11 褒めてるんですか、貶してるんですか

 パンは一つきりで、食卓の上にじかに置かれた。

 大きさはランマレスの肩幅より少し短い。細長くて、色は黒っぽい茶色で、見た感じはしっとりしている。

 薄く切り分けて一枚だけ味見してみると、見た目を裏切ってぱさぱさしていた。できあがってから数日、いや、もっと経っているかもしれない。

 ランマレスはパンにチーズを挟んだ。最初はもそもそしていたけれど、噛んでいるうちに酸味と塩気がまろやかに絡んで飲みこみやすくなる。

 皿には塩漬けにした豚の燻製肉と干した腸詰肉、羊肉の香草焼きが四切れずつ。とろみのある掛け汁が添えてあり、香りを吸いこんだだけで涎が出てくる。

 以上で一人前。これを二人で分ける。

 量は物足りないが、それでもランマレスにとってはごちそうだ。驚いたのは値段の安さで、この内容ならグロッシェン銀貨一枚でも足りない気がするのに、その半分以下の五プェニヒだという。


「すごいですね。どうしてこんなに安いんでしょうか」

「新しい辺境伯さまがこの町で結婚式を挙げたんだよ。記念にって、特別価格で肉料理を出してるらしい。結婚からちょうどひと月だから、今日までだそうだ。いい時に来たよ、君も俺も」

 

 アーレンスは朗らかに笑ってビールを飲んだ。

 ランマレスの手元にもある。このビールを含めてこの値段だというのだから、やっぱり安すぎる。


「ひと月も? 大丈夫なんでしょうか。このお店、潰れちゃうんじゃ」


 ランマレスたちは店内の中央から少し横にずれた場所に席を取っていた。二人で使うにはいささか広めの食卓だ。もともと長椅子を二つ置いていたらしいのだが、ちょうど二人が来る直前に二つとも壊れたとかで、かわりに用意されたのはこれまたすぐに壊れそうな、罅割れのある樽だった。

 ランマレスはおっかなびっくり腰を下ろしたのだが、案外と据わりはいい。店は朝だというのに満席で、席にあぶれて立っている人もいるほどだから、座れただけましというものだ。

 客の大半は男だ。老いも若きも、年端の行かぬ子供まで陽気に騒いでいる。なかにはビールではなく葡萄酒を飲んでいる人もいるようだった。聞こえてくる話し声によると、地元産の葡萄酒らしい。この周辺の谷で葡萄を栽培していて、造った葡萄酒は近場でのみ流通しているらしかった。

 商人や学生の姿はあるが、手工業者は見かけない。とっくに工房を開けている時間だから無理もない。

 人が働いている時間に気兼ねなく肉を食べることができる、という現実にランマレスはすがすがしさを感じた。目の前の男も同じだろうかと、顔を正面に戻す。

 茶褐色のジョッキを置いたアーレンスは肉を指でつまんで口に放りこみ、「さてな。でも」と返事をした。

 

「安売りは木曜日だけらしいから、なんとかなってるんじゃないか?」

「なるほど」


 頷きながらビールに口をつけたランマレスは、表情をかすかにこわばらせる。

 味も香りも薄い。不味いわけではないが、とにかく薄い。

 水を多く混ぜているのかもしれない。採算に合わせるために店側が故意に嵩増しをしているか、あるいはそうと知らずに仕入れているか。後者だとすれば店側も被害を受けているわけだが、誰も文句を言っていないのでランマレスも感想は言わない。

 この薄さがここの人たちの好みなのかもしれないし、下手に「水っぽい」などと言って、聞き咎めた誰かに絡まれても面倒だ。それにビールも一人分を二個のジョッキに分けてもらったので、あまりうるさくすると追加で料金を請求されるかもしれない。黙っていたほうがいい。

 ビールは薄いが肉の味は濃い。それだけでランマレスは満足だった。

 具材として入っているものならともかく、肉が主役の料理を食べるのは久しぶりなのだ。最後に食べたのは放浪修行ヴァルツに出る直前の復活祭オースタンで、あのときのごちそうも美味しかった。


「先月にご結婚、かあ。ちょうど僕は旅に出たばかりで、たぶん……」

 

 ヴィックの旅日記を受け取ったころかな。

 出かかった言葉は腸詰肉で蓋をした。香草が利いて臭みのない味を堪能しながら目を伏せる。


「いろいろあった、って顔をしてるな」


 ランマレスはちらりと視線を上げ、胡散臭い笑顔からすぐに目をそらした。


「まあ、旅なので」

「面倒事に巻きこまれたか? 持ってちゃいけない物を手に入れた? それとも恨みでも買ったか?」


 なにを言いたいのだろうか。

 ランマレスが思案顔で口をつぐむと、アーレンスは食卓から身を乗り出し、額を寄せて囁いた。


「宿ぐるみで狙われるような秘密が、君にあるんだろ?」

「宿ぐるみ?」

「あの部屋で騒ぎが起こっても見て見ぬふりでやり過ごしてくれって頼まれたんだよ。目つきの悪いあの男と、宿の主人に」

「え」

「そのおかげで宿代が浮いた」


 精悍な顔に微笑を浮かべたアーレンスは、さっと体を引いて樽に座りなおす。


「それって、口止め料みたいなやつですか」


 真っ先に思いついたことを言うと、アーレンスはわざとらしく肩をすくめた。

 

