20 おでこに角を生やした男って
「名前をまだ聞いてませんでした」
「ホールスト・モスト」
「モストさん。宿の管理人はもう長いんですか?」
「五年、いや六年か。知り合いの紹介でクノーア親方に雇ってもらったんだ」
「その前はなにを?」
「おれは尋問を受けてるのか?」
不愉快そうな問いかけにランマレスは慌てて否定する。
「ただの興味ですよ。いやなら答えなくてかまいません」
モスト管理人は眉を上げて額の横皺を深くした。疑わしげにランマレスを見ながら粥とパンを一緒に咀嚼し、しわがれた声でゆっくり答える。
「壁の外で、葡萄を作ってた」
「農家さんでしたか」
「おまえは都会っ子か」
「そうですね。壁の内側で生まれ育ちました」
「いいご身分だぜ。おれもこっち側に来て楽になるかと期待したんだが、思ったほど稼げねえ。ま、
「そうですねえ……」
苦笑いでランマレスは返事をぼかす。パンで麦粥を掬いつつ、遠回しに苦言を呈した。
「でもそれなら、泥棒に加担するのはやめたほうがいいと思うんです。ほら、危ないですよ、いろいろと」
「あれはシュテンダー親方の指示だ」
モスト管理人は首を振ってわずかに声を落とす。
「急にやって来てよ、珍しいことをお言いなさったんだ。錠前師の
面白くなさそうな口ぶりから一転、にやりと片笑む。
「鞄の中身が欲しいって話だったから、おれにもくれるんですかいって尋ねたら、くれるって言う。だったら文句はねえよ」
「そこは文句を言ってほしかった、です」
「言うわけないだろ。んで、おまえはどう話をつけて取り戻したんだ?」
野卑な視線が背中に向けられ、ランマレスは思わず鞄の肩帯をぎゅっと掴んだ。まさか奪われはしないだろうが、万が一ということもある。
「いえ、もう、単純に追いかけて」
愛想笑いでこれまでの経緯をざっくりと話していく。双子の兄がやり残した仕事を自分がやることにしたのだと言ったとき、モスト管理人は呆れた口調で「さすが貧乏旅」と嘲った。ランマレスは反論せず、控えめに笑う。
「ヴィッヘルクックのことは憶えてませんか? 宿泊者名簿にないでしょうか」
「さあね。おれは字が読めない」
「え、じゃあどうして名前を書かせるんですか」
「そうしろと言われてるからそうしてるだけだ。書けるやつは書けと言えば書く、書けないやつは書けないと言う。そしたらおれが適当に丸でもなんでも書いておしまいにする」
「そんないいかげんな」
「読み書きできるかできないか。それを身なりや顔つきと合わせりゃ、どんなやつかだいたいわかるわな。客を把握するにゃそれで充分。たとえばおまえさんは、育ちは悪かねえが、賢くはない。人がよすぎて詐欺師に食われる類いだ」
「ええ……」
ランマレスは泣きそうに眉を寄せて評価に抗議した。一方で父の顔が頭をかすめる。
徒弟修行開始に合わせて学校を辞めるとき、教師から教えられたのは授業料の存在だ。父が納めていることも同時に知った。
そんな仕組みを知らずに学べていたのは、父の優しさにほかならないだろう。
ヴィッヘルクックと交代でしか通えなかったのは、一人分のお金しか用意できなかったからなのかもしれない。あるいは父が本気で「二人そろって一人だから一人分でいい」と思っていたのだとしても、今はもうかまわなかった。
もしも読み書きができなかったなら、日記はおろか代筆の書簡だってヴィッヘルクックはランマレスに送らなかったはずだ。どうせランマレスも読めないのだから。
その場合、
父が自分たち双子に絆をくれた。離れても切れないように結んでくれた。そう考えることもできるなと思いながらぬるい麦粥を飲み下すと、胸からお腹までじんわり熱くなった。今ごろ父は元気にしているだろうか。
「あの若い次期親方さんはよ、すっげえ運がいいよな」
モスト管理人は皮肉を含んだ様子で唇を歪めた。
「どういう意味ですか?」
「言わせるなよ。わかるだろ? あの嫁さんはな、あの男がもうひとつの工房で見習いやってたときから、ちょくちょく訪ねてたって話だぜ。もちろんほかにも見習いはいたし、職人だって顔見知りでつきあいがある。誰に会うのが目的かなんて、だからうまくごまかしてたんだろうがよ」
夫婦仲はよくなかったみたいだぜ。
そう言って下卑た笑みを浮かべると粥をきれいに食べ尽くし、ランマレスを外へと追いやった。
善い悪いじゃない。
帰り道、口の中で唱えた言葉は手足に行き渡らなかった。丈の短い服を無理に着ようとするかのようだ。
たまたま知り合った人の隠し事だと思えば許容できる。そう思って収めようとしても、反発するものが心にある。
なにが納得できないのだろう。エルゼのことか、ドリースか、ケスラーの母親か。
順に顔を思い浮かべていたら、この町で姿を消したヴィッヘルクックが、想像の中でランマレスを振り向いた。
