14 悪意なら悪意が戻るし、好意なら好意が戻る
「誠意をもって問う。汝は何者か」
「誠意をもって答える。私は北の自由なる港町から来た錠前職人、ランマレス・イルマー」
机の上に置かれた箱の前で、ランマレスは職人頭のケスラーと向かい合っていた。
明かり取りの小さなガラス越しにぼやけた夕空が見えるものの、閉め切られた室内は薄暗がりに沈もうとしており、箱の傍らでは一本の蝋燭が細い火を控えめに輝かせている。
箱は蓋が開けられているから、銀貨や帳簿やなにかの彫刻、ほかにもいろいろ入っているのが横目に見える。説明されずともこれが兄弟団の
「好意をもって問う。北の自由なる港町から来たランマレス・イルマーよ、汝は『石の谷の錠前職人団』に何用で訪れた?」
「好意をもって答える。私は『石の谷の錠前職人団』に加入を希望し訪れた」
二人のやりとりを見守っているのは三人の男たちだ。そのうちの一人がドリースで、ほかに小柄な男と大柄な男が口を閉ざして佇んでいる。
歓迎会の前にまずは入団式だ、と職人宿に着くなりケスラーに言われ、ランマレスは急いで入団式の流れを覚えた。ヴィッヘルクックの代理とはいえ、兄弟団ではランマレスをランマレスとして扱う。団員名簿にも代理とは記さないとケスラーは言った。
一年前、ヴィッヘルクックもこうやって入団式に臨んだはずだ。そのときのことをここにいる人たちはどこまで憶えているだろう、とランマレスは頭の片隅で思う。双子の弟であることはもう知っているだろうか。どんな気持ちでこの入団式を見ているのか、彼らの静かな態度からは伝わってこない。
「敬意をもって問う。入団を希望するランマレス・イルマーよ、汝は『石の谷の錠前職人団』の掟に従うと誓うか?」
「敬意をもって答える。私は『石の谷の錠前職人団』の掟に従うと誓う」
教わったばかりの問答をなぞるうちに、こもる熱気と緊張とで息苦しくなった。部屋はけっして狭くないが、見守る三人とランマレスたちの距離は近い。
言葉の合間に息を深く吸う。答え方を間違えたらやりなおしだと言われたけれど、なにかしらの仕置きもあるだろう。つっかえないように、声は大きく、滞りなく、そうして早く終わらせたい。
「信頼をもって問う。『石の谷の錠前職人団』が長、ヨーハン・ケスラーが、旅の錠前職人ランマレス・イルマーに、団の結束を高めるための合言葉を教える。汝はそれを覚え、かつ外に洩らさぬと誓うか?」
合言葉。兄弟団の集会ではもちろんのこと、
決められた挨拶と決められた身振りを決められた順序で披露する、声と手足を使った合言葉。
これを完璧に披露できてこそ、よそから来た
出身地が違えば言語も異なり、遠方から来たのであればまったく通じないということもありうる。読み書きができない職人もいるから、文書での身元確認も都合が悪い。部外者には推測もできないような、身体を使った複雑な合言葉が最適なのだ。
「信頼をもって答える。私は『石の谷の錠前職人団』の合言葉を身につけ、かつその内容をけっして外に洩らさぬと誓う」
ケスラーが「ヘールト」と名前を呼んだ。この場で最も小柄な男が進み出る。穏やかそうな顔つきの青年だが、ケスラーと向き合うなり凜とした雰囲気を纏い、右足で強く床を踏み鳴らした。
合言葉の披露だ。最初はヘールトが一人で動き、やがてケスラーも動く。二人は互い違いに足を踏み鳴らし、短く声を交わし、自分の太ももを叩き、腕をぶつけあった。
ドリースと大柄の男が順に進み出てケスラーたちに加わり、同じように体を動かす。全体的にゆっくりだが、床を踏み鳴らす動作が多いので力強く見える。
ランマレスは壁際まで下がった。
薄暗いから細かい動きはよく見えないし、そもそも一回で覚える自信は皆無だ。それにおそらくこれは基本の動きで、ほかに変型があるはずだと思う。人数がもっと多い場合とか、
生まれ故郷で入った兄弟団の合言葉とはだいぶ違う。
覚えられるかなあ。
やってみたいなあ。
どうせ覚えないといけないし、てことは覚えるんだよなあ。
あ、今の動き、ちょっと楽しそう。
ランマレスの淡い青緑色の瞳は熱意を兆して輝いた。杖を握る手に力を入れたり緩めたりして、繰り広げられる動きを少しでも取り入れようとする。
