13 俺だけが変わり者だ

 ドリースの指示は簡潔だった。

 雑談は一切ない。怒号が飛ぶようなこともなく、必要なことだけを伝えて淡淡と作業する。ランマレスもそれに倣い、口を開くのは確認が必要なときだけにとどめた。

 工具は工房にあるものを使うのが同職組合アムトの掟だ。旅をする職人が勝手に工房以外の場所で仕事を請け負うのは禁止されていて、未然に防ぐために工具を持ち歩くことも許されていない。逆に言えば身一つで飛びこんでも仕事ができるのだ。

 イドは火花と戯れたり、完成した鍵や鎖の穴を潜り抜けたりしていた。遊びはするが作業の邪魔はしないので、ランマレスが気を散らすこともない。

 客の対応はすべてドリースが担当した。

 注文品の受け渡しや陳列品の販売、新規の受注など、やりとりにランマレスが聞き耳を立てていたのは最初のうちだけで、やがて作業に没頭する。やすりをかける合間にふいごを動かし、ドリースが鉄を打ち叩くときはやっとこを持って補助し、また鑢がけに戻る。だいたいはこの繰り返しで、昼食を抜いていたのに空腹も感じなかった。

 鐘の音が耳に入って集中が解ける。窓に目を向けたランマレスは、鑢を置いて腰を伸ばした。

 

「終わりだ終わり! ひとでなしの新人! ちんたら仕事してないで、かたづけだ!」


 新人、ということは自分だ。

 ランマレスは姿勢を正し、「はい!」と返事をする。答えてから顔を振り向けると、ハンスが眉を吊り上げて工房の中に入ってきていた。

 朝に会って以来いちども見かけなかったけれど、どこにいたのだろうか。

 疑問を口にできる雰囲気ではなく、せかされるままに腰を上げる。ドリースもハンスも手際よく動いていて、新参者のランマレスが一番もたもたしていた。

 最後に窓の板戸を閉めたハンスが、暗がりでランマレスに詰め寄った。


「ひとでなしのぶんのごはんはないからな!」

「えっと、はい」


 そういう取り決めになっているので言われるまでもなかったが、とげとげしく指摘されると少し悲しい。うっかり傷ついたことを隠して真顔で頷いてみせる。


「ハンス。今夜は俺もいない」

「知ってる」


 ハンスはドリースに軽く顎を向けた。


「さっき使いが来てたの聞こえてた」


 ランマレスに対するほどのとげとげしさはないけれど、薄い膜でも張っているように愛想がない。

 あんまり仲良くないのかな、とランマレスが観察していると、ドリースと目が合った。


「行くぞ。支度しろ」

「え? どこにですか?」


 ドリースは呆れたように顔をしかめた。


放浪職人ヴァンダーゲゼレなんだろ? この町の錠前職人が全員集合する。おまえ一人のためにな」

「あ! わかりました! 準備します!」

「ぐずぐずのずぶずぶになってどっか行っちゃえ」


 ハンスが鼻の頭に皺を寄せて吐き捨てる。

 ランマレスが「あはは」と弱い笑みを返すと、ドリースはハンスの肩を叩いた。片付けの手伝いをねぎらうような静かな叩き方だったが、ハンスにとっては癪に障ることだったらしい。手を振り払って工房を出ていってしまった。

 明るい出入口を見つめたまま、ドリースが低い声で告げる。


「俺も正直、消えてほしい」


 ランマレスがうまく反応できずにいると、ドリースは振り向きもせずに歩き出した。


「けど、俺ひとりが反対したところでどうなるものでもないからな。よけいなことはせず、仕事に専念さえしてくれたら文句は言わねえよ」

「はい……頑張ります」


 火の消えた工房にはランマレスだけが残った。薄闇の天井を仰ぎ、ふぅと息を吐く。

 邪魔者。厄介者。余所者。裏切り者。

 ハンスの目にはそうとしか映っていないのだろう。ドリースもおそらく同じだ。

 これから一週間、どうにかして二人の敵意を解いていきたい。そうでないとここで働く意味がない。だけど、できるだろうか。

 不安に曇る顔を白い影が見下ろした。


「宴会があるのぉ?」


 イドが小首をかしげる。「そうだよ」とランマレスは答えて、顔を正面に戻した。


「歓迎会だ。ほら、前にもやってもらっただろ。今回は俺が入ってる兄弟団じゃないから、職人宿に行っても話をするだけで終わったんだけど。仕事するってなると別らしいね」

 