「らしくない」
確信が口に出る。帽子の鍔に座るイドの足がぶらぶらと動いた。
「途中で投げ出すなんて、ありえない」
最初から違和感があった。自分の名誉を守るために全力を出す性分だったのに、この町での姿は真逆。
「身の危険を感じた? そんなに怖かった? でもそれなら兄弟団を頼る。誰にも相談しないで消えるなんて……言えない理由があった? でも見ていた」
エルゼは見ていた。ヴィッヘルクックが去る瞬間を。見届けた。
「なんだろ。まだなにかある……」
エルゼの嘘はいくつあるのか。それを本人に問うのはさすがに愚かだろう。
「どこにいるんだ……。なにがあったんだよ」
長細い靴先をぶんぶん揺らす足に期待の視線を送るものの、返事はない。かわりに商人風の二人連れが訝しむ顔つきで振り向いた。
声が大きかっただろうか。気恥ずかしくなり、ランマレスは帽子を深くかぶりなおした。
きちんと旅の装いに身を包んだランマレスとは対照的に、ケスラー錠前屋の職人三人衆は軽装だった。履物も突っ掛けの木靴で、ちょっとそこまで、という装い。
初老の男が往来で「風呂が沸いてるよお」と呼びかけている。それを背にして風呂屋の外階段を上っていく。
一階では火を使い、熱が二階に届いて湯浴みができるようになっているらしい。ランマレスの故郷では一階も浴場として使われていたから、勝手が違う。
きょろきょろしながら中に入ると、すでに脱衣所から熱気に包まれていた。
たいへん混み合っている。女もいるが、圧倒的に男が多い。女は午前でも午後でも入浴できるけれど、男は午後のみというのがこの町の決まりだそうだ。
個室に消える男女を横目にランマレスは湯気の立つ大釜に近づいた。熱いお湯で汗を軽く流してから別室に向かうと、裸の男たちが備え付けの長い食台で顔を突き合わせ食事をしている。
歓迎会で知り合った鍛冶職人も何人かいたので挨拶を交わしつつ、ランマレスたちはどうにか席を確保して腰を下ろした。
薄く切り分けられた焦げ茶色のパンと塩漬けの野菜が籠や板に盛られている。長椅子の下に設置された細長い浴槽に足を入れ、蒸気をむんむんと浴びながらそれらに手をつけていると、給仕が豆と魚のスープも出してくれた。
これらが本日の夕食だ。
個室に行けば酒も飲めて献立も豪華になるらしいが、あらかじめ追加料金を払わねばならない。そこまでたっぷり風呂を楽しむ予定はなかった。
食べ終えたら先程とは別の部屋で丹念に肌をこすり、髪を洗い、湯を浴びて身を清めた。その後は各自で別行動。肩が痛いというコルテは揉み療治を受けに行き、ケスラーは「土曜日だけど瀉血してもらうか」と歩き出す。「じゃ、自分も」とヘールトがケスラーについて行ったとき、ランマレスは誘われる前にそそくさと脱衣所へ戻った。
血液は体内で濁ったり過剰になったりする。健康のためには余分な血を抜く。それが瀉血。あるいは吸血。星の巡りや暦に合わせておこなうのがよく、土曜日より水曜日や金曜日が適していると言われる。
ランマレスはこれを一度もやったことがない。刃物で体を傷つけられるのがいやだからだ。
瀉血をしてくれるのは理髪師で、散髪や髭剃りのついでにやってもらう人が多い。ランマレスも髭剃りくらいはしてもらいたかったが、知り合いの瀉血を見るのが怖かった。「むさくるしい旅人になるな」と姉の小言が飛んできそうだけれど、幸いにも髭はまだ薄い。だから、まあいいかと考え服を着る。
手持ち無沙汰で皆の戻りを待っていると、荷物番が気を利かせてビールを一杯だけくれた。水と間違えたのかなと疑うほど味は淡泊だったが、好意でくれたのだ。ありがたく飲んだ。
帽子を小脇に抱え、杖を持って風呂屋から離れる。頭上でイドがふわふわと飛んだ。空は目に沁むほど青く、まだ昼のように明るい。
ランマレスは顔に張り付く髪をかき上げて毛先を絞った。徒弟時代は親方に短髪を指示されていたから、切らなくても怒られないのはささやかな喜びだ。
前を歩く三人は雑談に花を咲かせている。どこそこの犬がうるさいだとか、誰と誰が血みどろの喧嘩をしただとか。
聞き耳を立てていたら、「町の話をしてやろう」とケスラーが振り向いた。
市壁にある門と塔の数から始まり、教会がいくつあるのかも数えながら寄り道をして、「あそこには何百年も前に皇帝が住んでいた」と、民家と民家の隙間に見える古めかしい外壁を教えてくれる。
「皇帝……じゃあ、今の皇帝もよく来ますか?」
ケスラーは乾いた声で笑った。
「今の皇帝っていうと、マクシミリアン大公か。じつはまだ皇帝じゃないって噂の」
「次期皇帝って言うんだよ。選ばれたけど、戴冠式をやってないから」
「あそこに住んでた大昔の皇帝っていうのも、ほんとは戴冠してないから皇帝じゃないって話がありますよ」
