16 憶えてないくらい長生きってこと?

 夜明け前に起こされた。

 名前を呼ばれただけで目を覚ましたのだから眠りは浅かったのだ。寝台から下りるとき、体が揺れているようなふらつきをランマレスは感じた。気分が悪いというほどではないが、なんだか自分の体が自分のものではないような、変な余韻があった。

 ケスラーたちはまだ眠っていたので声をかけず、身支度をしてドリースと一階に下りる。掃除をしていた管理人兼給仕のおじいさんが、驚いたように顔を向けた。


「汚してすみません」

 

 散らかしてしまった昨晩の名残を見て真っ先に謝罪したのはドリースだ。その丁寧な態度が意外で、感心したランマレスは背伸びするような気分で「ごめんなさい」と真似をした。

 おじいさんは小言ひとつなく、出入口の鍵を開けた。

 薄明の街をドリースと歩く。通りには木の骨組に支えられた白い外壁と赤茶色の屋根が立ち並んでいる。ほかに人の姿はなく、鳥もまだ身を潜めているらしく、二人の足音だけがする。

 ランマレスは明け方のひんやりした空気を胸いっぱいに吸った。

 頭の中に他人の独り言が入ってこない。それがこんなにも爽やかなことだとは知らなかった。おのずと思考は昨夜の歓迎会に及ぶ。

 人が声に出さない本心をいくつも聞いた。聞きたくなくても聞こえた。同時にしゃべるそれらの声はすべて明瞭で、誰のものか聞き分けるのは難しいのに内容は聞き取ってしまうから、煩わしくて何度も頭を抱えたくなった。

 げんなりしながら必死に耐えていたら、「おねむか?」とコルテにからかわれた。酔っていると思ったらしい。「そこそこ飲めるが、そこそこだな」という評価も授けてくれた。そう告げるときのコルテの心の声が、口に出している言葉と一致していたことに、妙に安心した。ちぐはぐな人としゃべるのは疲れるし、気が滅入ったのだ。

 イドはいつもこんなにうるさい思いをしているのだろうか。

 しみじみと同情しかけたとき、「イドは垂れ流しになんてしないよぉ」と笑われた。

 垂れ流し。失礼な表現だとは思ったが、確かに垂れ流しだ。堰き止める方法があるなら教えてほしかったけれど、質問は口に出せない。

 イドは縦横無尽に踊り狂いながら、妙なことを言った。「ランは慣れてるはずなんだけどなぁ。あ、でもそっか。聞こえるだけでしょ? イドはそれだけじゃなくて、見えるんだからねぇ」と。

 どういうことだ、と思ったが、イドはもう答えてくれなかった。

 振り返ってみれば、コルテの心の声は静かだった。ほかにも何人か、口ではしゃべっているのに『声』が聞こえてこない人たちがいた。

 思考と発言が同時なのか、あるいは言葉ではなく景色や姿を想像するだけで物事を考えられるのか。イドが言う「見える」は後者だろうか。そうだとすれば、人の心は多様で奥が深い。

 料理と酒がすべてなくなると、床に転がっている人を回収してそれぞれの部屋へと引き上げた。錠前職人は全員で一部屋だった。

 コルテはすぐに寝入っていたが、ヘールトは「針で石を縛らなきゃ」など突飛なことを考えていた。思わず突っ込みを入れたくなるほど愉快な『声』だった。

 悩み多きはドリースだ。

 行ったり来たり思い巡らしていた彼の言葉を、静けさを手に入れた今、頭の中で並べ替えていく。


 ――こないだ職人になった気がするのに。


 そう言っていた。ドリースが職人になったのは、たぶん二年か三年前だ。


 ――徒弟を卒業したらケスラー親方から追い出されて、鳥の巣のクノーア親方にも断られちまったんだよな。

 

