15 犬猫みたいな飲み方だな
市壁の閉門を告げる鐘は、この場において開始の鐘だった。
眠そうにも聞こえる音が届いた瞬間、乾杯の挨拶が高らかに響く。職人宿の入口を施錠したおかみさんは「あんまり汚さないでね」と告げて裏口から出ていった。
今から帰ることにランマレスが驚くと、いつものことだとケスラーが言う。さすがに閉門してすぐなら夜警の見回りも来ないし、おかみさんの自宅まではわずかな距離だからさほど危険はないという。
残ったのは給仕が一人。頭の禿げ上がった初老の男で、今からおかみさんにかわって職人宿の管理人となる。給仕の仕事はしない。奥に引っ込んで基本は寝ているのだ。
閉門の鐘が鳴ったら酒場も営業終了。ただし鐘が鳴る前に買った酒や料理を腹に収めるのはお好きにどうぞ。それがここの決まりだった。
「意外とやるじゃないか!」
歓迎の杯のときに一人だけ名前がわからなかった大柄の男、コルテに背中を豪快に叩かれる。ゴホッと軽く咳をしてから、ランマレスは「頑張りました」と遠慮がちに口角を上げた。
団員たちの名前は入団式の最後で判明した。全員で自己紹介をしたのだ。ドリースの名前がアンドレアスだということもランマレスはようやく知った。名字も愛称もドリース、だからドリース・ドリースと呼ばれることもあるらしい。
団長のケスラーは体格がいいが、コルテはそれ以上で目立つ。褐色のもじゃもじゃ髪を耳の高さで一つにまとめているのも特徴的で見分けやすい。さらには見た目を裏切らない大声の持ち主だった。
「諦めるかと思ったんだけどなあ。兄貴より気概がある!」
「そう……ですか?」
ひやりとした。
ヴィッヘルクックは嫌われているはずだ。契約違反は雇用主だけではなく兄弟団への裏切りでもあるから。
ヴィッヘルクックの双子の弟です、と自己紹介でランマレスは明言している。皆の反応を見ることなく酒場に移動したのは歓迎会の時間が迫っていたからで、だから自分がどう思われているのかまだよくわからない。
不安を顔に浮かべるランマレスに、コルテは溌剌とした笑顔で言葉を放った。
「飲みきったんだから当然だろう! 兄貴のほうは有り金で解決したって聞いたぞ?」
「俺としてはどっちでもってところだ」
向かいに座るケスラーが話に混ざってきた。射るような眼差しだが、口元はほころんで声にもぬくみがある。
「飲みにくかっただろう? 最終試練の意味もあったんだよ」
「ああ……なるほど」
歓迎の杯で苦渋のビールを振る舞うのは入団式の恒例で、悪意や手違いであの不味さになっていたのではないのだ。
ランマレスは曖昧に笑って帽子の上から頭を軽く押さえた。俯き加減で目をそらす。
途中で美酒に変わってしまったから後ろめたい。ただ、そうかヴィックは飲みきれなかったのか、と胸がすくような気持ちになり、罰金を払えるだけのお金があったんだな、と負けた気分にもなった。
「罰金は宴会の費用に化けるから、俺としてはどっちでもよかった。ああ、宴会だけに使うわけじゃないぞ?
「それぐらい知ってるよなあ?」
「はい。職人の稼ぎじゃお墓は買えないですからね」
ランマレスは顔を上げ、真摯な表情で頷く。
通常は、
不穏な呼び方だが、なにも本当に死体を入れているわけではない。保管しているお金の最大の使い道が葬儀費用だからこその呼び方だった。
独身者ばかりの職人は葬儀の手配をしてくれる親族がいないことも多く、自分の墓地を自分で用意できるほどの蓄えもない。そのため日頃から兄弟団でお金を貯めて、仲間が死んだら葬儀費用に充てるのだ。葬儀に使う用具も共用金庫で保管してあり、大切に使い回している。
ちなみに親方の場合は
ランマレスの脳裡に黒ずくめのエルゼが浮かんだ。
泥棒稼業を「たまに」と肯定していた。事実だとすれば、
ふと思い出したことがあり、ランマレスはおずおずと尋ねた。
「あの、会費っていくらでしょうか。今あまり手持ちがなくて」
故郷で兄弟団に入ったときには集会の参加費をまず納めた。ここでも必要なんじゃないだろうか。
ケスラーはひょいと肩をすくめた。
「今回は免除だ。払ったも同然にしておく」
「え、いいんですか?」
「特例だ」
「ありがとうございます。助かります」
「よし、回そう!」
コルテがひときわ大きな声で言い放ち、「もちろんだ」とケスラーが同意する。直後、隣の食卓で席に着いていたヘールトが立ち上がった。コルテたちの言葉に反応したのだろう。小柄な体でいそいそと向かった先には、ずらっと酒樽が並んでいる。
歓声が飛んだ。
歓迎会とは泊まり込みの宴会のことであり、参加者は主役のランマレスのほか、ケスラーたち四人の錠前職人と、わらわらと集まってきた鍛冶職人たち。