濡れ髪を一つに束ねているコルテが賢しげに補足すると、風呂上がりゆえか頬を上気させたヘールトがおかしそうに付け足す。
「ああ……まあ、細かいことはいっか」
コルテがそう笑い飛ばせば、ケスラーも笑って同意し、さらに続けた。
「俺たちには皇帝より辺境伯のほうが身近だ。なにしろ結婚式をこの町でやったからな」
「あ、それは聞きました」
そうか、とケスラーは目を細めてランマレスを見る。
「今度の辺境伯は兄弟で継いだらしいんだが、結婚したのは兄のほうだ。で、それがまだ若くてな。十八だと」
「え、僕と同い年!」
「だな。そう考えれば放浪中のおまえも少しは親近感が持てるんじゃないか?」
「姉と弟、同時の結婚式だ。すごかったぞー、人がいっぱい来た!」
「ええっと、辺境伯さまのお兄さんのほう、と、そのお姉さん?」
コルテの言葉にランマレスが問い返すと、ケスラーが頷く。
「どっちもこの町で、同じ日。結婚相手も同じ……こっちは姉と弟だが、あっちは叔父と姪の関係だったか」
「お相手の国はイルマーさんの故郷に近かったような。たぶんもうちょっと北かな? 噂だとその国で反乱が起きて、それと関連しての今回の結婚だとか聞きました。同盟みたいな?」
「北に、国。あります、はい。行ったことはないですけど。え、反乱。おっかないですね。というか、よく知ってますね……」
「噂なので合ってるかはわかんないですよ。でも辺境伯のお姉さんは花嫁仕様の行列でその国に向かったはずなので、イルマーさんは途中ですれ違ったんじゃないですか?」
「少なくとも同じ道は通ったかもな!」
へえ、とランマレスは感心する。そのような豪華な一行は見なかったが、コルテの言うように同じ道を通った可能性はある。
世界は広いようで狭い。だが、近いようで遠い。
見えていても触れられない虹のように、高貴な人たちの話は都市の住人にとって恰好の娯楽だ。虚実が入り交じりながらもなにかと口の端に掛かる。
語り合いながら案内は続いた。
エルゼの実家だという仕立屋の前を通り、織物工房が集まる道も歩いて、煉瓦造りの大聖堂を眺める。
「ここから中央広場に行くこの道はな、地下が空洞になっていて、音が
「こじつけだけどな!」
「中央広場にはその昔、市場がまるごと入る建物があったらしいです。定期市じゃなくて、商人がそれぞれ自分の売り場を持って商売してたって、死んだじいちゃんが言ってた」
「そりゃ作り話だろ?」
「コルテさんが知らないだけですよ」
真偽はどうあれ、聞いていて楽しい。「明日は兄弟団で祈るから、あの教会に集まるぞ」とかいう重要な話もあって、ランマレスはどれも熱心に耳を傾けた。
回り道をしたのに日暮れの気配は遠く、ケスラー錠前屋に着いたのは昨日よりも早い時間だ。「よし、特訓だ」とケスラーが手を叩き、合言葉の練習が始まった。
「まあまあまあ! 新入りさん。ごはんは食べた?」
「はい。風呂屋で」
練習の途中でケスラーの母親がまた部屋に入ってきた。ランマレスは微笑んで答える。
「おなかすいてるでしょう? これ食べて」
「ありがとうございます……」
昨日と同じ焼き菓子が掌に収まった。
数は三つ……三つだ。自分、ケスラー、コルテ、ヘールト。全員で分けるには足りないし、かといって独り占めするのは気が引ける。
どうしようかと困って視線を巡らせると、ケスラーが苦笑しつつ頷いた。
「ぜんぶ貰っていけ」
「でも」
「遠慮しないで新入りさん。これはあなたのよ」
「それじゃあ……いただきます。ありがとうございます」
鳴り響く鐘に手を引かれて帰路につく。杖の頭はイドが占領した。
太陽はいまだ沈まず、されど東には星。店じまいの時間だ。風呂屋も火の始末を終えただろうか。
「イドもお風呂、楽しかったよぉ。湯気でお絵描きしたからねぇ。だぁれも気づいてくれなかったけど」
「そうなの? 脱衣所に戻るまで見かけなかったから、シュテムスにひっついて荷物番してくれたんだと思ってた」
風呂屋での窃盗は死罪が原則だから、あえて盗む人はいないし、専門の荷物番もいるから不安はない。それでも知り合いが見張っているほうが心強いのは確かだ。
「なにを描いたの?」
「角を生やしたラン」
「え、なんで。結婚してないんだけど」
「うん? なんで結婚?」
「おでこに角を生やした男って、妻に浮気されてる夫って意味なんだよ」
「おでこじゃなくて頭の……ああ、そっか。ん、それじゃ角を生やしてるのはランじゃなくて別の人だねぇ」
誰のこと、と質問しかけて口を閉じる。
苦い顔のランマレスを、イドは見透かすような目で見上げた。
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