第十二話 聖女の初恋

 夏の終わり、私はまたヴィルヘルム兄様と七人の騎士と共に混沌回復の旅に帝都を出発した。帝都に近い所にある混沌は回復させ終わっており、今度の所は帝都から十五日も離れた遠い所にある混沌だった。


 山を越えたり、大きな河を渡って旅をする。私もヴィルヘルム兄様も、同行する騎士ももう旅慣れた者達ばかりだった。なので旅はいつも通り順調に進んだ。


 この所、帝都にいると皇位継承だの結婚だので色々気疲れすることが多くて、私もヴィルヘルム兄様も辟易としていたのだ。こうして旅に出てしまえばその雑音から少しは逃れる事が出来る。こうして帝都の外に出てしまえば、私とヴィルヘルム兄様はただの仲の良い兄妹だからね。


 私達は現地までは楽しく旅をして来たのだが、混沌がある領地にやってくると、その惨状に沈黙するしかなかった。


 混沌は土地が三女神の魔力を完全に失ってしまった状態だ。領主が奉納する魔力が不十分だと、土地の魔力が段々不足し、限界を超えると混沌に陥る。


 だから混沌に陥ってしまった土地の周りは魔力が不足してしまっているものなのだ。今回来た土地はそれが特に顕著で、女神の恩寵がほとんど感じられないくらい荒廃してしまっていた。


 土地は乾燥し、風が吹くと砂埃が舞い上がる有様で、作物どころか雑草すら生えていない。村の人口は規模からしたら驚く程少なく、大半が老人だった。恐らく逃散してしまった村人が多いのだろう。


 あまりの惨状に言葉を失った私達は、混沌に入る前にこの地の領主に会いに行く事にした。領地に魔力を捧げるのは領主の義務だ。こんな状況になる前に何とかならなかったのだろうか。


 しかし領主のハバライズ伯爵は領地屋敷で私たちを迎えてくれたのだけど、まだ四十代の伯爵は、それはもう見るからに疲弊していたのだった。一目見て、これは責める訳にはいかないな、と思った。


「良く来て下さいました。聖女様」


 伯爵は暗い顔で言った。


「ですが、今更混沌を回復して頂いても、もう手遅れでございましょう。ご覧頂いたと思いますが、もう農地は荒廃して領民は逃げ去っております」


 伯爵は自嘲するように笑った。


「私の魔力では、混沌を回復して頂いても、もう土地を復活させる事は出来ません。先祖代々治めていた土地ですが、皇帝陛下に返上するしかございませんな」


「どうしてそんな事になってしまったのですか?」


 私の質問に伯爵は肩を竦めた。


「どうしたもこうしたも、単純に魔力が足りないのですよ。曾祖父の代にはこんな事はなかったようです。しかし、私達が懸命に魔力を奉納しても、土地は痩せる一方。遂には混沌に陥ってしまいました」


 聞けば毎日魔力を全力で奉納し過ぎたせいで、伯爵の奥様は早死にしてしまったという。


「帝国全体的で魔力が減っている影響でしょう。年々酷くなる。何度も皇帝陛下には窮状を訴えたのですがね」


 暗に皇帝陛下を非難する声色だったわね。この方も皇帝陛下の帝国全体への魔力奉納が足りないと思っていらっしゃるのだろう。


「諦めないで下さい。混沌は私達が何とかします。陛下も懸命に魔力を帝国全体に奉納されていますから……」


「もう良いのです。聖女様。願わくば貴女は早く皇妃になり、帝国全体にフェレミネーヤの加護をもたらして下さい。帝国を救うには、それしかありません」


 私達は何も言えずに伯爵の元を辞するしかなかった。ヴィルヘルム兄様が天を見上げつつ言った。


「ニア。あれが帝国の領主達の本音と願いだ。ニアは聖女なんだから、あの願いを叶えなくてはいけないよ」


 つまり、私に聖女として皇妃になれと言うのだろう。正直に言って、この時の伯爵領の惨状。伯爵の絶望を見て「絶対に皇妃になりたくない!」と考えていた私の気持ちも揺らいでいた。