「口止めはされてない。イルマーくんになにがあっても知らんぷりしろと頼まれただけだ」


 つまり、エルゼはドリースにランマレスの荷物を奪うよう頼み、ドリースは宿の管理人も巻きこんで、同室になるであろうアーレンスにも話を通し、アーレンスは頼みを聞くかわりに宿代をおまけしてもらったと。

 そこまで考えたところで、「そうだよぉ」と、頭上からすべすべした声が降ってきた。「だからおかしいと思ったんだよぉ。あのおじさん、ランの荷物を奪うって決めてたみたいなのに、預かるの断られてもがっかりしてないんだもん」

 ランマレスは顔を仰向ける。見慣れた白い影がいつの間にやら浮いていて、どこか誇らしげな態度でなおも告げた。「そしたらさぁ、管理人室? にねぇ、あのおじさんとドリースがいてランのことしゃべってたんだよぉ。ほんとに来たなって」

 そういうことは早く教えてほしい。

 ランマレスは言葉を呑みこみ、俯きながら息を深く吐いた。


「そんなに落ちこむなよ」


 アーレンスが眉尻を下げて笑う。


「俺もいちおう、悪いなと思ったからさ。せめて死なないでくれって意味をこめて助言したんだ。ほら、盗賊には逆らうなって言っただろ?」

「ああ……言ってましたね」

「でも思ったより強くて驚いた」

「それはどうも。すごく怖くて必死だったんですけど」

「そうか? あのあと、あの男……知ってる?」

「ドリースさんですか」

「会ったのか? 荷物も取り戻してるし」

「そうですね。ドリースさんが寝起きしてる部屋に泊めてもらいましたよ」


 こう言えば驚くと思ったのだが、予想に反してアーレンスは落ち着いていた。ふしぎそうな顔はしたものの、すぐに理解したような光を瞳に浮かべる。


「それは、エルゼ・シュテンダーの工房か?」

「そうです。それも知ってたんですか?」

「いや、ええっと、イルマーくんが出ていったあとに聞き出した。ドリースくんも暇そうだったからな」

「暇って……」

「あの脚、痛そうだったぞ。すぐに動きまわる気にはなれないみたいだった」


 言いながら顔をしかめたアーレンスが、「ああ、でも」と取り繕うように付け足す。

 

「イルマーくんが気に病むことじゃない。あれは自業自得だ」


 ランマレスは苦笑いで応じ、否定も肯定も慎んだ。

 にっとアーレンスも笑い、給仕を呼び止めて二杯目を注文する。水差しからビールが注がれると、一口だけ飲んで腕を食卓に乗せた。ランマレスをしかと見つめ、秘密の話をするように声を落とす。

 

「俺はこの町から消える人間だし、世間話の延長っていうか、旅人に話したところでなにも問題ないだろって言いくるめて、いくつか聞き出した」

「それを教えてくれるんですね」

「その前にイルマーくんはなにに巻きこまれてるんだ。なにを知ってて、なにを知らないんだ」


 どうしたものかと悩んだのは束の間で、洗いざらい話すことにした。双子の兄ヴィッヘルクックのこと、その兄に間違われたこと、狙われた理由、エルゼの工房で働くことを提案したこと。

 話の合間に兄弟仲や家族構成についても質問が入り、手短にとはいかなかった。おかげで途中から料理の皿はからっぽだ。

 イドは食卓に降り立ち、ランマレスがまだ半分しか飲んでいないジョッキの縁に腹を乗せた。そのまま落ちるように頭をビールに突っこむものだから、横目で見ていたランマレスはびっくりして話を中断する。


「どうした?」

「ああ、いえ、ちょっと、その、だから、そういうわけでですね……」

 

 頭からお尻までジョッキの中に入って白い靴裏を晒していたイドは、ひょいっと身を起こした。髪も服も濡れることなくきれいなままだ。ただ不満そうな顔をしていて、「もっと美味しくできるのに」と誰にともなくぼやいた。