 仕事が決まると同職組合アムトでは契約の杯を交わすけれど、さっきはなかった。すでにヴィッヘルクックがやっているから代理のランマレスは儀式を省かれたのだ。

 兄弟団による歓迎会もこのまま見送られるのだろう、と勝手に納得していたのだが、そうではないらしい。

 林檎色の瞳がきらりと光る。


「へえ、ふぅん、歓迎会かぁ。ぐずぐずのずぶずぶになるのぉ?」

「酔うかな? まあ、出されたら拒めないけど」


 酒を飲んでもランマレスは酔ったことがない。だから酔い潰れる不安はないのだが、酔っぱらいに絡まれる危機感はあった。宴会は正直、好きではない。

 とはいえ明日もみんな仕事だし、きっと手加減してくれるだろう。夕食も済ませられるし、うん、悪くないな。

 気持ちを上向かせて工房を出れば、イドも鼻歌を漂わせながらついてきた。

 寝室ではドリースがすでに支度を終えていた。早くしろとせっつかれながら急いで着替える。帽子と杖、マントと背負い鞄という旅の装いに戻った。


「荷物は置いていってもいいんじゃないか?」

「いえ、これが放浪職人ヴァンダーゲゼレの正装なので」

「へえ……」


 ドリースは気のない返事をして階段を下りていく。足音を聞きつけたのか、エルゼもすぐにやってきた。

 玄関先で立ち止まったドリースを追い抜きランマレスは往来に出る。夕陽の眩さに目を細め、工房を振り返った。

 エルゼとドリースが佇む玄関扉は色鮮やかな飾り紐で装飾されている。隣近所も似たり寄ったりの飾り付けだ。聖霊降臨祭プフィングステンが近いからだろう。


「行ってくる」


 ドリースが無愛想ながらも向かい合って告げると、エルゼが目元を緩めた。


「飲み過ぎないでね」

「ああ」

「気をつけて」


 少ない言葉で、言葉にされない感情までも取り交わしているような雰囲気だ。眺めていたランマレスは、ふと胸がざわついた。

 

 ――二人が親密になったのは、いつだったのか。


 ファイト・アーレンスに問われたときは関心が薄かったけれど、今になって重要な問いかけのように思えてきた。絡みつくように薬屋の顔も脳裡に甦る。

 理由ははっきりしないけれど、なんとなく、いやだった。まるで売り物の錠前に研ぎ残しを見つけたかのような、ざらついたもどかしさを感じる。

 イドが目の前を横切った。ランマレスの秘めた動揺に気づいているのかいないのか、「じゃあねえ、お散歩してくる!」と笑顔で屋根の向こうに飛び去っていく。

 宴会に行くんじゃないのか。

 ランマレスは思わず呼び止めたくなったものの、ぐっと呑みこんでドリースと一緒に工房から離れた。

 夕食の香りが煙突や窓から流れてくる。吸いこむたびに空腹を押し広げられる心地がして、宴会まであとどのくらいかと期待がよぎった。

 

「あの、ドリースさん」

「なんだ」


 やや前を歩く猫背が面倒そうに振り返る。西に傾いた太陽が足元の影を伸ばし、ドリースの茶色い髪の毛を金色に縁取っていた。

 