 確かに、帝国の大地を形作っている女神の魔力は薄れつつある。既に女神の加護を失って混沌に陥っている地域がこんなに多いのだ。


 これを根本的に解決するには、皇帝と皇妃だけが魔力を奉納する事が許される帝国の根本で、聖女である私がこのフェレミネーヤ神から授かった女神の魔力で、帝国の大地を癒すしかないのだろう。おそらくフェレミネーヤ神はそのために私に皇妃になれ、と言ったのだ。


 私の我儘、つまらない拘りと帝国の大地と臣民を引き換えにすることは許されないだろう。私が本当の意味で聖女になるのなら、帝国の行末に責任を持つ皇族であるのなら、私は皇妃にならなければいけないのだろう。隣国を滅ぼせという話は別として。


 そのためには私は皇帝候補の三人の中から一人を選ばなければならない。カトライズ殿下、ヴィルヘルム兄様、ルドワーズの誰かを。今や私が選んだ候補が皇帝になる事になってしまっているようだから。


 私が、自分が皇妃になる事を前向きに考え出し、夫を三人の内誰かから見出そうと真面目に考えたのは、この時が初めてだったわね。


  ◇◇◇


 周辺の領地がこれほど荒廃しているのだから、今回の混沌はかなりの規模だった。


 これほどの規模となると、一回の突入では回復し切れない。なので、一度侵入して魔物を滅ぼし、黒い岩を何個か浄化したら一度混沌を出て、キャンプで回復して再度混沌に突入する、という作戦を取る。


 ハバライズ伯爵から食料と水はなんとか頂く事が出来たので、混沌の近くに天幕を張ってキャンプを造成する。私やヴィルヘルム兄様達の魔力は使い切ってしまうと、最低でも五日間は休養しないと回復しない。なので余力を残して撤退して、一日か二日休養して、再度突入するのだ。


 今回の混沌は範囲も大きく魔物も大きくて強かった。思うように進めずにみんな苛立ったけど、焦りは禁物だ。


 結局、二十日も掛けて混沌を少しずつ削って行き、ようやくあと少しというところまで漕ぎ着けた。あまりに私たちが帰還しないために無事を問う使者が帝都から来たほどだったわね。


 物資も不足して、これ以上現地で調達するのは無理だったので、やってきたカトライズ殿下からの使者を幸いに、物資を送ってくれるように帝都に依頼を出したわね。流石にこんな長い時間、なんにも無いキャンプに居続ける事は出来なくて、近くの滅び掛けた村にキャンプを移して空き家を借りた。幸い快く貸してくれて助かった。


 それでも私も兄様も騎士達も疲弊して、これはもしかして一度帝都まで帰還して休養しないと無理かもしれないと思ったわね。でも、近辺の窮状や伯爵の絶望を知ってしまえばそんな弱音も吐けなかった。


 どうにかこうにか、後一回突入すれば混沌を全て回復出来る見込みという段階になった。私達は十分に休養を取り、村人に見送られて出発した。

 

 混沌の中は黒い霧が充満して、足元はドロドロした黒い何か。昼間なのに薄暗く、そして闇の牛、闇の熊、闇の虎など帝都周辺に出たら騎士団が出撃する騒ぎになる魔物がゴロゴロ出た。


 ヴィルヘルム兄様も騎士達も、帝国最高峰の戦士といって間違い無い存在なんだけど、それでも苦戦に次ぐ苦戦の連続。私も少しは手伝ったけど、私は混沌回復のために魔力を温存せねばならない。


 ジワジワと進み、兄様達の魔力もギリギリ。これ以上戦うと撤退も危うくなるというところまで追い込まれて、それでも私たちはようやく混沌の中心部に辿り着いた。


 そこは最早現世では無かった。黒と灰色の二色に塗り分けられた世界では、私たちまでも色合いを失ってしまうようだった。隣に立つヴィルヘルム兄様が灰色一色に見えるのだ。漆黒の地面はぐるぐると渦を巻き、その中心に蝋燭のような形の暗黒色の岩が立っている。あの岩がこの混沌の中心だろう。あれに聖女の魔力を流し込んで浄化すればこの混沌も回復出来る。


