12 媚薬か惚れ薬をまとめ買い
リンデの木に身を隠しながら斜向かいの薬屋を窺う。
アーレンスと別れた直後、「すぐそこだよぉ」と言うイドに導かれたのがこの薬屋だ。
道は石畳だけれど馬車が通れるほどの広さはなく、立ち止まってじろじろ見ていれば間違いなく店にいる人と目が合ってしまう。道沿いにある建物はこの薬屋だけではないから、木蔭に隠れきることも不可能だ。
不審がられるのを避けるため、ランマレスは街路樹に寄りかかって水筒を傾けた。中身は入っていないのだが、喉の渇きを癒やすふりをしながら薬屋を観察する。
受付台を兼ねる窓の周囲に大小の壺が並べられ、中では背の高い男が作業をしていた。前にせり出した帽子をかぶり、腕まくりをして細い棒を持ち、自分のお腹ほどに大きい壺の中をかき混ぜている。
二十代のようにも見えるが、顔の角度によっては四十代ほどにも見えた。さすがに二十代で薬屋のあるじにはなれないだろうから、若く見えるだけだろう。
蜜蝋の蝋燭を使っているなんてどんな金持ちかとびくびくしていたのだが、「あの人だよぉ、イドの魔法で腰を抜かしちゃった人」と言われて、ランマレスは頭をひねる。
一見すると普通の薬屋だ。ここに蜜蝋の蝋燭があって、その蝋燭を買った代金はエルゼさんのものだった。ということは、
「薬を買ったってこと?」
洩れた呟きに応える声はない。気にせず考えこんだ。
蜜蝋製の蝋燭が買えるほどの高価な薬と、錠前屋の女親方。めったなことでは結びつかない組み合わせだ。値が張る薬は諦めるものではないだろうか。錠前屋はけっして裕福な職業ではないのだから。
それとも、治せるなら無理をしてでも治したいと考えたのか。どんな病にかかっていたのだろう。誰が、いつ。
不意に「うわぁ!」という悲鳴が聞こえて思考が断たれる。ランマレスは下がっていた視線を斜向かいに据えた。
薬屋のあるじが後ろの棚に寄りかかり、衝撃で小さな壺が棚から飛び出した。床に落ちるすんでのところで薬屋が受け止め、しゃがんだまま顔を振り向ける。ランマレスも彼の視線を辿った。
大きい壺の中で細い棒がくるくると動いている。先程まで男がかき混ぜていた壺だ。ランマレスは思わず「なにやってるんだよ」と口走った。
いたずらな妖精イドが、両手で棒を抱えるようにして壺の上を飛んでいる。イドの姿が見えない人には棒がひとりでに動いているように見えるだろう。とても怖いに違いないと、ランマレスは心配して薬屋に視線を戻した。
「ま、魔法だ……魔法の……奇蹟……、やっぱり……」
喘ぐようにぶつぶつとなにかを言っている。ランマレスにはよく聞き取れず、怪訝な顔になって薬屋とイドとを交互に見やった。
イドはさらに調子を上げて高速旋回する。もはやランマレスにも白い光が円を描いているようにしか見えない。
こわばっていた薬屋の表情はだんだんに硬さが取れていき、やがて陶然としたものになった。ランマレスの唇から、ふと呟きがこぼれる。
「魔法の蝋燭って……まさかこれのこと? イドのいたずらを魔法って呼んだ?」
イドが蝋燭を盗んだのは彼の目の前だったはずだ。急に蝋燭が消えたことを彼は「魔法」と呼び、そう呼ばれたのでイドも「魔法の蝋燭」と名付けた。そういうことなのではないか。
だとしたら、なんてしょうもない魔法だ。ランマレスは脱力して額を押さえた。
もちろんイドの姿が見えない人には訳がわからず、恐怖するか有り難がるかの二択になるのかもしれない。その気持ちもわかるからこそ、なんとも言えず苦い気分になる。
「とりあえず……」
騒ぎに気づいて人が集まると面倒だ。さてどうやってあれを止めようかと壺に目をやったとき、突然イドは回るのをやめた。
壺の真ん中にまっすぐ棒を立たせて、その上に爪先立ちをする。桑の実より黒い羽を左右に開き、雪より白い髪の毛をふわふわとそよがせながら、光の衣を纏った小さな体は一点にとどまって動かない。イドは顎を突き上げ、「できた!」と高らかに宣言した。
「なにが……?」
思わず問いかけた声は、薬屋にも聞こえたらしい。小壺を握りしめて座りこんだまま振り向いたので、気づかれた、とランマレスはばつが悪い顔をする。
イドも振り向いて「美味しいビールだよぉ!」と嬉しげに答えた。普段は赤みの強い林檎色の瞳が鮮やかな若緑色に輝いている。
ランマレスは目だけで頷いた。
さっき言ってたね、もっと美味しいビールができるだのなんだのって。だけど薬屋さんはその壺で薬を作ってたんじゃないの? まるで本当に奇蹟みたいだけど、薬になるはずだった材料が消えちゃったってことだから薬屋さんには損失なんじゃないの?