入団式は部外者お断りだが宴会は違う。鍛冶屋宿に間借りしている事情もあって、ケスラーは最初から鍛冶職人たちを交えた歓迎会を準備したらしい。食卓にはさまざまな料理が並び、乾杯を終えるやいなや雑談と飲み食いが始まっていた。室内を照らすたくさんのランプや蝋燭も宿のものではなく、『石の谷の錠前職人団』が用意したものだという。
ランマレスは手近にあるチーズを口に入れ、さりげなく周囲を観察する。
入団式の内容は極秘だ。詳細を話してはいけないし、尋ねてもいけない。ケスラーとコルテが微妙に言葉を省きながら苦渋のビールを話題に上らせたのは、聞かれてもいい部分とだめな部分とがわかっているからだろう。聞こえていたはずの鍛冶職人たちが誰も話に入ってこなかったのも、掘り下げてはいけない話題だと知っているからに違いない。
職人兄弟団は結束が強いため、ほかの兄弟団とは仲良くしたがらない人も多いけれど、ここではうまく協力しあっているように見えた。
「誰から回す?」
「そりゃもちろん、新入りだろう!」
鍛冶職人たちがそう言葉を交わし、どことなく暴力的な笑顔をランマレスに向ける。
恐怖を覚えて目を泳がせたランマレスは、ちょうど近寄ってきたヘールトに「はいこれ」と軽い調子で筒型の器を手渡された。茶褐色の焼き物、取っ手はなく短い脚がついた、一見すると普通の杯。少し大きめだがジョッキよりは小さく、中身は入っていない。
「やり方はわかるか?」
「なんとなく……でも教えてほしいです」
ケスラーに問われて、頭をひねりながら答える。
回そう、と言っているからには回し飲みをするのだろう。回し飲みは一つの杯で酒を飲み干しながら隣に渡し、水差しが空になるまで巡回するという、宴会でよくやる飲み方だ。気になるのは、この杯の内側に見慣れない溝が三本あることだった。
「内側の線は目盛りだ。目盛り一つ分だけきっちり飲んでから右の席に渡す。目盛りより少なくても多くてもだめだ。口を離した時点で確認するからな。もし分量を間違えてたら、罰としてビールをジョッキで一気飲み」
「うわぁ……わかりました」
ケスラーの説明にランマレスは苦笑いで息を震わせた。飲むより食べたいのだが、そうもいかないらしい。
ヘールトが優しげな微笑で水差しを傾けた。茶褐色のビールが火影に照らされて艶めき、あっという間に泡が目盛りを隠してしまう。
杯を覗きこんでいたイドが林檎色の瞳をくるりと向けて、「手伝ってほしい?」と問いかけてきた。ランマレスはわずかに頬をこわばらせる。
あどけない笑顔と澄んだ声から窺えるのは純粋な親切心で、質問に裏はないように見える。それでも先程の冷ややかな姿が頭にこびりついているランマレスは、逆らえない気分で小さく頷いた。
「さあ、挑戦だ」
ケスラーに促されてビールを口に含む。ほどよい苦みだ。鼻腔を抜ける香りは土っぽいというか草っぽいというか、頭がすっきりする感じもあって、なかなか悪くない。
「犬猫みたいな飲み方だな」
コルテが言うと、笑い声がいくつも押し寄せる。
ランマレスは面映ゆくなって背を丸めたが、速度は変えない。ゆっくりゆっくり味わって飲んでいく。
まだだよぉ、と囁きが聞こえていた。まだ、まぁだ、まだいけるぅ、と。
いたずら好きで気まぐれな妖精イド。
二年ほど前に現われて、ランマレスにしか見えていない謎の存在。
本当は妖精なのかどうかもわからない。ランマレスが勝手に妖精だと思っているだけだ。イドはイドとしか名乗らず、ランマレスの旅を支えに来たとだけ自身を語った。
イドがランマレスに隠していることは一個や二個ではないのだろうし、善か悪かどちらだ、と考えだすと心がざわついて答えられない。
ただ少なくともイドは嘘をつかない。曖昧な言い方や
ほどなくして「やぁめ!」と涼やかな声が聞こえた。
「ぴったり」
見守っていたヘールトが感心したように言う。「幸運なやつめ!」「潔くいけ!」と複数の声が飛んできた。コルテには当然のように背中を叩かれ、飲んだビールがせり上がりそうになる。
「どうも、ありがとうございます」
称賛と野次に応えつつ、言葉尻をかぶせながら視線をイドに向けた。小さな友に礼を伝えたつもりだった。
ランマレスの正面で飛んでいたイドが、「ふふん」と得意げに胸を張った、その時。
――もうすぐ脱退か。
ん、とランマレスは天井を仰ぐ。
不意に聞こえた声が奇妙な響きを伴っていた。波の満ち引きのように、一音ごとに揺らいで聞こえたのだ。
きょろきょろと見回せば、離れた席にドリースがいた。静かに食事をしていて、誰かと会話をしている様子はない。
どよめきが生まれた。コルテはわずか一口で目盛りまで飲んだらしい。ヘールトが「さすが」と声をかけている。
――どんどん行こう。そして俺に食べる時間をくれ。
さっきとは違う声が聞こえてきた。やはり揺らいでいる。空腹を訴える内容には親近感が湧くけれど、いったい誰だ。
――双子ねえ。印象に残る顔なんだよな。一年前に見たっきりなのに。けど杖が違う。それに……肉うめえなあ。
んんん?