 クノーア親方はエルゼの亡き夫だろう。職人を新たに雇う余裕はない、とドリースはきっぱり断られたようだ。

 だから町を出た。雇ってくれる工房は隣町で見つかった。契約期間はひと月。その後は町に戻り、エルゼと再会した。


 ――久しぶりで、変な感じだった。


 短い感想を述べて、『声』はヴィッヘルクックのことに飛んだ。

 ケスラー錠前屋で雇用を断られたらしいヴィッヘルクックは、エルゼの夫にしつこく「雇ってほしい」と食い下がった……とドリースはエルゼから聞いた。


 ――待っていてと言うから、待ったんだ。


 誰に、なにを待てと言われたのか。想像しようとしたが、諦めた。断片的な言葉からは知りようがない。

 ドリースの『声』が語る大半は、親方になることへの不安だった。

 注文の減少、納期の遅れ、品質、木炭の値上がり、いずれ雇う職人や預かるであろう徒弟について。

 同職組合アムトでどう振る舞えるのか、近くの町の同職組合アムトとはうまくつきあえるか、ケスラーたち職人との関係はどうなるか、などなど。

 じつに多くのことを連想に次ぐ連想で考えていた。

 ランマレスは斜め前を歩く猫背を視界に収めてから、息を吸って仰のく。青紫色の雲が横たわっている。

 そりゃあ悩むよね、とやっと思考がまとまった。

 親方と職人は違う。あらゆる面で違いが出る。

 そのことをランマレスは深く考えていなかったが、ドリースは今まさに直面している問題なのだ。

 昨夜のような歓迎会にしろ、定期的な集会にしろ、親方になったら職人兄弟団の集まりにはもう参加できない。「職人」でなくなる以上、これまでのような盟友ともがらではいられないのだ。

 一方で今後は同職組合アムトの集会に参加しなくてはならない。

 同職組合アムトというのは言い換えれば親方たちの兄弟団だ。これに入らずして親方にはなれない。職人や徒弟も所属するけれど、親方に隷従する形での加入であって、正会員はあくまで親方だけだ。

 昔は同職組合アムトしかなかったという。そのころの親方たちは職人に対してかなり横暴だったそうで、対抗するために職人たちが結成したのが職人兄弟団だ。

 だからこの二つの組織は、要求の食い違いであっという間に対立する。連携はしているが、親密ではない。昨日まで助けあっていた職人たちと、親方になったとたんに争う可能性だってあるのだ。

 その兄弟団を束ねるケスラーもまた思い悩んでいた。ドリースに先を越されて面白くないが、自分は親方になれないまま死ぬだろう、と。

 聞こえるに任せて聞いているうちに、いつの間にかランマレスは眠っていた。「この放浪職人ヴァンダーゲゼレはどうしようか」という『声』も聞いた気がするけれど、定かではない。誰の『声』だったかもわからない。

 ランマレスの淡く緑がかった薄青い瞳は、明けれの空から滑り降りて、痩せた横顔をそっと映す。

 引き結んだ口元には陰気さが漂い、鋭い目は前を向いている。やや丸めた背中は億劫そうなのに、足取りは力強い。

 きっと今も仕事のことを考えている。深酒にならぬよう加減しながら飲んでいたらしいのも、早起きして帰路についているのも、いつもの時間にいつものように工房を開けるためだ。

 すでに、背負っている人なのだ。

 沈黙は続いた。ランマレスの帽子に乗ったイドだけが上機嫌な様子で、工房に帰り着くまでずっと鼻歌を口遊んでいた。





 

 賄いの朝食を取るドリースと別れ、ランマレスは職人用の部屋に戻る。

 手探りで杖を壁に立て掛け、窓の板戸を突き上げて部屋の闇を逃がした。帽子と鞄を机に置いて、マントを椅子の背に掛けてから腰を下ろす。とたんに溜息がこぼれ、両肩がぐったりと前に出た。