「気になってるんですけど、宿屋で僕が起きなかったら、荷物を持って外に出るつもりだったんですか?」


 ドリースと二人きり。職人宿に着くまでのわずかな時間とはいえ、話をするにはちょうどいい。小さな疑問から片付けてしまおう、とランマレスは思った。

 靴に入った小石を取り除くのと同じだ。悪路を均すことはできないが、小石を捨てて歩きやすくすることなら今すぐできる。


「最初から落とすつもりだったさ」


 ドリースはあっさり答えてまた前を向く。ランマレスは足を速めて隣に並んだ。


「裏庭に、エルゼさん?」

「そうだ」

「ドリースさんは外に逃げる?」

「なにも知らないことにして寝る」

「ええっと……殺気がすごかったと思うんですけど、僕が怪我したり死んでたりした場合は……え、殺す気でした?」


 最悪の展開を想像して悪寒が走ったランマレスは、怯えた顔で声を上擦らせた。対照的にドリースは冷淡な態度で返事をする。


「兄弟団は団員に対して裁判権を持ってるからな。掟を破った不誠実なヴィッヘルクック・イルマーを掟に従い罰すると告げたら刃向かってきた。やり返したらこうなった。独断で裁くつもりはなく、捕まえてかしらのところに連れていきたかったが無理だった、と押し切るつもりだった。それで俺に咎めはないはずだ」

「ええ……だいぶ具体的で怖いです。というかひどすぎます」

「現実にならなかったんだからいいだろ」

「そういう問題じゃ……あ、じゃあ宿の鍵がかかってなかったのは? なんのためですか?」

「あの宿屋はもともとそんなもんだ」

「そうなんですか? 開けておくように指示したんじゃ?」

「なぜそう思う」

「それは……僕の知ってる話だと、宿屋も夜はちゃんと鍵をかけるから」

「あそこは場末だからな」

「そういうものですか」

「ほかの町のことは知らねえよ。けど少なくともあの宿屋はそうだ。水曜日の定期市に商人の泊まる宿は決まってる。そういうところは夜の戸締まりが義務づけられてる。けどあの宿屋はそうじゃない」

「なるほど」


 ランマレスは痩せた横顔を眺めた。ぶっきらぼうだし怖いことを平然と口にするけれど、質問にいちいち答えてくれるのは単純に嬉しい。


「ハンスくんは、どんな子ですか?」

「どういう意味だ」


 ドリースが訝しげな眼差しを向ける。ランマレスはふにゃりと笑った。


「あ、べつに結婚を狙って子供に取り入ろうって魂胆じゃあないですよ? えっと、あまりにも嫌われてて悲しいので、今よりもうちょっとくらい仲良くなれたらいいなって。たった一週間ですけど、やっぱりお世話になる以上はご家族とも仲良くしたいなと思いまして」


 ふん、とドリースが鼻で笑う。そのまま黙ってしまったが、ランマレスが様子を窺っていると、溜息とともに口を開いた。


「俺にもよく突っかかってきた。一年前、俺が雇われたころはな」

「それは……前の親方さんが亡くなってすぐ、でしょうか」

「そうだな」

「ヴィックがいなくなってすぐですか? ドリースさんが雇われたのは」

「……どうだったかな。もうちょい後だった気もする」


 ランマレスは口を閉じる。エルゼさんとはそれ以前からの知り合いですか、という質問が飛び出しそうになったけれど、舌の上で乾いてしまった。

 馬車がすれ違えるほどの広い道に出た。

 通り過ぎる人たちが視線を向けてくる。いつものランマレスなら落ち着かなくて帽子を深くかぶりなおすところだが、今は肩のあたりがわずかに緊張するだけだ。気にはなるが、それよりも会話をつなげられなくて頭を悩ませていた。

 尋ねたいことはいくつもあったはずなのに、いざとなると出てこない。もっと確かめたかったことがほかにある気がする。なんだっただろうか。

 二人とも押し黙ったまま、靴と杖が石畳を打つ音だけが日暮れの道に刻まれる。


「俺は」


 低く、重みのある声が沈黙を破った。


「親方になるためにエルゼと結婚するわけじゃない。それが狙いじゃないんだ。エルゼが工房を持ってなくても……なにをしてても、たとえ人に石を投げられるようなことをしたとしても、エルゼの味方でいようと思ってる。だから……」


