19 日記なんて人に見せるものじゃないですよ

「賭けだった」

「賭け?」

「貧乏な放浪職人ヴァンダーゲゼレがこの町に泊まるなら、職人宿か安宿。安宿だったらあそこが一番だ。だから来る。来なきゃそれまでってな」


 ずいぶんと不確かな罠だ。ランマレスが難しい顔をすると、ドリースは鼻で笑った。


「いちおう、悪いことだってのは頭にあるからな。来ないならなにもしない。それでいいってことにしたんだよ」

「誰がそう決めたんですか?」

「俺じゃない」


 ぶっきらぼうに答えて杯を呷るドリースをイドが眺めていた。ランマレスの靴に腰掛けたまま微動だにせず見上げている。先が細長く尖ったイドの靴と、牛の口のように先端が膨らんでいる半長靴が向きをそろえているさまは、まるで一つの置物だ。ドリースの心の声を聴いているのだろうか。そんなにも真剣に、集中して。

 口に出さない言葉はなにを語っているのだろう。

 俺じゃない、は嘘っぽく聞こえた。

 あの宿にヴィッヘルクックが泊まりに来ないなら、なにもしないで終わろう。そう提案したのは自分だ、と心の中で言っているとしたら。口に出さない理由は、言い尽くせぬ気持ちがおもりとなって言葉を沈めたからだとしたら。

 ランマレスは鉄の塊を呑みこんだように胸苦しくなった。

 ドリースはエルゼに悪事を重ねてほしくなかったのかもしれない。

 想像が合っているのか尋ねてみたいけれど、舌がうまく動かなかった。尋ねたところで答えてもらえない気もする。それでもここで話を終わらせるのは具合が悪く、胸の底を引っかき回して、こびりついていた疑問をもう一つ見つけた。

 

「ドリースさんは……僕と顔を合わせたとき、ヴィッヘルクックじゃないってすぐにわかりましたよね?」


 職人宿で聞こえた『声』の一つだ。「別人だってすぐわかった」と。聞いた瞬間には誰の『声』なのかはっきりしなかったけれど、今はドリースの声色だったと確信している。


「そうだな」


 ドリースはあっさりと答えた。


「あいつの入団式で会ってるし、一緒に飲んだ。双子の弟がいるってのも聞いてたし、そもそも杖が違う。ヴィッヘルクック・イルマーのシュテムスはもっと細くて長かった。態度も大違いだな。あっちのほうが馴れ馴れしい」

「……目に浮かぶようです」


 ランマレスは頬を緩めた。

 犬が人に懐いて尻尾を振るように、興味を持った相手にならヴィッヘルクックはぐいぐい絡んでいく。いつもそうだった。最初は迷惑がっている相手もいつしか心を開いてしまう。

 そうやって知り合いを増やしていけることがランマレスは羨ましかった。ランマレスも故郷には友人知人が多くいるが、たいていはヴィッヘルクックやほかの友人を介して知り合った人たちだ。