合言葉の披露が終わると、ドリースたち三人はケスラーを囲み、ランマレスを輪の中央に引き入れた。
「両手を空けろ」
厳かな口調でケスラーが言う。ランマレスは少し悩んでから、杖を腰の革帯に無理やり捻じこんで斜めにした。圧迫されて腹部が苦しいが、我慢だ。
「新たな団員ランマレス・イルマーに、歓迎の杯を贈る」
ケスラーは胸を張って宣言し、
剣を構える戦士の彫刻がまず見えた。入団の問答をしている段階からランマレスの視界に入っていたものだ。ようやく全体が現れた。
杯だ。抱えるほどに大きい。銀製かと思って一瞬ランマレスは驚いたが、銀にしては輝きが鈍いから錫製だろうと思い直す。
ヘールトが戦士を持ち上げた。戦士の足にくっついている蓋も持ち上がり、ふわっと芳醇な香りが漂う。
ケスラーは杯をいったん高く掲げてから、笑顔でランマレスに差し出した。
「三回で飲み干せ!」
杖を腕の下に押しのけ、両手で受け取る。脚がついているけれど持つのは器のほうだ。
ずしりとした重さで腕に力が入った。杯の表面には鍵束と鎖の模様がぐるりと彫金されている。その緻密さは見事で、高価な杯であることはまず間違いない。
こういう杯は
だいたいにして職人兄弟団の儀式や規律は
この杯は特注品で、団体の財力を反映する。素材や装飾が豪華であればあるほど団体の格が高いことを示す。
もともとは貴族が賓客をもてなす際に使う銀の杯が起源らしい。訪れた客に対して、もてなす側の豊かさを杯の豪華さに託して誇示する、という貴族の流儀を
顔がすっぽり入りそうなほど広い飲み口を覗きこむと、黒い液体に自分の顔がうっすら映りこんだ。白い泡が杯の内側に沿って浮いている。
ビールだ。ホップを使う故郷のビールとは違って、なんだか複雑な香りがする。いろんな香草を使っているのだろう。それでもビールはビール。ありふれた飲み物だ。
ビールには絆を結ぶ力があるとされているから、盟約を交わすときにも欠かせない。この一杯は、けっして疎かにできない一杯だった。
とても数口で飲み干せる量ではないけれど、三回で飲み干せと言われたからには従うしかない。ひとたび口をつけたら休んでいいのは二回まで。一回で飲まなければいけない分量は……考えてもいまいちわからない。
ええい飲んでしまえ、と意を決して口をつけた。杯を傾けるのではなく、自分から顔を寄せてビールを吸いこんでいく。
鍔広帽子の下で前髪を真ん中分けにしている額に、困惑と嫌悪が浮かんだ。
焦げたような香りは芳しくていいのだが、美味しくない。吐き出したくなるほど苦くて渋くて不味い。頬の内側と舌が皺だらけになったような感覚に思わず口を離そうとして、「休むのは二回まで」と思い出し無理に流しこむ。
目が潤んだ。
飲みたくない。だけど飲み干さないと。
葛藤しながら吸いこんでいき、そろそろ一息入れたい、と何度目かに思ったとき、味が変わった。
杯から口を離す。ビールの色は黒。泡の少なさも飲む前と同じ。香りも変化はない。ほんのり爽やかで甘い風味がしたと思ったけれど、気のせいだったのだろうか。
口をすぼめて息を吐いた。ひどい渋みで舌を動かしづらい。
眉を寄せながら杯を睨むランマレスに、明るい声援が飛んだ。「なかなかいい飲みっぷりだ」とか「苦しければシュテムスを預かってやるぞ」とか。ドリースだけが無反応だ。
誰からもあからさまな敵意は感じないが、このビールの不味さは意図的だろう。声援の裏に悪意を隠しているのかもしれない。
ランマレスは弱い笑みを浮かべて、疑念を吐息に逃がした。
今の考えは勝手な決めつけだ、と即座に反省する。単なる手違いでこんな味になっているということも考えられるじゃないか。
腹を壊さなきゃいいけど、と黒い液体を見つめた。とにかく飲まないことには入団式が終わらない。次でなるべくたくさん飲んでしまおう。そうすれば最後は楽だ。そう決意して再び口をつけた。
ひとくち飲んで、ぱッと眉を開く。
やっぱり味が違う。
渋みはどこに消えたのか、まろやかな甘さとほのかな苦さが皺だらけの口内を癒やしてくれる。さっきよりもずっと飲みやすい。むしろ美味しい。これならどんどん飲める。
黒い液体が波打つのを見つめながらぐびぐびと杯を傾けていくと、波間に白いものが見えた。
泡だろうか。