 私は慎重に進み出て、暗黒の岩に手を翳した途端、何もかもを飲み込んでしまうような吸引力を感じて総毛立つ。私は急いで祈りの言葉を唱えた。


「優しき大女神フェレミネーヤよ! 黒き大地に御身の祝福を! 混沌に緑の光満たし、大地に命満たし、空気に元素満たせ!」


 私の全身が緑の魔力で輝く。十分に魔力が満ちたと感じた私は、緑色の火花を放つ両手を岩に当てようとした。


 その刹那。


「ニア!」


 私はいきなり横合いからヴィルヘルム兄様に突き飛ばされた。集中が解けて魔力の高まりが消える。鎧姿のヴィルヘルム兄様の体当たりをまともに喰らったのだからかなり痛い。


 しかしそれどころでは無かった。次の瞬間、黒い炎が上から降って来た。私には悲鳴を上げる暇もない。私が黒い炎に包まれる直前。


 私を大きな身体が包んだ。そしてその彼が、私の代わりに黒い炎に包まれる。「ぐわあぁああ!」とその口から悲鳴が漏れた。私は叫んだ。


「兄様!」


「ヴィルヘルム様!」


 騎士達も叫んで、兄様に炎を吹き掛けた相手に剣を斬り付ける。巨大な影。牛よりも大きい。あれは……。


「闇の竜!」


 漆黒の竜がいつの間にか現れていた。私の三倍はあろうかという高さ。長い尾に大きな口。全てが漆黒の影のようだ。その竜は再び大きな口を開いて黒い炎を吐こうとしているようだった。


「させるか!」


 ヴィルヘルム兄様は歯を食いしばって立ち上がると剣を構えた。


「猛き女神アルセラージャ! 闇の者を切り裂く刃を我に与えたまえ!」


 ヴィルヘルム兄様が全力で魔力を込めると、兄様の剣が私の身長よりも長く伸び、真紅に輝き出した。


「うおおおおぉ!」


 ヴィルヘルム兄様の一撃に闇の竜は流石に仰け反り、竜はブレスを中途半端に灰色の空へ撒き散らした。


 しかし、兄様は「ううっ!」と呻いて膝を突いてしまう。暗くてあまり見えないが、黒い炎をまともに背中から浴びたのだ。鎧を着ていても背中に大火傷を負っているに違いない。私は慌てて駆け寄ろうとした。


「兄様! 今癒しを!」


「ダメだ!」


 ヴィルヘルム兄様は間髪入れずに叫んだ。


「ニアは黒い岩の浄化を優先しろ! 私を癒やすのは後だ!」


「でも!」


「優先順位を間違えるな! ここであの竜と戦って魔力が尽きたら、いずれにせよ混沌から脱出出来ぬ! 我々が竜を食い止めている間にニアが混沌を回復させられなければ勝機は無い!」


 うぐっとなる。兄様の言う通りだ。こんな深い混沌の奥深くで魔力切れを起こしたら全滅だ。あの竜を倒せてもである。あの竜は混沌が消えれば巻き込まれて一緒に消えるだろう。ならば混沌を消滅させるために黒い大岩を消すのが最優先ではないか。


「分かったわ! 兄様! みんな! もう少し耐えて!」


「「おう!」」


 兄様と騎士の力強い返事を聞きながら、私は再び黒い禍々しい大岩に向かい合った。一度目を閉じ、呼吸を整える。


 そして金色に輝く目をカッと開くと、私は両手を天に向かって差し上げ、全力で魔力を自分の中から引きずり出した。


「優しき大女神フェレミネーヤよ! 黒き大地に御身の祝福を! 混沌に緑の光満たし、大地に命満たし、空気に元素満たせ!」


 私の身体中が緑の雷光をまとう。私は全身全霊を込めて大女神フェレミネーヤに祈り、女神の力を最大限発揮発揮する。遂には私の瞳は魔力そのものの輝く緑色に変化したらしい。