イドを責める言葉を喉の奥にしまい、水筒から手を離して木蔭から出る。薬屋に歩み寄り微笑みかけた。
「こんにちは。えっと……」
長い爪先が棒から離れて宙に浮いた。得意満面でふんぞり返るイドの足元で棒は傾き、力尽きたように、魔法が解けたように、壺の縁へと軽い音をたてて倒れる。
それをはっきり目撃していた薬屋が無理やりのように口角を上げた。大きく見開いた目は潤んでいる。
怯えながらも感動しているような複雑な顔色の薬屋に、ランマレスはどう声をかけようか悩んだ。「今のすごかったですね」か、「驚かせてごめんなさい」か。考えあぐねて「ええっと」を無駄に繰り返してしまう。
薬屋はのろのろと立ち上がり、「いやあ……」と親しげに声を発した。
「うっかり足を滑らせまして。あ、今なにか見ました? あなたも? 運がいい! すごいでしょう? きっと妖精ですよ。姿は見えないですけどね、いるんですよ、確実に」
「え? ああ、その……」
イドがランマレスの視界を邪魔するように飛んできて、わくわくした様子で口を開いた。「ねえラン、このビールちょっともらいなよぉ。ひとくちくださいって言ってみてよぉ」
「ええっと、そのすごいビール……じゃなかった、ビールみたいな香りがしますね。きっとすごい、ええ、ご主人への贈り物でしょうか。だからその、飲んでみたらいいと思います」
イドがぷくりと頬を膨らませた。瞳の色は緑が薄れて赤に染まりつつある。「ランが飲もうよぉ、ひとくちでいいからぁ」
「やや、本当だ! ビールじゃないか!」
「よかったですねえ、贈り物ですねえ」
「このままでも充分……だが、蒸留すれば良質の薬に……?」
薬屋はビールを指につけて舐め取り、ぶつぶつと検討しはじめた。
真っ先にビールと薬を結びつけて考えるなんて、さすが薬屋だ。ランマレスは尊敬の眼差しを薬屋に送り、不満そうにむくれる相棒には咎める視線を投げる。
薬屋がはっとした様子で顔を上げた。
「ところで、なにかご入り用で?」
イドが勢いよくランマレスの頭に座った。弾みで大きくずれた鍔広帽子がランマレスの視界をすっぽり塞いでしまう。
そよ風すら吹いていないのに帽子だけが不自然に動いたのを見た薬屋は、総毛立つように肩に力を入れて目を剥き、ぎゅっと唇を引き結んだ。
脱げ落ちそうな帽子を慌ててランマレスが直すと、澄み透るように薄青い双眸が鍔の下から現われる。困惑を浮かべながらも穏やかなその瞳と視線を合わせた薬屋は、硬直を解いて破顔した。
「具合が悪いのですか? 医師に相談は? 薬を処方されたのならご用意できるかと……」
帽子を直した手をそのまま頭の上に置いて、「ええっと」と言ったきりランマレスは押し黙った。思い浮かんだのはエルゼの顔だが、なにをどう言えばいいのかわからない。目が泳ぎ、帽子を押さえる指に力が入る。
薬屋はしげしげとランマレスを眺めた。
「お兄さんは、旅の職人かな?」
「え? あ、はい。そうです」
「だったら、夜を楽しくするお薬をご所望で?」
「夜?」
「ございますよ! 職人たちに大人気の秘薬が!」
「秘薬」
薬屋は整った容貌にそこはかとなく色気を漂わせて笑い、手招きした。応じたランマレスに顔を寄せ、そっと囁く。
「官能を高めるお薬ですよ。強いものから軽いものまで取り揃えております。効果のほどは人によって変化しますので絶対的なものではございませんが、なあに、だいたいの方は満足しておられますよ」
「か、んのう?」
なにを言われたのかわからなかったが、聞き返そうとした瞬間に理解して声が上擦った。慌てて体を離すと、薬屋は血色のいい笑顔ではっきりと告げた。
「つまりは媚薬ですよ。堀端を歩く可愛い女の子たちと戯れるのはけっして誉められたことではないですが、独身が常の職人さんなら普通のこと。媚薬は楽しみを後押しするものです。いかがですか?」
「いえ、結構です」
「遠慮しないで。五月は恋の季節。愛の歓びを謳歌する麗しき春! 慎み深い冬は終わりだ。今だけは遠慮しちゃいけません」
「季節とかじゃないです。結構です」
「そんな、もじもじしてたのでてっきりそうだと思ったんですが」
「ちがいます! ちょっと質問がありまして、あの、僕のことではなくてですね」
「なんでしょう?」
にこにこと笑みを浮かべる薬屋を前にして、ランマレスは流れのままに問いを口にした。
「み、蜜蝋の蝋燭が買えるほどの値段で女性が買う薬って、なにかありますか」
「蜜蝋……」
薬屋の目つきがほんのわずか鋭くなる。笑みは崩さず、平然とした声で問い返してきた。
「いくつかございますよ。女性というと、独身の娘さんでしょうか? それともご結婚なさっている?」
「ご結婚なさっています」
生真面目に答えてから、買った時期がわからないんだったと思い出した。もしも夫を亡くしてからの話なら、結婚しているという言い方は違うように思う。