「疲れた……」


 まだ朝なのに。これから仕事なのに。

 ぼんやりと壁を見る。仄明るい部屋で、薄汚れた白い土壁が冷たく視界を塞ぐ。


「おつかれさま?」


 頭の上から声がした。逆さまに覗きこむイドと目が合う。ランマレスはさりげなく視線を外し、ぼそりと答えた。


「怒濤の二日間だった」

「楽しいね?」

「楽しい、かなあ? 貴重な体験はできたけど。イドは……」


 声がすぼまる。言いたいことを言葉になる前に見失ってしまい、なにかを言いたかった気持ちだけが残った。

 窓の外で鳥の声がする。かすかに流れる風は肌寒い。煙っぽいのは、窯や炉を使う人が多い時間帯だからだろう。

 静穏な朝だ。宴会の喧噪は遙かに遠い。


「イドって、男の子だよね?」


 口をついて出た言葉はあまりに些細な疑問で、かえって訊けずにいたことだった。

 イドの顔立ちは幼く、女の子にも男の子にも見える。髪の毛は短めだが、それを理由に男の子だと断定するのも違和感がある。

 態度や言葉遣いは男の子かなと思うのだが、身に纏っている衣服は曖昧だ。上下がつながっていて丈が長く、全体的にゆったりとしている。女物にも思えるし、聖職者が着る服にも似ていた。

 けっして粗末ではないとランマレスは思う。むしろ気品がある。袖と裾の縁飾りも、肩から裾に伸びるすじ飾りも、絡み合う木の根や蔓などを刺繍したもののようだが、ずっと見ていたくなるほど緻密だし色合いもふしぎなのだ。

 生地も白、刺繍も白だから目立たないけれど、刺繍だけ光って見えたり金色や赤っぽく見えるときもある。まるでイドの瞳のように、一色ひといろではない。そういう神秘さも相俟って、イドの性別は男女どちらにも見えてくる。

 ふわっと真白き衣が舞い、刺繍がきらめいた。ランマレスの眼前で宙返りを決めたイドは浮いたままくるりと振り返り、偉そうに胸を反らす。

 

「どっちがいい?」

「俺が決めることなの」

「決めていいよ?」

「どっちでもいいよ……」

「じゃ、イドはイドってことで」

「そうですか」


 訊くだけ無駄だったなと嘆息して、水筒を首から外す。中身は歓迎会で出されたビールだ。


「じゃあイドって何歳?」


 話のついでに問えば、イドは困ったような顔で小首をかしげた。

 

「難しい質問だねぇ」

「知らないの?」

「そういうわけじゃないけどぉ」

「憶えてないくらい長生きってこと?」

「んー、そうとも言えるし、そうじゃないとも言えるし、どこを始まりとするかで変わるというかぁ」

「どういうこと?」

「んー」


 鞄から小型のメッサーを取り出し、片手に余る四角い黒パンを切り分ける。それらを一枚、二枚と食べ、ビールで口を湿らせ、さらに豆の入ったパンも一切れ頬張って返事を待ってみたが、イドはうんうん唸りながら腕を組むだけで返事をしない。


「答える気がない?」

「うん」


 真面目くさった様子で頷かれて、ランマレスはうんざりした表情になり鼻から息を吐いた。口は咀嚼で忙しい。

 机に降り立ったイドが水筒に背中を寄せる。インクに浸かったような黒い羽の穂先を揺らし、能天気な笑顔を見せた。


「まあまあ、そのうちね。そんなときが来たらね」

「そうですか」

「イドを信じない?」

「さあねえ」

「イドがいれば、いいこといっぱいあるよぉ」

「慌てることも多いけどね」

「それはいいことでしょ?」

「なんで?」

「楽しんでるってことでしょぉ?」

「イドの感覚と俺の感覚が違うということがよくわかった。……さてと」


 仕事だ。

 作業着に着替えようと服を脱いだところでドリースが戻ってきた。視線を交差させただけで特に言葉は交わさず、それぞれ着替える。部屋を出るときもお互いに無言だった。

 昨日と同じように作業を分担して進めていく。今日はエルゼもいた。陳列台の前に座って帳簿をつけたり針仕事をしたりしながら、接客もするようだ。

 

「今日はエルゼさんもいるんですね」

「手があいてるから」

 