「我はフェレミネーヤの化身なり! 大地に我が魔力満ちよ! 豊穣の大地となれ! 世界よ変容せよ!」


 そして私は魔力そのものとなった両手で黒い大岩を掴んだ。途端、私の魔力が急激に吸われ始める。こんな深い混沌に沈んでしまった大地である。回復させるのにどれほどの魔力が必要になるか想像もつかない。


 でも、私には自信があった。足りる。今の私は完全にフェレミネーヤと繋がっている。私の魔力はそのまま大女神たるフェレミネーヤの魔力なのだ。


 かつてフェレミネーヤ神は全てが混沌であったこの世界を、その魔力を満たすことで人間の住める豊穣の大地に変えたのだ。それならそれに比べたら猫の額ほどのこの程度の混沌が回復させられない筈が無いでは無いか。


 私が吸われるのを上回る勢いで、全力で魔力を叩きつけると、巨大な黒い大岩はブオオオオォンと鳴動した。そして一気に亀裂が走り始める。同時に色がドンドン薄くなり、黒い霧が晴れて行く。


 黒い竜が苦しげに吠えるのが聞こえた。待っててね兄様! もう少し! あと少し!


「我は聖女エルファニア! 大女神フェレミネーヤの化身なり! 退け混沌よ!」


 私は叫ぶと同時に更に魔力を注入した。


 大岩が更に大きく鳴動し、闇の竜が咆哮する。その嵐の中のような爆音の中、不意に黒い大岩がキーンとガラスの割れるような音を響かせた。


 次の瞬間、私の目の前の大岩は無数の破片になった。同時に閃光が目を焼く。私は慌てて目を閉じ、袖で顔を庇った。閃光と同時に暴風が炸裂した。成功だ! 私は快哉を叫んだわよね。


 暴風が止むと、荒れ果てているとはいえ、そこは普通の農地に戻っていた。混沌が回復して元の人間の世界に復したのだ。


 ほーう。と私は息を吐いた。のだけど、それどころでは無かった。


 がおーっ! と咆哮が聞こえる。驚いて振り向くと、漆黒の竜がまだ健在だったのだ。さっきよりもかなり小さく、私の身長の二倍程度になってはいたけれど。混沌を回復させれば竜も一緒に消えると思い込んでいたのにそうではなかったようだ。


 そして私はあり得ない光景を目にする。ヴィルヘルム兄様が竜の前に倒れ伏しているのだ。


「ヴ、ヴィル兄様ーっ!」


 私は思わず絶叫する。やはり負傷したままあんな竜と戦うのは無茶だったのだ。兄様はうつ伏せに倒れている。周囲の七人の騎士も必死に戦っているけど兄様を助ける余裕はないようだ。


 黒い竜がそれを良いことにヴィルヘルム兄様に近付き、大きな真っ黒な足で踏みつけようとした。無防備な兄様にそんな事をされたら、兄様が死んでしまう!


 私は腰に付けていた短剣を引き抜いた。私も少しは大きくなって、肘から指先くらいの長さの短剣なら持てるようになっている。そして短剣に魔力を流し込む。緑の魔力は変換され、攻撃の赤い魔力になった。短剣がグンと伸びる。


 ……しかし、思ったよりも伸びない。なんで? 


 なんでも何もない。魔力切れだった。先ほど混沌を回復させた時には、私は大女神フェレミネーヤと気合いで直結してほとんど無尽蔵の魔力を発揮出来たのだが、その直結が切れた今、私の魔力はもう限界だったのだ。


「くっ……!」


 しかし、後には引けない。私は短剣を振りかざすと漆黒の竜に向けて突撃した。


「でりゃあぁあああああ!」


 叫びは勇ましかったけど、魔力と同時に私は体力も消耗していた。それに戦い方もよく知らない。そんな私を漆黒の竜は嘲笑ったように見えたわよね。私の剣を軽く動いて避ける。そして尻尾を振るって私に叩きつけてきた。