ランマレスは素早く対面の席を見る。今のはケスラーさんの声、と思ったけれど目の前に座っているケスラーは隣の鍛冶職人がこぼす愚痴を聞いているようだった。食べているのは肉料理のようだが、視線はランマレスを向いていない。
おかしい。なんだこれ。酔った? 空きっ腹にビールを入れすぎたから?
「ちがうよぉ、ビールが原因だけど、酔ってるからじゃないよぉ」
いつの間にかランマレスの右腕で腹這いになっていたイドが、無邪気そうな笑みを湛えた。
「イドが作った魔法のビール。飲むと、近くにいる人の心の声が聞こえるようになるんだよぉ」
「は……あ?」
思わず声が出た。
回し飲みの三人目は挑戦失敗で一気飲み。声援と拍手が送られたため、ランマレスの声はかき消される。それなのに別の声がいくつも聞こえてきた。揺らぎを伴いながらもはっきりと、頭の中で。
――賄いじゃこんなに食えないから今のうちに食っとかないと!
――そんなに似てるか? 別人だってすぐわかったけどな。
――明日は寝坊できる……
次から次へと声が飛びこんでくる。誰の声か聞き分けようとするそばから新しく声が聞こえてくるため、感想を持つ余裕もない。
「心を読みたいって言ってたでしょ? だから叶えてあげたんだよぉ」
ゆらんゆらんと体を左右に揺すりつつもランマレスの腕から落ちることなくイドが言う。
そういえばそんなことを言った気もする。たしか、旅の心得についてだ。だけどあれはイドの心が読めたらいいのにって意味だった。
「イドの心の鍵はそう簡単に渡せないしぃ。あ、この魔法はいっときだけだよ。人の心を覗くなら今のうちぃ」
ランマレスは両耳の軟骨を指先で押さえて軽く耳を塞ぎ、顔をしかめる。
――ドリースもうまくやったよなあ。もう親方かよ。
「わざと失敗する気か?」
――いっそ明日は休もう。みんなで休めば怖くない。
「この肉、火が通ってないぜ」
――こないだ貸した金まだ返ってこない……
「そういえば、この前あれあっただろ、あれ」
話し声と拍手が耳から入ってくる。同時に、奇妙に揺らぐ独り言がたくさん頭の中に割り込んでくる。
うるさかった。うるさすぎた。
「ほらほら、早く食べなよ。なくなっちゃうよぉ」
弾むように言ってイドがランマレスの腕から離れた。皿と皿の隙間に着地し、四方から伸びてくる職人たちの手をすり抜けて食卓の中央を移動していく。じつに軽やかな足さばき、羽さばきだ。
ランマレスは食べた。パンとチーズを頬張って、咀嚼しながら炙り肉も切り分ける。
複雑な気分だった。
すごい魔法だと思う。何気なく放った願いを叶えてくれたのも嬉しい。でも勝手に他人の心を覗くのは気が咎めるし、聞こえる声が多すぎる。
たまに天井を仰いだり頭を振ったりしながら、食べて、飲んだ。回し飲みが一周するとサイコロ勝負に引っ張り出され、また飲まされて、合唱もした。
いくつもの「誰かの本音」が頭の中を通り過ぎてゆく。人を羨むもの、蔑むもの、卑猥なもの。純粋に宴を楽しんでいるものもあれば、宴とまったく関係ないことで悩んでいるものもあった。
耳に届く話し声は聞き流せるからまだいいが、頭の中に反響する『声』はそうもいかない。自分が考えていることなのか、他人の『声』なのか、たまに区別がつかなくて混乱もした。
――日記を見せてもらうかな。エリーがさっき見てるはずだから、いいっちゃいいけど。
その『声』が不意に聞こえたとき、ランマレスは針で額を刺された心地になった。
エリーというのは、たぶん、エルゼの愛称。
もっと聴きたかったけれど、別の『声』に邪魔されて結局それ以上のことはわからなかった。
盛り上がる宴会の隙を見て、足元に置いている鞄の錠を外す。
背負い鞄にはしっかりした錠前付きのものもあるけれど、ランマレスの鞄は二本の細い革帯を尾錠で締めるだけだから、誰でも開けられる。
ヴィッヘルクックの旅日記が入っているのを確認して、ふう、と胸を撫で下ろした。
鞄を開けたついでに、種類の違うパンを一個ずつパン袋に入れた。持って帰って明日の食事にしよう。
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