 ヴィッヘルクックとドリースはどこまで親しくなっただろう。完全に打ち解けるには時間が足りなかったかもしれない。

 そこまで思い巡らせて、はたと気づいた。

 叩きつける水しぶきのような疑念がランマレスの頬を硬くする。口をついて出た声は、細い鉄線のような響きを帯びた。


「別人だってわかってるのに、それでも手帖を盗もうとしたのはどうしてですか」


 質問から逃げるように顔をそむけたドリースを、澄み透った青緑の瞳が追いかける。


「エルゼさんに言えばいいだけのことでしたよね? ヴィッヘルクック・イルマーじゃないって。なのに……そんなにヴィックの書いた日記が欲しかったんですか?」


 ドリースの唇に笑みが上った。


「へえ、あれ日記なのか。そりゃ気になるな。見せてくれないか?」


 いや、もう知ってますよね。

 飛び出しかけた言葉をかろうじて押しとどめる。あの手帖を「日記」だとはっきり口にしたのは確かに今が初めてかもしれない。

 慎重な人だな、とランマレスは呆れとも恐れともつかない複雑な心境で答えた。


「日記なんて人に見せるものじゃないですよ」

「この町のことをどう書いてるかが知りたいだけだ。俺の悪口とか、書いてないか?」

「ないですよ。ドリースさんの名前すら出てきません」

「本当に? 見せてくれ」

「汚したり燃やしたり破ったり捨てたりしないでくださいね」

「疑り深いな。読んだらすぐに返すよ」

「約束ですよ」


 ランマレスは鞄の垂れ蓋を開けた。豚革の装丁を掴み上げ、ざっくりと開いてから指先で紙を数枚めくる。


「ここです。どうぞ」


 座ったまま腕を伸ばして差し出せば、ドリースも体を起こして受け取った。紙面に目を落とし、唇を薄く開く。


「石の谷の町、に、ついた……錠前屋宿がなかった、から、ざんねん……」


 ヴィッヘルクックの文字が読みにくいのか、そもそも読むこと自体が苦手なのか、音読はたどたどしい。

 読み上げが終わっても、切れ長の目は紙面から離れなかった。日付を前に戻るのではなく、先へと進む。一枚、二枚と紙がめくられていく。


「ヴィックは嘘を書いたみたいです」


 ドリースは目だけを上げてランマレスを見た。すぐに旅日記へと視線を戻し、短く返事をする。


「嘘?」

「なにもなかったって」

「ああ……」

「この町のことについて書いてあるのは一枚だけですよ。先を読んでも出てきません」

「へえ……」

「どうして嘘を書いたんだと思いますか?」


 ドリースは紙の縁を押さえてパラパラと落とした。


「さあ? おまえのほうがわかるだろ、双子なんだから。……これはなんだ?」


 ドリースが見開きの紙面を掲げた。左側は空白だけれど、右側には絵が描いてある。


「ああ、それ。僕もわからないんです」


 そういえばそんなのもあった、とランマレスの気がそれた。

 日記は途中で終わって空白が続くけれど、一箇所だけ現われる謎の絵。

 十字の形に茨が描かれていて、区切られた四つの場所の上側二つには花が描かれている。同じ形の花だが、右側の花だけ黒く塗られていた。下側二つには下膨れの丸いなにかが描かれていて、これも形は左右とも同じだけれど、左側のものは下半分に黒い斑点がある。どれも描線は雑で、思いつきで書き殴ったような絵だ。


「たぶん錠前の装飾の図案かなあって思ってるんですけど」

「へえ? この花は薔薇か?」

「僕も薔薇かなって思ってます」


 ドリースは紙面を自分に向け直し、首をかしげた。


「この丸いのはなんだ?」

「さあ? 卵か石かと」

「形だけなら涙模様にも見えるな。けどこの斑点はなんだ? 気味悪いな。鱗にも見える。なにかの象徴か? 薔薇の石、いや、鱗……魚? 竜? 薔薇の卵、竜の卵?」

「あ」


 ドリースの呟きがランマレスの記憶を揺さぶった。同じ言葉を以前にも聞いたことがある。

 怪訝な顔を向けるドリースに、ランマレスはふにゃりと笑って首を横に振った。


「なんでもないです。それより、もういいですか?」


 ドリースは眉間に皺を寄せて、ランマレスと日記とを見比べた。やがて静かに表紙を閉じる。考え深げに頭を傾けつつ、視線は日記から床に滑り落ちた。


「おまえ、たまに一人で誰かと話してるよな」

「え? いえ、そんなことは」


 とっさに否定したのは、隠し事がばれていたという恥ずかしさの裏返しだ。ちらりとイドを盗み見れば、澄まし顔でドリースを見上げたままぴくりとも反応していなかった。

 

