9 心が読めたら楽なのに

 痒いような、引っ張られているような頭皮の違和感で目を覚ました。


「おはよう、ラン。朝だよ」


 あどけない笑顔が視界に飛びこんでくる。横向きに寝ていたランマレスのこめかみにイドが立って見下ろしているのだ。


「寝ててもいいよ。起きてもいいよ。どっちにしたって、もうすぐ人が来るよぉ」


 どういうことだと考えて、閉じかけていた目をぱちりと開ける。

 澄み透るような青緑色の瞳がイドを捉え、周囲を映した。すうっと息を吸って、ランマレスは潔く身を起こす。


「そうだった。宿じゃないんだった。ありがとうイド」


 閉じた窓の隙間から薄明るい光が漏れていた。板戸を突き上げると明け方の涼やかな風が入る。向かいには工房の壁が建ち並び、下には石畳の道がひっそりと延びていた。

 息を深く吸って胸にとどめ、ゆっくり吐き出す。太陽は見えないが、空は白んでいる。くるりと踵を返して身支度に取り掛かった。

 朝食は要らないと言ってあるから、挨拶だけして外に出よう。だけどその前に雇用に関する話をエルゼはしたいかもしれない。それならそっちが優先かなあ……などと考えながら服を着る。

 羊毛編みの簡素な上衣は色むらのある灰色、脚衣も同じ灰色だが、上衣の裾で隠れる膝上部分だけはくすんだ青色をしている。

 青色だけが染めた色で、灰色は天然の羊の毛色だ。安く仕立てるなら染めていない毛糸を多く使うしかないからこの配色になった。青色がくすんでいるのも灰色の羊毛を薄く色づけしているだけだからであって、この程度の染色ならそれほど値段に影響しない。色落ちが早いだろうことは予想しているが、わずかでも遊び心が欲しかった。

 腰に巻いた革帯にメッサーをくくりつけると、上に重ねて財布もくくりつけた。余った革帯が腰の横でおとなしく垂れ下がる。

 帯や財布は胡桃のような明るい茶色で、半長靴は黒に近い茶色。これらも染めていない革を使っているが、作りはしっかりしている。

 鉄製の水筒を斜め掛けにしてから薄染めの青いマントを手に取ったとき、階段を駆け上がってくる音が聞こえた。身構える余裕もないままに、出入口の垂れ布がばさりと撥ね除けられる。


「おまえ!」

 

 小柄な少年が牙を剥いて吠えた。エルゼとよく似た面差しは、忘れようがない。ハンスだ。


「へんなことしたら殺してやる!」

「え、」

「父ちゃんを殺したくせに! どろぼう! ひとでなしのヴィッヘルクック!」

「あ、えっと、ええっと」


 ランマレスは困惑を顔に浮かべてマントを抱き締めた。イドはわずかに目を大きくして、寝台からランマレスの右肩へと飛ぶ。

 間を置かずにやって来たエルゼが「ハンス」と咎めるように呼んだ。


「なんでこいつを家に入れるんだよ!」

「言ったでしょ。残ってる契約をやりなおしに来てくれたの。雇うかどうかはまだ決まってないから、今はお客さんよ」


 エルゼの装いはごく普通の、工房のおかみさんだった。黒い縁取りをした深緑色の被り物で髪をまとめ、腰には青い前掛けをつけ、袖を肘までまくっている。エルゼの袖を掴んで揺するハンスはランマレスと似た服を着ているが、上下とも子供らしい若葉色だ。