変な泡だ。どうして同じ場所からまったく動かないんだろうと思った直後、奇妙な泡は小さな人間の頭となって飛び出してきた。
「ぐふぉっ」
盛大に噎せた。
咳きこむランマレスの周囲を光が飛びまわる。白い泡に扮していたイドだ。「美味しい? 美味しいよね?」と弾んだ声で問い、「これだよ、これ。ランが飲んでくれなかったあのビール! こっそーり、ゆっくーり、入れ替えたからねぇ」と種明かしをした。
ランマレスは目尻に涙を光らせつつ、ビールをこぼさないように杯を支える。イドの言葉は聞こえているし理解もできたが、あれこれ思う余裕がない。咳が止まらなくて苦しい。鼓動も一瞬で駆け足だ。
「がんばれ! もうちょっとだ!」
「一プェニヒ出すなら一口だけ飲んでやるぜ!」
「一グロッシェンなら残り全部だ! かわりに飲んでやる!」
「三回で飲み干せなかったらどのみち罰金だ」
下を向いていたので誰がなにを言っているのかよくわからなかった。咳が落ち着いてきたランマレスは呼吸を整え、首を横に振る。
「ぜんぶ、飲みます」
拍手と喚声で室内が沸いた。
視界の隅で黒い穂のような羽がはためいている。「楽しいねえ」と清らかな声も聞こえる。白と黒を纏った気配にそれとなく目を向ければ、まことに愉快そうな悪童そのものの笑顔があった。ランマレスは眼差しと吐息で苦情を送る。
イドは瞳を金色にきらめかせ、そよ風に吹かれただけのようなとぼけた笑みを返して、歌うように体を揺らした。
無言の訴えなど無意味。悟って諦めの溜息をつき、杯に目を戻す。中身はとうに半分以下。両手にかかる重みもだいぶ減った。順調に三回で飲み干せそうだ。
見た目に変化はないが、美味しくなったのは事実だ。苦み甘みの調和が絶妙で、過去に飲んだどんなビールとも違う。後味も爽やかだし、苦くて渋いだけの味より断然いい。イドがこうまでして飲ませたかったというなら、その気持ちに応えてやるのも一向にかまわない。
どうせ飲むなら美味しいほうがいいしね、と結論を出し、ランマレスは最後の飲みに入る。
手拍子が湧いた。ケスラーもヘールトも、名前のわからない大柄な男も無愛想なドリースも。誰もが手を叩いて新入りの飲みっぷりを応援する。
イドは杯の縁に座った。ランマレスが口をつけているところと真向かいの位置だ。杯が傾くほどにイドは座ったまま上昇する。ランマレスの顔を見下ろし、にやにやと笑っている。
ごくごくと喉を鳴らしながらランマレスは考えた。
入れ替えた、と言ってたっけ。
じゃあ、さっきまで飲んでたあれが、今はあの薬屋の壺の中ってことか。あの苦すぎて渋すぎて不味いビールが。
いいのかなあ。あの薬屋、イドに目をつけられて損ばかりしてないか? ああでもビールが入れ替わってても、あの薬屋は都合よく解釈して喜ぶかも。それでも損だよね。いいのかなあ。
「いいんだよ」
傾けた杯の頂点で、見下ろすイドが目を細くして言い放つ。金色を帯びた赤い瞳はこっくりした色合いで底が知れず、幼い唇に漂う笑みはまるで、勝利に浸る支配者のような傲岸さと酷薄さを感じさせる。
イドのこんな
「あの薬屋は悪魔だからね。悪魔に飲まされたものを突き返したいっていう声に共感したから手を貸してあげたの。蝋燭もビールもイドは奪ったんじゃなくて交換したんだ。火のかわりに壁の一部を光らせて、壺の中身も取り替えっこ。光は目印、酒は宿主。イドはね、あの薬屋がばらまいたものが戻るようにしてあげただけ。悪意なら悪意が戻るし、好意なら好意が戻る。破滅するかどうかはあの薬屋が選ぶこと。だからいいんだよ。ランは気にしなくても」
常にない冷然たるイドの口調に、ランマレスは瞬きを忘れる。
悪魔? 悪いやつってこと?
イドはいったいなにをしたんだ。
蜜蝋の蝋燭を持ち去っただけとか、売り物の薬になるはずだったものをビールに変えただけとか、そういう単純な話ではないのかもしれない。イドは、自分の知らないところでなにか、恐ろしいことをしている。
口際からビールがこぼれて頬にひとすじ伝う。ランマレスは急いで喉を鳴らした。
杯が軽くなっていく。早くなる手拍子と、胃に流れこむ熱さが心の冷えを塗り替える。最後は速度を上げて、歓迎の杯を一滴残らず飲み干した。
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