「双子のくせに、似てない」


 ランマレスは半笑いで口を閉じる。

 双子なのに似ていないと人から言われるときは、性格に関することだと決まっていた。ヴィッヘルクックと違ってつまらないやつだと面と向かって言われたこともある。

 蝋燭の火に煤が出て、ちらつきがひどくなった。ドリースが顔を上げて旅日記を差し出す。受け取ったランマレスが鞄にしまっていると、ふっと灯りが消えた。


「寝る」


 短く言ってドリースは立ち上がった。

 手元が見えなくなったのは一瞬で、すぐに目が慣れた。今夜は晴れている。室内に月光は落ちていないが、星明かりだけでも充分だ。ランマレスは左の靴も脱いだ。


「僕も寝ます。おやすみなさい」


 昨日の職人宿ではみんな下着一枚で寝た。今夜のドリースは特に服を脱いだ様子はなく、足先だけ出して寝台に入ったようだ。普段着が寝間着を兼ねているのだろう。

 それなら自分も服を着たまま寝よう、と立ち上がる。

 イドはまだ靴に座っていた。部屋に蔓延る青い闇になど呑まれず、白く浮き上がって見える。

 林檎色の瞳が瞬いてランマレスを見上げた。小さな口が「ひひっ」と笑い、耳をくすぐるような声で「おやすみぃ」と言う。

 ランマレスは頷き、心の中で「おやすみ」を返した。


 


 

 

 翌朝、節約のためにランマレスは食事を抜いた。

 眠気を顔に浮かべながら作業着に着替える。すでにドリースは部屋にいない。イドは窓を出たり入ったりして涼やかな風と遊んでいる。


「さて、仕事」


 寝癖のついた金髪を鍔広帽子に押し込めて気合いを入れると、イドが窓際で振り向いた。

 

「イドはお散歩してくる!」

「そう? わかった、またね」

「まったねぇ」


 あっという間に窓の外に消えた相棒を見送り、部屋を出る。少しだけ気が重い。工房に入るときは床を見てしまった。

 クノーア親方が倒れた場所はどのあたりだろう。なにか痕跡があるだろうか。

 さっと目を走らせてみたけれど、踏み固められた土の地面があるだけだった。

 仕事は昨日と同じように進んだ。

 ランマレスは研磨の続きをして、ドリースは鍵付きの箱を大小一揃いで製作中。エルゼは洗濯をすると言い、なんとランマレスの汚れ物も引き受けてくれた。ありがたいけれど面映ゆくて、ランマレスは自分で洗うつもりだった衣類をはにかみながら手渡した。

 昼休憩となり、ドリースは風呂屋へ出かけた。食事も済ませてくるという。

 土曜日はいろいろと特別で、工房もいつもより早く閉めてしまう。ハンスの勉強も午前で終わりらしいから、昼食は母と息子だけの時間になる。ちなみに二人は朝一番で風呂屋に行ってきたらしい。

 工房の片付けを終えて一人で部屋に戻る途中、ランマレスはちょうど帰宅したハンスとすれ違った。


「おかえりなさい」

「ただいま帰ってやった!」


 忌ま忌ましそうに睨みながら駆け去るハンスを苦笑して見送り、部屋に戻る。作業着を脱いで出かける準備を始めたとき、窓からイドが飛びこんできた。


「お散歩どうだった? 楽しかった?」

「そうだねぇ」


 イドはランマレスの顔の高さでとどまり、頷いたような、小首をかしげたような、どちらとも取れるしぐさをした。


「壁の上を飛んできたんだぁ」

「壁? ああ、町の城壁ね。一周してきたんだ?」

「そうだよぉ。大聖堂も見下ろしてきたよぉ」


 えっへんと胸を張るイドにランマレスは両手を伸ばす。

 無性に握りしめたくなったのだが、イドを掌で包んでも手応えはない。空気を掴んでいるだけだ。さらに力を入れたなら、白い体は手の甲へと突き抜けてしまうだろう。

 イドが意外そうな顔つきで瞬きをした。炭よりもなお黒く、桑の実の黒より黒い羽が頭上に向かって持ち上がり、ぱさりと左右にひろがる。


「なぁに? こんなことしてもイドは殺せないし、苦しくもなんともないし、いつでもすり抜けて逃げられるよ?」

「発想が物騒。んー、今からどこに行くか当ててみて」

「わざわざ捕まえて言うことがそれ? そんな簡単なことでいいの?」

「え? いや……」


 思いがけず怜悧な声を向けられてランマレスはうろたえる。そろそろとイドから手を離し、髪をかき上げるようにして頭を揉んだ。


「じゃあ、無事にお昼ごはんにありつけるようにして」


 イドが瞬きをする。黄みがかった赤い瞳が薄い緑になった、と見えた次の瞬間には赤に戻る。柔らかそうな頬がふっくりと持ち上がった。


「承りましたぁ、ランマレス・イルマーさま。まっすぐ行こうねぇ」


 え、ほんとに?