「うひゃあ!」


 私はそれを天性のすばしっこさを発揮して躱す。しかしこれでは攻撃など無理だ。まごまごしていると私も騎士達も魔力が切れてしまう。どうすれば……。


 私が竜を睨んで歯がみしていると、突然私の持っている剣に重みが加わった。え? なに? 見ると、籠手を着けた力強い手が、私の手を包み込むようにして剣を握っている。


「兄様!?」


 それはヴィルヘルム兄様だった。兄様は焦げたり血が流れていたりと酷い様相だったけど、それでも立ち上がって私を守るように竜の前に立ち塞がった。しかし、足は震えて荒い息を吐いている。明らかに戦える状態では無かった。


「兄様! 下がって!」


「いいか、ニア。私の魔力も限界だ。もう一回攻撃出来るかどうかだろう。この一撃で倒せなければ全滅だ。君の魔力を貸してくれ」


 妙に静かなヴィルヘルム兄様の言葉に、私は一も二も無く頷いた。


「いいわ!」


「よし」


 そしてヴィルヘルム兄様は私の短剣に兄様の色、オレンジ色の魔力を一気に流し込んできた。短剣がバチバチと深紅に輝きながら、ぐーんと伸びる。そしてヴィルヘルム兄様は私の事を見てニコッと微笑んだ。その瞬間、私の胸に沸き上がってくる物があった。なんというか、暖かな豊かな、魔力に似て魔力とは違うような、そんな大きな力だった。


「行くぞ!」


 それが何か確かめる前に、ヴィルヘルム兄様が叫ぶ。私もぐっと竜の事を睨み付ける。漆黒の竜は私達を警戒して長い首を向けてきたが、その時に騎士達が最後の力を振り絞って同時に剣を斬りつけた。竜が咆哮し、私達から視線が逸れる。


「今だ!」


 ヴィルヘルム兄様の合図と同時に私は地面を蹴る。私とヴィルヘルム兄様は肩を寄せ合うような格好で、二人で一本の剣を握り、漆黒の竜に襲い掛かった。竜がハッとしてこちらを向くが、もう遅い。


 この一撃。これで倒さなければもう勝てない。私は本当に限界ギリギリまで魔力を絞り出す。


「「猛き女神アルセラージャ! 闇の者を切り裂く刃を我に与えたまえ!」」


 私とヴィルヘルム兄様が同時に叫び、そして剣は漆黒の竜に突き立った。私とヴィルヘルム兄様の大魔力を注いだ短剣はその瞬間金属音を発して吹き飛んだ。しかし同時に、漆黒の竜の方にも真っ赤な亀裂が入る。


 漆黒の竜は金切り音と暴風が混ざったようなもの凄い断末魔の叫びを上げたかと思うと、全身を真っ赤に光らせ、次の瞬間光の粉となって爆散した。


「おお!やった!」「さすがヴィルヘルム様! ニア様!」


 騎士達が口々に言うのを聞いて、私はようやく身体の力を抜いた。何とか倒せたようだ。しかし危なかった。私の魔力はもうこれで本当に品切れだ。全身を強い倦怠感が覆い、倒れそうになる。


 しかしその時、私の直ぐ横で崩れ落ちる人影が見えた。……あ! そういえば!


 私が支えようとするのもむなしく、ヴィルヘルム兄様は地面に転がってしまった。仰向けに倒れる。その状態は酷い有様だった。


 私を庇って浴びた黒い炎でマントは焦げて鎧が無い手足は真っ赤に火傷していた。これは鎧の下もただでは済んでいないだろう。そして、竜の爪や尻尾の打撃を浴びたからか、鎧はあちこち凹み、頭からも血を流している。顔も血まみれだ。


「兄様!」


 た、大変だ! この怪我でよく戦っていたものだ。放置すれば命に関わるだろう。


 だ、大丈夫。緑の魔力を持つ私にとって、癒やしの術は得意分野。子供の頃カトライズ殿下を助けた時は小さな癒やししか使えなかったけど、今なら四肢欠損さえも元通りに出来るくらいの高次な癒やし魔法だって使えるわ! 待ってて兄様、今すぐ……!


 とそこまで考えて、私は呆然とする。


 ま、魔力が無い! 魔力が完全に無くなってしまっている! この私の聖女の魔力も激闘のお陰でもう全然残っていない。完全に回復させるまでには十日くらいは掛かってしまうかも知れない。つまり、癒やしの魔法が使えないのである!