 エルゼは困ったようにハンスを見つめてから、ランマレスに顔を向けた。


「ヴィッヘルクック・イルマーさん」

「あ、はい」

「朝食は外で食べるのよね?」

「そのつもりです」

「今、いい? 契約の話」

「もちろんです」


 ハンスが勢いよく部屋の外に出た。

 直前まで腕を揺すられていたエルゼはすれ違いざまに体がぶつかって、息を呑む。階段を駆け下りていく背中を物言いたげに見送り、苦い顔でランマレスに笑いかけてきた。


「ハンスのことは気にしないで」

「はい……あの、ヴィッヘルクック、でいいんですよね、僕は」

「あなたがそう言ったんでしょ。やめるの?」


 エルゼが眉をひそめた。すかさずランマレスは「やめません」と首を振る。


「僕はヴィッヘルクックです。それで、今日から働けますか?」

同職組合アムトの許可を取るのが先。だめって言われるかもしれないけど」

「そうなったら、仕方ないですね」

「そう……それじゃ、お昼過ぎにラーデを訪ねましょ。一緒に来てほしいから、それまでに戻ってきて」

「わかりました」


 ラーデというのは、同職組合アムトの会費や重要書類などを保管するための箱のことだ。鍵付きの上蓋でしっかり中身を封じ、外見は豪華に装飾されている。

 同職組合アムトの集会所、もしくは組合長アムトマイスターの家のどちらかに置いてあり、会議や儀式、重要な相談事のときには必ずこの箱の前に集合する。

 親方たちによる定例会議も、親方と徒弟が師弟の契約を結ぶときも、徒弟が職人になるときも、条件を満たして親方に任命されるときも、すべてラーデの前でおこなう。放浪職人ヴァンダーゲゼレになるときもそうだった。

 今回は特殊な雇用だし、働くとなれば市庁舎にも行って認可してもらう必要があるし、そのあたりの相談も含めて同職組合アムトの判断が必要なのだろう。許可が下りないなら無償だろうとなんだろうと働けない。当然のことだから、ランマレスは納得して頷いた。と同時に嬉しくもあった。

 ラーデは組合の心臓であり象徴だ。それゆえ同職組合アムトや集会所全体をも指してラーデと呼ぶことがある。「ラーデを訪ねる」というエルゼの表現は、そういう広い意味を持つ言い回しだった。けれどもこの呼び方はあくまで仲間内のものであって、客やほかの商売の人に対してはまず使わない。

 ただの客人ではなく、裏切り者の弟でもなく、同業者だという身内意識で接してくれたのだと思えば、胸に温かいものが宿る。

 態度に嘘はないと信じきれればもっといいんだけどな、とも思って、ランマレスはわずかに視線を下げた。

 エルゼが小首をかしげる。

 

「ヴィッヘルクックは賄い付きの住み込みで雇っていたの。あなたもそうする?」

「そうですね……」


 ううん、とランマレスは考えこんだ。

 ヴィッヘルクックと同じ条件で働くなら頷くべきだろう。どのみち今回は無償奉仕になるから、食べさせてもらったほうが得だ。

 だけど、と思う。

 もしもそれで予想以上に賄い費用を取られたら、無償奉仕の期間が延びる、なんてことにはならないだろうか。

 賄い付きだと、その分の食費が賃金から引かれるのだが、食費をいくらに設定するかは親方側の都合で決められてしまう。

 このことを知らなかったランマレスは、放浪修行ヴァルツの最初の職場で賃金の半分以上を賄い費用として持っていかれた。すでに食べてしまった後ではろくに文句も言えず、少ない報酬で立ち去るしかなかったのだ。