 期待で顔を輝かせたランマレスは、かくして訪れた先でうんざりと笑うことになった。

 

「懲りずにまた来たのか、貧乏旅の下男クネヒトさんよ」

「お金をせびりに来たみたいな言い方、やめてくださいよ」


 宿屋の管理人は「へっ」と鼻で笑う。冷たい態度にめげずランマレスは意気込んだ。


「お願いがあるんです」

「金はやらねえよ」

「違いますって。あ、でもあの、お金じゃなくて厨房を使わせてもらえないかなって思いまして。あの、ほら、結局あの日は最後まで泊まれなかったので。それって管理人さんも関わってたって聞きました。だから厨房を無料で、ただで、使わせてほしいんです」

 

 管理人は渋い顔つきで聞いていたが、イドがふわふわと耳元に近寄ってなにかを囁くと、「うるせえな」と言いながら顎をしゃくった。顎が示しているのは外ではなく、管理人室だ。


「さっさと入れ。ちょうど昼時だ。特別に分けてやる」

「え、あ、ありがとうございます!」


 イドは得意げな顔をして戻ってきた。杖を持つランマレスの右腕に座って、機嫌がよさそうに体を揺らす。

 なにを囁いたのかわからないけれど、管理人の返答が期待以上だったのはイドのおかげなのだろう。ありがとな、と心の中で告げると、どういたしましてぇ、と声が返った。

 管理人室は手狭で、横歩きでしか通れない場所もあった。帳簿らしきものが横積みにされた棚や、鍵束や水差しや燭台などが置かれた小さな机があり、長椅子と小卓もある。

 寝泊まりに使っているのか、掛け布が乱暴に長椅子の脇へと寄せられていた。暖炉がないから冬はきっとひどく冷えるだろう。扉がもう一つあって、上部分が突き上げ窓になっている。窓はその一つきりだ。この扉から裏庭に出られるのに違いない。

 小卓には黄ばんだ布が敷かれ、焦げ茶色の丸いパンが三つと、湯気の立つ麦粥が鍋ごと置かれている。ランマレスが先日この宿で作った質素な麦粥とは異なり、豆や菜っ葉などの具が入っていた。

 管理人は眠そうにあくびをしながら窓付きの扉へと視線を送り、しゃがれた声を発する。


「住まいがすぐそこだからな。かみさんがさっき持ってきてくれたばっかりだ」

「一緒に食べないんですか?」

「食べてきてるよ。今は二階を巡回中。このあと交代するんだ。ほら、食え。シュテンダー親方となにがあったかは知らねえけどよ、おれがあなぐらにぶちこまれねえようにしてくれよな」

「ありがとうございます。ええっと……あの、もひとつお願いがありまして」


 ランマレスは肩に力を入れて管理人と向き合う。

 

「鳥の巣錠前屋で働くことになったんですけど、食事がですね、ちょっと困ってて。特にお昼が、その、賄いは断っちゃったので、」


 最後まで聞かず、管理人は「けっ」と蔑むように唇の端を上げた。

 

「昼飯だけなら分けてやるぜ、貧乏な下男クネヒトさんよ」

「ありがとうございます!」

「ただし、いいか、おれはなんにも悪くない。あの夜のことはなんにも知らない」

「はい! はい、そのとおりです! あなたは悪くないです!」


 管理人はなにか言いたそうな顔をしたが、鼻から息を吐いて長椅子に腰を下ろした。

 ランマレスも上機嫌で管理人の隣に座る。座面に杖の持ち手を立て掛けると、飛び移ったイドが杖の頭から床に向かって笑顔で滑っていった。

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