 ドリースは息を吐いた。鉄を飲んだような暗い顔で、やや間を置いてから続きを口にする。

 

「だからハンスにも納得してもらいたくて時間をかけた。父親が亡くなってすぐに新しい父親なんて、要らねえよってのが本音だと思ったからな。時間をかけたんだ」

「それは、その……そうですか……」


 ランマレスは口をもごもごさせた。抱いた感想を声に出そうとして、慌てて喉の奥にしまいこむ。

 あまりに言い慣れていなくて小っ恥ずかしくなったのだ。エルゼさんのことを愛してるんですね、なんて。


「エルゼが俺の子供を産んでも、後継ぎはハンスだ。そう決めてる」

「なるほど……」


 薄青い瞳に敬意を宿してランマレスはドリースの横顔を見つめた。

 好きな人と結婚して、親方になって、血のつながらない子供の父親にもなるというこの男は、自分と一歳しか違わない。それなのにずいぶん大人に見える。

 きっと、他人の人生を背負おうとしているかどうかの差だろう。そう気づいたランマレスは顔を前に向ける。

 尊敬を抱きはすれど、憧れはしない。

 歩いている道が違うだけだ。自分は身軽な旅を選んだ。この人は背負うことを選んだ。自分もこの人も、選ばされたのではなく、選んだ。

 責任を多く抱えるほうが大人に見えるのはきっと当然で、立派だと思う。だけど自分は今のところそういう生き方を望んでいないのだから、放浪職人ヴァンダーゲゼレのままでいい。

 話の接ぎ穂を探したランマレスは、家族のことを思い浮かべた。

 

「僕の家も父の工房を継いだのは上の兄ですよ。父は再婚してて、今の母は僕らを産んだ人ではないですが、うまくいっているようです」


 言葉を吐いた唇が漠として冷える。

 ランマレスは兄と継母の仲をよく知っているわけではない。悪い話は聞かないからうまくいっているのだろう、という思いで口にした言葉だから、実感が伴っていなかった。

 ドリースが窺うような視線を寄越す。

 

「何人兄弟なんだ」

「六人です。でも一番目の姉は僕が生まれる前に死んでて、だから話に聞いてるだけですね。生きているのは兄と、姉と、ヴィッヘルクックと、僕と、妹。妹の母親だけが僕らと違うんですよ」

 

 それからもう一人、一歳上の兄がいる。つまりドリースと同い年の兄だ。そう気がついて言及しようかとも思ったが、ランマレスの口は動かなかった。

 兄は兄でも庶出の異母兄だ。兄弟の数に加えるのはためらってしまう。この庶兄あにも久しく行方不明で、ヴィッヘルクックとはまた違った意味で消息が気になる存在だった。

 物思いに耽りそうになるランマレスを、低い声が引き戻す。


「エルゼのところも兄弟が多い」

「そうなんですか。ドリースさんは?」

「俺は四人兄弟の末っ子だ」

「ご兄弟も錠前師ですか?」

「まったく違う。布をいじってるよ。俺だけが変わり者だ」

「いいですね、変わり者」


 ランマレスは口元を緩めた。

 鉄をいじりたくて仕立屋から逃げ出したらしいとアーレンスから聞いている。兄弟がみんな布をいじっているなら、「どうして布がいやなのか?」と怪訝な顔をされたかもしれない。

 いいじゃないか、と思う。

 欲求のままに、たとえ周囲が引き留めても自分で自分の道を選ぶ人には逞しさを感じる。自分で自分を守り、自由に歩いてゆける人だ。ドリースから感じる落ち着きと凶暴さの共存は、そういうつよさの表れなのかもしれない。

 ドリースが唇を歪めて一笑した。


「おまえも変わってるな」

「そう、ですか?」


 褒められたのだろうか。

 ドリースの真意はわからなかったけれど、ちょっとだけ打ち解けてくれたらしいことは感じ取った。だから、へへへとランマレスは笑った。

 入り日が二人の影を濃くする。歌うように響く靴と杖の音を追いかけて、夜の闇が迫っていた。

 

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