いが漏れた。好意的な笑い声だ。
皇帝陛下も苦笑して仰った。
「そうだなカトライズ。まだ早い。アイリーヴェに嫌われたらエルファニア様に近付くのも容易ではなくなるぞ」
「それは困りますね」
カトライズ様はクククっと笑うと、改めて私の事を見詰めた。
……なんだかこの方、昨日はまだまだ結構ヤンチャな子供に見えたのに、今日はグンと大人びて見える。なんだろう? 死に掛けて蘇ったから、という訳ではないわよね?
ようやくお母様に下ろされた私に、殿下は落ち着きのある声で言った。
「分かった。急がぬ。ただエルファニア姫。一つだけお願いがあるのだが、良いだろうか?」
私は首を傾げる。皇子からお願い? 何だろう。
「私も、貴女を、愛称のニアと呼んでも良いだろうか?」
身構えていたのに拍子抜けするようなお願いだった。なんだそんな事か。良いも悪いも、私の本名はニアだ。未だにエルファニアと呼ばれると誰の事かと思うくらいだもの。むしろニアと呼んでくれた方が私の気が楽だ。
「ええ、良いわよ?」
私があっさり答えると、お母様がまた「あ……」っと言った。え? なんか不味かった?
しかし今度は殿下の前から奪い取られるほどの事では無かったようだ。カトライズ様は嬉しそうに微笑むと、胸に手を当てて芝居掛かった動作でこう言った。
「ありがとう。ニア。では、私の事もカティと呼んで欲しい」
……貴族令嬢を愛称で呼ぶ事が出来るのは家族のみで、愛称呼びを許すのはその人を家族並みに信頼している事を示し、それが異性ならその方に特別な感情を持っていると言うに等しく、ましてお互いに愛称で呼び合うなど恋人関係であると宣言しているようなものだ、という事を私が知ったのはまだまだ後の事である。
◇◇◇
聖女認定の儀式から帰宅したヴェリトン公爵家では家族会議が開かれた。議題は「皇帝陛下とカトライズ殿下がニアを狙っている件について」だった。
「ふざけた話じゃないの! あれほどニアの養子入りに難色を示していた癖に! お兄様ったら!」
お母様は憤慨していた。ヴィルヘルムお兄様も怒っている。
「カティだってニアにあんな態度取ったくせに!」
それはそうなのだろうけど、それは私が聖女だとは知らなかったからで、私が最初から大女神様とお会いした事を打ち明けていれば良かったのだ。なんか申し訳ない。
ただ、もしも養子入り前に私が聖女である事が発覚したら、それこそ養子入りは認められず、私はそのまま帝室に取り込まれただろうという話だった。私はヴェリトン公爵家の家族になれて良かったと思っているので、その意味では良かったのだ。
問題なのは、二百年前の聖女様は私と同じ平民出にも関わらず、聖女認定の後に皇妃になっているという事だった。大女神様の力を授かった聖女の存在は大き過ぎて、大女神様から帝国を預かっている事になっている皇帝陛下としては他に譲るわけにはいかないのだろう。是が非でも帝室に取り込みたいのだ。
なので皇帝陛下の狙いは明らかに私とカトライズ殿下の縁組だろうとの事だった。そして私を皇妃にすれば、帝室は聖女を取り込み、魔力的にも権威的にも盤石になる。これがヴェリトン公爵家が聖女を独占してしまうと、公爵家の権威が帝室を超えてしまう危険があるのだとか。
そのためお父様曰く、カトライズ殿下と私の婚姻は避け難い、という話だった。同じ皇族とはいえ、帝室とヴェリトン公爵家は同格ではない。まして皇帝陛下が正当な理由でお望みの縁談を断固拒否は出来ない。それはそうだろうけど。
難しい話は分からないけど、カトライズ殿下と結婚するのは困る。あの陰険大女神の思い通りになるのも気に入らないし、貴族にも平民にも迷惑だろう戦争なんてとんでもない。私は絶対に皇妃にはなりたくない。
私がむすっとした顔をしていたからだろうか、お母様が私をギュッと抱きしめて叫んだ。
「大丈夫よ! ニアは私が当分手放しませんからね!」
「お母様!」
私もお母様に抱き付く。私もまだまだお母様やお父様に甘えたい。正直、皇妃とか女神様とかを抜きにしてもまだ結婚なんて考えたくないのよね。そもそも結婚がどういう事なのか、私はいまいち分かっていなかったし。
恋愛感情に至ってはもっと分からない。それは、今日のカトライズ殿下はちょっと格好良かったとは思うけど。でも、彼を好きかとか愛せるかとか聞かれても、この時の私には答えられなかったと思う。
私がお母様にグイグイ抱き付いて甘えていると、私の背中からルドワーズがドーンと抱き付いてきた。ルディは私がお母様に甘えているとヤキモチを妬くことがあるけど、今日はちょっと違うようだ、私のお腹に手を回して私の背中に顔を押し付けている。
「姉様は僕の! 誰にも渡さない!」
あらあら。私は嬉しくなり、ルドワーズに抱き付く。可愛い弟だ。ルドワーズも嬉しそうに私に頭を擦り付ける。
「そうだ! ニアは僕の妹だもの。カティには渡さないさ!」
ヴィルヘルム兄様も私とルドワーズをまとめて抱き締めてくれた。私もルドワーズもきゃーっと大喜びだ。更にアルベルト兄様もニコニコと笑いながら私の頭を撫でてくれた。
そうよ。私はお嫁になんて行かないで、この仲良し兄妹でずっとここで暮らせば良いのよ! そうすればあの意地悪女神の野望は挫けるし、私は幸せだし良い事尽くめじゃない。そうしよう!
この時の私は本気でそう思っていたのよね。
もちろんだけど、お兄様達もルドワーズも結婚しないわけには行かないし、私もお嫁に行かないわけには行かないのだ。ずっと一緒にいられるわけがない。
更に言うと、お兄様二人もルドワーズも皇族であり、この帝国の決まりでは立派な皇帝候補なのだった。あまり例が無いとはいえ、カトライズ殿下に代わって皇帝に選ばれる可能性は十分にあるのである。
そして、全然自覚は無かったのだけど、聖女になった私は皇帝選びにおける重要な鍵となる存在となっていたのだった。
つまり、聖女は皇妃になるという前例に照らせば、逆に言えば私の選んだ夫が皇帝になる可能性が高くなる、という事でもある。
私がカトライズ殿下を選ばなくても、もしも義理の兄であるアルベルト兄様ヴィルヘルム兄様、義理の弟のルドワーズの誰かを夫に選んだ場合、その彼が皇帝になるだろうということなのだ。更に言うと公爵家の令嬢は帝室か他の公爵家の方と結婚するのが通例で、その場合は嫁いだ相手がやはり重要な皇帝候補になることだろう。
そして、お父様もお母様もこの時点で、兄弟の誰かを私の夫にしようと考え始めていたらしい。理由は、私を他にやりたくなかったかららしい。息子を皇帝にする気はなかったみたいだけど。
そんな訳で呑気でまだ幼かった私の知らない内に、いつの間にか聖女嫁取り競争=皇帝レースがいつの間にか始まってしまっていたのだった。私がそれを知ったのは随分と後で、その頃にはすっかり深みに嵌って抜け出せなくなっていたんだけどね。
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