「イルマーくんはやっぱりお人好しだな」

「やっぱり?」

「印象どおりって意味だよ。気が弱そうで、優しそうで、付け込みやすそうだなって、最初に見たときに思ったんだ」

「褒めてるんですか、貶してるんですか」

「どっちでもない。ただの評価だ。気を悪くするな」


 アーレンスはビールを呷り、一滴も残っていないのを知って残念そうに眉を曇らせる。直後にビールなど忘れた様子で話を続けた。


「じゃあ、あれだ。イルマーくんはあの宿屋がシュテンダー親方の所有だってことは知らないんだな?」

「エルゼさんの?」

「そう。もともとは前の親方が始めた副業らしいけどな、亡くなったから妻が引き継いだって話。だからあの宿の管理人はシュテンダー親方……エルゼ親方の指示で動いてたんだよ」


 ランマレスが「エルゼさん」と呼んでいるのに合わせたのか、わざわざアーレンスは呼び方を変えた。灰色の目にからかうような光があるから、もしかするとエルゼとの仲を変に勘繰っているのかもしれない、とランマレスは頭の片隅で思う。

 

「ドリースさんが巻きこんだのかと思ってました……」

「そうじゃない。宿の鍵が開いてたのもエルゼ親方の指示だろうな。ドリースくんが言ってたんだ。身の危険を感じたらいつでも逃げられるようにはしてあった、って」

「外に逃げるんですか? 夜の外出は……」

「万が一のために開けといたってことだろう。実際はどこかに隠れるつもりだったんじゃないか。でも意外や意外、イルマーくんは予想以上に強くて、だけどお人好しだった。隠れることも逃げることもできなかったし、幸いというかなんというか、そんな必要もなかったわけだ」


 自分はお人好しなんだろうか。腫れてしまうほど遠慮なく脛を打ちつけたのに。お人好しじゃない対応とはどういうものだったんだろう。

 質問したかったが、また話が脱線しそうなのでやめた。

 薄いビールをちびちびと飲むランマレスの頭にイドが飛び移る。帽子の鍔に寝そべり、目を眇めて正面のアーレンスをじっと見つめた。


「あとはそうだな、結婚か。エルゼ親方とドリースくん。この二人、エルゼ親方が工房に嫁入りする前、つまり実家にいたころからの知り合いだそうだ」

「へえ……そうなんですか」


 ランマレスは軽く目を見開いた。

 ドリースはあの工房に雇われたことでエルゼと親しくなったと、そう言っていなかったか。

 いや、勝手に自分がそうだと思いこんでいただけかもしれない。ランマレスはひとり納得してジョッキに唇を寄せる。


「エルゼ親方の実家は仕立屋をしていてな、ドリースくんは最初はそこに見習いで入ったらしい。だけど脱走を繰り返して放逐された」

「ええ……?」

「布じゃなくて鉄をいじりたかったんだと。最初っから。それで今度は錠前屋に入った。ほんとは鍛冶屋がよかったけど、紹介してもらえたのが錠前屋だけだったからって。でな、詳しいことは言ってなかったが、結婚前のエルゼ嬢とはその後も会っていたようだ」

「どうやって」


 徒弟修行中は朝から晩まで動きまわるから遊ぶ時間などない。日曜日だけはお休みだが、それだって好き勝手に外出できるわけではなく、日曜日は日曜日で忙しいはずだ。

 アーレンスは肩をすくめた。


「さてな。そこまでは聞いてない。だけど気にならないか? 二人が親密になったのは、いつだったのかって」

「まあ……」


 下世話な眼差しを向けられたランマレスは返事を濁す。

 まったく気にならないわけではないけれど、特に興味を引かれない。曖昧な頷きだけを返して茶褐色のジョッキを傾けた。最後の一口だ。アーレンスはなにを考えているのか、にやにやしていた。

 右脚は茶色、左脚は青色の脚衣が近づいてくる。給仕だ。傍らに立ち、「おかわりは?」と笑顔で尋ねてきた。


「いえ、結構です」

「俺も充分だ」

 

 二人が断ると、給仕はすかさず「だったら席をあけろ」と告げた。「赤マントのあんたは追加で飲んでるから支払いもな」とアーレンスに視線を送る。言葉に愛想はないが、給仕はあくまでも笑顔だ。アーレンスは宥めるように笑い返した。

 支払いを終えて店を出ると、どちらからともなく足を止めた。アーレンスはこのまま出発するという。


「次はどこに行くんですか?」

「南の門から出てすぐの町だ」

「それなら僕と同じです」

「そうか? それじゃ、また会えるかもしれないな」

「それはどうかわからないですね。行き違いになるかも」

「なんだ、会いたくないのか?」

「そんなことは言ってないじゃないですか」


 ランマレスが眉をひそめると、アーレンスは屈託なく笑った。

 

「冗談だ。それじゃ、ランマレス・イルマーくん。どこかでまた会えたら話の続きをしよう」

「そうですね。そんな日が来れば」


 なんだかんだで悪い人ではない。そう思ってランマレスもにこやかに頷いた。

 去りゆくアーレンスの背中が白い影に遮られる。ランマレスの帽子から飛び降りたイドが、胸を張って言った。


「行くよ、ラン。ついてきて。すぐそこだよぉ」

 

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