 今回の場合はどうなんだろう。これは罠か、他意のないただの提案か。

 悩んでいると、「やめたほうがいいよぉ」と間延びした声が耳朶に触れた。

 エルゼから視線を外し、考えるようなそぶりで頭を右に傾ける。

 金髪でほとんど隠れている耳にイドは顔を寄せ、「外で食べるほうがいいよぉ」と囁いた。


「賄いはなしで、部屋だけお借りしてもいいですか」

「ドリースと一緒に寝起きすることになるけど」

「それでいいです。一緒に働くなら仲良くしたいですし」

「そう……あなたがそれでいいなら」


 エルゼは微笑んで、「それじゃ、遅れないでね」と階段を下りていった。

 遠ざかる足音に耳を澄まし、ランマレスは小声で問う。


「やっぱり罠? 食費と奉仕と差し引きで、盗まれた金額に足りないって言い出す?」

「そうじゃないよ」

「じゃあ、なんで? あ、昨夜もエルゼさんからごはんをもらわないほうがいいって言ってたな……」


 一階から物音が聞こえてきた。「やだね!」というハンスの声だけがはっきりとここまで届く。


「食べないほうがいい理由は?」


 質問しながら身支度を再開すると、イドは離れて天井まで飛び上がった。なにも答えず、とぼけるような顔でランマレスを見下ろしている。


「朝食もだめ、賄いもだめ。理由はなんなんだよ」

 

 マントを羽織って肩のくるみボタンを留め、脇の切れ込みを探して腕を出した。

 マントは自分で用意したものではなく、贈り物だ。丈夫で厚みがあるぶん重さもあるが、守られているという安心感もくれる。

 丈は膝下まであり、曲線を描く裾の最も長い部分はふくらはぎを隠す。幅もたっぷりとあるから背負い鞄の上に羽織ることだってできる。肩のボタン穴は複数あるので緩めたりきつくしたり、首回りの調節も可能だ。

 波打つ髪を手櫛で適当に整え、帽子をかぶりながらランマレスはぼやく。


「お金がないからほんとは賄いのほうがいいんだけど」

「なにぶつくさ言ってんだよ」


 いきなり聞こえてきた低い声にびくりと肩が跳ねた。扉がわりの垂れ布を頭上に押しやって、男がひとり立っている。


「あ、おかえりなさい。ドリースさん?」

「なぜここにいる」


 面長の顔がひどく不機嫌そうだった。よく見れば頬は痩けているけれど肌に張りがあり、皺も眉間に寄せたもの以外は見当たらない。

 エルゼが言っていたように、確かに十九歳なのだろう。

 それなのに十も二十も年上に感じてしまうのはどうしてなのかとランマレスは彼を眺める。顔の造作、表情、白の上衣に青い胴着を着込んだ姿、醸し出す雰囲気。

 凶暴な落ち着き、という言葉が頭に浮かんだ。荒んだ気配と凪いだ気配、相反するものが共存しているように感じる。一筋縄ではいかなそうな佇まいが経験の差を思わせるから、だいぶ年上だと感じたのだ。

 敵に回したくないなあ、と思う。人間関係は円満に、円滑に。それが旅の心得だ。

 

「聞いていませんか? ヴィッヘルクックのかわり……かわりというか、本人として、やり残していた期間の仕事をすることになって」

「なぜだ」

「ええっと、身内の失態をそのままにしておきたくないなあって」

「いろいろおかしい」

「そうですかね?」

「なにが狙いだ」

「狙いって……だから……」


 ドリースが距離を詰め、ぐいと顔を近づけてきた。背を反らしながらランマレスは息を詰める。


「エルゼには手を出すな」

「はい?」

「エルゼは俺と結婚する」

「え?」

「この工房を継ぐのも俺だ」

「ああ、なるほど」

 