 そ、そんな! 愕然とする私を、ヴィルヘルム兄様は見上げて、苦笑した。


「魔力が、無いのだろう……」


「ど、どうしよう! どうしよう兄様! ヴィル兄様!」


 私は取り乱してヴィルヘルム兄様に縋り付いたが、兄様はなんだか静かな表情で笑っていた。その表情は、何というかゾクッとするような顔で、どう見ても大けがを負って苦しんでいる人には見えなかった。むしろ痛みも何も感じていない、既に現世から魂を半分神々の世界に持って行かれてしまっているような、そんな表情に見えた。


「だめ! 兄様! 諦めちゃダメ! 私が、私がなんとかするから!」


「いくらニアでも、魔力を急に復活させるのは、無理だろう? 仕方がないさ。この部隊の指揮官は私だ。魔力が全員尽きて全滅し掛かったのは私の失態だ」


 そしてヴィルヘルム兄様は私の方に弱々しく手を伸ばした。私の頬を撫でる。


「ニアが護れて、良かった……。君を失ったら、私は……」


 どうしよう。どうしよう! 私はパニックになり掛かりながら、ヴィルヘルム兄様の手を握った。その手が冷たくなり掛かっているのにゾッとする。


 そう。ヴィルヘルム兄様が怪我をしたのは私のせいだ。兄様は私を身を挺して庇ってくれたのだ。漆黒の竜の炎から庇ってくれた。いや、違う。本来公爵令息で、こんな危険な任務には出る必要が無い筈の兄様は、私を護るためにとまた実戦経験も無い時から私を護るためだけに混沌回復の任務に同行してくれた。


 兄様だって好奇心旺盛とはいえ公爵令息なんだから、最初は旅でカトライズ殿下が浴びたような平民文化の洗礼を受けて大変だったと思うのだ。でも、そんな様子は一切見せず、いつも力強く私を護り、見守ってくれた。


 そのヴィルヘルム兄様が死に掛けているのに何も出来ないなんて! そんなの絶対に嫌! 何か、きっと何か方法がある筈!


「ニア……。君は聖女なんだから、皇妃にならなければいけないよ……。カティは君を大事にしてくれる。だから、君はカティと……」


「そんなの嫌!」


 私は思わず叫んだ。


「私が好きなのはヴィルヘルム兄様だもの! 絶対に嫌!」


 言ってしまった瞬間に、心のどこから何かが弾け飛んだ。


 そう。私はヴィルヘルム兄様が好きなのだ。大好きなのだ! 


 だってそうでしょう? いつも私の事を命がけで護ってくれて、私の我が儘も聞いてくれて、誰よりも気が合って仲良しのヴィルヘルムお兄様。元々、三人の婚約者候補の中で一番好感を抱いている相手は、文句なくヴィルヘルム兄様だった。


 そして今この時、私はヴィルヘルム兄様が大好きである、誰よりも大好きである事に気が付いた。兄様が好きだ、そう思うと胸の奥から不思議な何かが沸き上がって止まらなくなる。きっとこれが、恋とか愛とかそういうものだと思う。


 私は多分、この瞬間にヴィルヘルム兄様に、恋に落ちたのだ。


 ヴィルヘルム兄様を想うと、いくらでも力が湧いてくる。胸の奥からドンドン溢れ出してくる。私はその力の赴くまま、両手を天に差し上げた。


「優しき大女神フェレミネーヤよ! 聖女エルファミアが請い願う! 我が愛しき人の傷を癒やしたまえ! そのお力でヴィルヘルム兄様を癒やし助けたまえ!」


 尽きたはずの魔力。しかしその代わりに沸き上がった力が、祈りの言葉によって緑色に変化する。回りを囲んでいた騎士達から驚きの声が漏れた。


「ヴィルヘルム兄様!」


 私は兄様の名を叫ぶと、緑色に染まった力を一気に彼の身体に流し込んだ。ヴィルヘルム兄様! 生きて! 元気になって! そして、私の事をいつもみたいに抱き締めて欲しい! そう願いながら緑色の奔流となった力を流し続けた。