訂正しようか逡巡しているうちに、薬屋はうんうんと頷いて話を進めた。
「そうなりますと、夫との仲を深めるために媚薬か惚れ薬をまとめ買い。あるいは……」
周囲を憚るように視線を巡らせ、意味ありげに微笑む。
「ぴんぴんしている草を弱らせ、誰にも気づかれずに枯れさせて取り除くためのお薬ですかね」
「え?」
「要らない草は取り除いたほうがお花も華麗に咲きます。同じ植物とはいえど、元気にさせるお薬も、弱らせるお薬も、どちらも取り扱っておりますよ。ただし強い効き目のものほど高価となっております。ええ、それこそ蜜蝋の蝋燭が買えるくらいに」
ランマレスは首をかしげた。媚薬や惚れ薬から、いったいどうして草とか花とかの話に飛ぶのか。しかも、草を枯れさせる薬とは。
そんなものがあるなんて聞いたことがない。植物を元気にさせる薬なんてのも知らない。植物の治療薬? まるでそれじゃあ草花が人間みたいじゃないか。
そんな考えが頭を駆け巡り、ざわりと肌が震えた。
「そうですか。そんな薬もあるんですね。ありがとうございました」
ぎこちなく笑って感謝を伝え、呼び止めようとする薬屋を後にした。陽は翳ることなく空気も暖かいのに、杖を握る指先が冷えている。
「次はどこに行くのぉ?」
頭上からのんきな声が聞こえた。イドの考えを聞きたかったが、どうせはっきりとは教えてくれないんだろうと思い、大きく息をつく。か細い声で返事をした。
「戻るんだよ、工房に」
隣に建っている煉瓦造りの立派な酒場は鍛冶屋の会館だ。それに比べてこちらは木造の小さな酒場、どうしても見劣りする。
そのせいか店内には客がいなかったが、掃除が行き届いている気配があって居心地はよさそうだ。
用があるのは酒場の二階だった。午前中にエルゼが連絡していたらしく、すでに組合長と職人頭が待っていた。
道すがらエルゼが教えてくれた話によると、この町に錠前屋は二つだけ。エルゼの工房である『鳥の巣錠前屋』と『ケスラー錠前屋』だ。『鳥の巣錠前屋』の名前の由来は初代親方のあだ名が「鳥の巣」だったから。そういう髪型をしていたらしい。二代目は初代の入り婿で、二代目の息子がエルゼの亡き夫にあたるという。
対する『ケスラー錠前屋』はその名に偽りなし、ずっとケスラー家の直系が継いできた。歴史もこちらのほうが古い。
二つの工房を合わせて親方が二人、職人は四人、徒弟が二人。
組合長を務めているのはケスラー親方で、職人頭を務めているのは組合長の弟、という関係らしい。
なるほど確かに、組合長と職人頭の二人はよく似ているとランマレスは思った。頑健そうな体躯も厳格そうな面立ちも、それでいて声には温かみがあって頼もしさを感じるところも似通っている。大きな違いは組合長の顎鬚のほうが濃いということだ。
話し合いは意外とすんなり終わった。細かい確認があっただけで、反対する人がいなかったからだ。
雇うのはあくまでエルゼであり、当のエルゼが納得しているのなら問題ないらしい。職人頭のケスラーはなにか言いたそうだったが、反対はしなかった。
市庁舎への届け出は「ランマレス・イルマー」となり、ヴィッヘルクックの名前は出さない。事情を説明する必要もない。組合長から渡された札を持って市庁舎に赴き、無事に就労許可を貰うことができた。
仕事は今日からだ。
エルゼと一緒に工房に戻ると、
足早に階段を上って部屋に入り、亜麻織りの作業着に着替えた。くすんだ緑色をしているが、この旅が終わるころにはきっと黒ずんで緑色は消えているだろう。それでいい。
革の前掛けを身につけ、鍔広の黒帽子をかぶりなおし、革の手袋をはめて革靴の紐をしっかり締めてから、いざ工房へ踏み入った。
「よろしくお願いします!」
溌剌と挨拶をしたのだが、ドリースは無言のまま顔も上げなかった。
甲高い音が小気味よく響く。手袋をはめた手に鎚を握り、炎の色に染まった鉄を
集中しているのは一目瞭然、ランマレスは口を閉じる。
職人はドリース一人だと聞いてはいたが、本当に一人でやっていることにまず驚く。エルゼは用事があるのか奥に引っ込んでしまったようだし、ハンスもいない。
若干の不安が胸をよぎるが好奇心も湧いた。道具や設備は見慣れていても、その種類や数、配置は工房ごとに異なる。
石積みの鍛治炉、炉の前の鉄床、鉄の小片や板状の鉄が詰まった木箱、床から一段上がった場所にある作業台と長椅子、作業台に設置されている万力や工具などを一通り眺めていく。
大窓のそばにある台には完成品が陳列されているようだ。錠前一式に閂、蝶番、鉄串などが見える。
鋏で持ち上げた鉄を桶の水に突っこみ、ドリースが顔を向けた。
「注文がたまってる。こき使うからな」
「はい!」
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