 だったら昨日の午後はなにをしていたんですか。

 口に出かかった言葉を、直前で別の質問に変えた。


「ハンスくんはどうしてますか」

「近所に行ってるわ。読み書きと算術を教えてくれる人がいるの」

「学校ですか? 中央広場の近くにありますよね。だいぶ古そうな建物でしたが」

「昔からある学校よ。でもあれは職人向けじゃないの」

「なるほど。じゃあハンスくんは」

「イルマー、集中しろ」

「はい」


 ランマレスは素直に口を閉じる。

 割り振られている仕事は、研磨だ。昨日から取りかかっているのは扉用の錠前と鍵だった。

 鍵のほうはあらかたやすりをかけて汚れを落とし、手触りもなめらかにしてある。菱形の握りにはまだなにも模様がないが、研磨が終われば蜂の巣を彫るという。

 錠前のほうには蜂の巣模様がすでに刻まれている。こちらは側面の研磨だけが後回しになっていると説明された。

 仕上げた製品は実際に売る前に同職組合アムトの検品を受ける。雑な作りでは売る許可が下りない。

 たとえ一週間しかいなくても、無報酬でも、仕事をする以上は責任がある。ランマレスは隅隅まで観察し、指で確かめ、気になれば万力で固定してから鑢を動かした。

 エルゼが来客で席を立ったのは昼前だ。来客といっても工房の客ではなく、食事を作るために台所を借りに来た隣人だった。そのままエルゼは台所から戻らず、昼休憩となった。

 ランマレスは朝と同じく部屋で一人、イドとしゃべりながら食べた。

 最近は金銭的な理由で昼食抜きも増えてしまったが、働くのならやっぱり昼食をしっかり取りたい。歓迎会から持ち帰ってきたパンは三種類の五個。それらをすべて食べきった。

 午後もひたすら研磨を続けた。蜂の巣模様の錠前一式が終わると、今度は若返りの象徴、蜥蜴をあしらった錠前だ。これもすでに部品を収めて接いであるので、側面を研磨するだけでいい。

 この工房では錠前の装飾図案がいくつか用意されていて、依頼人はそこから選ぶそうだ。鳥の巣模様もあるのかな、と小さな疑問がランマレスの頭をよぎった。

 研磨待ちの錠前はもう一つ残っている。一日で終わらせるのではなく、雇用期間内にこれだけ終わらせてくれたらいい、という指示だった。

 隣の席で箱錠の動作確認をしていたドリースが、軽く鑢をかけてから組み立て前の箱錠をランマレスに渡した。


「部品から研磨しろ」


 こうなるとぎりぎり終わるかどうか、手間取らなければいけるだろう、という数になるが、まあやれるだけやってみようとランマレスは頷く。内部構造を観察する絶好の機会でもあるし、むしろ意欲は高まる。

 たまにドリースが「炉に風を送れ」とか「炭を足せ」とか言うときも、積極的に従った。

 薪と違って木炭は炎が小さく煙も薄い。薪よりも長く燃え続け、風の強弱で火力を調節できる。風を送るにはふいごを使う。

 炉の横にある鞴は蛇腹型で、上に取り付けられた横木に、鞴とつながったが引っ掛けられている。梃子の持ち手は炉の内側に向いているから、鞴で炉に風を送り木炭の温度を上げて鉄を軟らかくする、という一連の作業を一人でおこなうことも可能だ。

 しかし、できるからと言って一人で毎回やるものではない。

 基本的に鍛造は二人一組でする。そのほうが作業に集中できるからだ。鞴を動かすのも、火から出した鉄を鉄床で動かないように押さえるのも、本来は徒弟の役割だった。今はどちらもランマレスが担当している。


「いつも一人で作業してたんですか?」

「いいや。エルゼやハンスが手伝ってくれるときもある」


 ドリースの返事は淡淡としていて簡潔だ。


「今だけだ。親方になったら職人か徒弟を紹介してもらう」

「ああ、そうですよね」


 昨晩のドリースもそんなことを考えていたな、とランマレスは思い返し、自分の仕事に戻った。

 

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