 フッと、緑の力が消える。私はドキッとした。治癒魔法は対象が死ぬか癒やされると終わる。もしくは魔力が尽きたら術は続けられないけど、私の不思議な力はまだ湧き出している。


 私はヴィルヘルム兄様の顔を覗き込む。見た感じ、怪我は消えているし、顔色も良いから上手く効いていると思うんだけど。


「……まったく。ニアは……」


 いつも通りの明るいヴィルヘルム兄様の声が聞こえたかと思うと、私は伸びてきたヴィルヘルム兄様の手に捕まって、ぐいっと引き寄せられた。きゃー。


 ヴィルヘルム兄様は気軽に私を抱き締めてくれるので、抱き締められるのはいつもの事なのに、この時の私はもの凄く胸がドキドキした。やっぱり私はどうもヴィルヘルム兄様に恋をしてしまったらしい。


「またとんでもない、非常識な事をしてくれたな。……私の覚悟はどうなるのだ」


「覚悟なんてしないで良いんですよ。ヴィルヘルム兄様。良いんです。私は兄様がいてくれれば大丈夫です。だから、兄様……」


 これからもずっと一緒にいて欲しい。私はそう言おうとしたのだけど、兄様は不意に私を抱えたまま身体を起こし、そして私の顔をジッと見詰める。私の顔はきっとみるみる赤くなっていったろうね。見慣れた兄様の顔を見るのも恥ずかしいなんて、私はどうなっちゃったんだろう。でも、そういうフワフワした気分は悪くなかったわね。


 私を間近で見詰めていたヴィルヘルム兄様は、やがて、我慢出来ないという感じで、私の額にキスをした。きゃー! きゃー! 初恋まっただ中の私は茹で上がった腸詰めみたいになってしまう。これは! もしかしてヴィルヘルム兄様も、私の事を……?


 私はそんな事を考えていたのだけど、キスした後私の頭を胸にぎゅっと抱き締めてくれていた兄様が、かなり時間が経った後に放った言葉はこうだった。


「……やっと、決心が付いた」


「へ?」


「……やはり私は、ニアの夫、皇帝になるべきでは無い」


 は?


「私では不足だ。私の魔力では、帝国は支えきれない。カティか、ルドワーズくらいの魔力を持った者が皇帝になり、ニアを妃に迎えるべきだろう。そうせねば、帝国は滅びる。ニアも見ただろう? この領地を。あの深い混沌を。……私情を捨てて、帝国に取って最善の者。魔力が一番多い者が皇帝になるべきだ」


 ヴィルヘルム兄様の言葉に私は呆然とする。つまり、兄様は、私と結婚しないと言っているのだ。


「ニアにも分かるだろう? 私達は皇族だ。私情で動いてはならない」


「で、でも! でも! 私はヴィルヘルム兄様の事が!」


 私の言葉はヴィルヘルム兄様が私の唇に当てた手によって阻まれた。


「私の結婚相手は決まっている。イルバン侯爵家のフレイヤーヌだ」


 フレイヤーヌは知っている。去年、私に一年先だって成人した私のお友達である。そう。確かに昔からヴィルヘルム兄様仲が良く、婚約者候補であったのも知っている。でも、その話は兄様が皇帝候補に推された事で立ち消えになった筈なのに……。


「私は皇帝にならないのだから、フレイヤーヌと結婚して伯爵家を興すよ。ニアの事は、騎士として見守る。ニア。君はだからカティかルドワーズと結婚して、立派な皇妃になるんだよ。いいね?」


 その断固とした口調に、私は結局何も言えなくなってしまった。


 私は帰りの道中、何とかヴィルヘルム兄様と話しをしようとしたのだけど、兄様は露骨に私と二人きりになるのを避けて、結局機会を得ないまま帝都に帰り着いてしまったのだった。


 そして、直ぐにヴェリトン公爵家はヴィルヘルム兄様とフレイヤーヌの婚約を発表、ヴィルヘルム兄様は正式に皇帝候補への推薦を辞退した。


 こうして、私の初恋は、あっという間に終わりを迎えたのであった。


 

 

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