 凄んでくるドリースの胸をわずかに押し返し、ランマレスは笑顔を向けた。


「今はエルゼさんが工房の親方だけど、再婚したら夫のものになると」

「それを狙って職人が押しかけた。だけどエルゼが雇ったのは俺だけだ」

「それで親しくなったんですか」

「そうだ。結婚する。来月のヨハネ祭の日に。市民権も取るし、俺が親方になることは決まってる。おまえの出番はない」

「おめでとうございます!」


 満面の笑みで拍手を送る。頭の中では姉の顔がちらついていた。

 エルゼが親方を務めていると最初に聞いたときにも姉を思い出した。二年前、徒弟を卒業したのを祝いに来てくれた姉が口の端に掛けていたことが甦ったのだ。

 姉が嫁いだビール屋では「女の職人もいっぱいいるし、夫の知り合いには女の親方もいる」と。

 故郷で知り合い、とてもお世話になった先輩の放浪職人ヴァンダーゲゼレも言っていた。「女でも錠前師になれる町は意外と多い気がする」と。

 だからこの町では女性でも親方になれるんだなと思っていたのだが、そう単純な話ではなかったらしい。


「エルゼさんは職人から親方になったわけではない、ですよね?」

「親方が死んだから妻の権利で親方を継いだだけだ」

「それなら再婚して親方じゃなくなるのは妥当ですね。それでドリースさんは工房を引き継ぐために親方試験を受けたと。ちなみにどんな試験でしたか? 錠前を作って提出したんですよね?」


 好奇心でランマレスが問うと、ドリースは不愉快そうに目をそらした。


「結婚が理由で親方になるから、試験は免除だ」

「そうなんですか。ん、じゃあエルゼさんは? もし再婚しなかったらエルゼさんも試験なしでずっと親方だったんでしょうか?」

「二年だ。二年以内に再婚しないとエルゼは工房を手放す決まりだった」

「なるほど」


 それで牽制してきたのか、とランマレスは腑に落ちる。

 親方の席はなかなか空かないから、独立したい職人にとって、エルゼが夫を亡くしたのは絶好の機会だろう。放浪職人ヴァンダーゲゼレにとっても同じだ。放浪修行ヴァルツの終わりは約束の期間を満たして故郷に戻るばかりではなく、どこぞで親方になってしまってもいいのだから。


「僕は旅を続けるので心配は無用ですよ。一週間は働くつもりですけど、どうなるかは午後にラーデで話すそうなので、それ次第ですね」

 

 荷物を背負ったランマレスは腕をマントの中に引っ込めた。すぐに内側から払ってマントの端を鞄の肩帯で押さえる。こうやって体の前を開けると動きやすいから好きだった。

 横倒しにしていた半長靴を小脇に抱えて杖を持ち、疑わしそうに見てくるドリースにもういちど笑いかける。


「昨夜の件は、もう怒ったり責めたりしないので、だからドリースさんも、えっと、脛を叩いちゃってごめんなさい。でもそういうのも、怒らないでほしいです」


 ドリースはランマレスをじろりと睨みつけ、おもむろに右膝の下で結わえている紐をほどいた。

 ドリースの脚衣は、膝上部分と靴下の二つに分離している。こういう分離型の脚衣を職人が着ているのは珍しく、意外とおしゃれな人なんだなとランマレスは思った。


「え、あ、腫れちゃってますね!」


 靴下を下げたドリースの前で屈みこむ。

 右脚の脛がぼこっと膨らんで青痣になっていた。しばらくは治らないだろう。


「痛いですか? ああっ、痛いですよねごめんなさい!」


 うろたえるランマレスをドリースは渋い顔で見下ろし、下げたばかりの靴下を上げた。


「べつに。押すと痛いけどな。歩くぶんには問題ない」

「そ、そうですか? 骨を折ってたりとかは」

「そこまでじゃないだろ。おまえごときの、へなちょこの腕力じゃ、せいぜい痣ができるだけだ」

「それならいいんですけど……」

「話はまた後だ」


 靴下を履き終えたドリースは一瞥すらくれずに部屋を出てしまった。

 工房の朝は早いし忙しい。話しこんでいる余裕がないのはランマレスにもわかる。それでも、なんとなく置き去りにされたような心細さを感じた。


「ドリースさんは、本当のことを知ってるのかな」

「本当のこと?」


 天井から冴えた声が応えた。

 

「エルゼさんが嘘ついてるって話」

「それね。それねぇ、どうだろねぇ」

「教えてよ」

「なにもかも教えたらつまらないでしょ? 発見する喜びを奪わないっていうのがイドの旅の心得なの」


 それはついさっきランマレスが心で思った言葉に似ている。読み取られていたのだろう。

 

「俺もイドの心が読めたら楽なのに」

「あはは!」


 イドは小気味よさそうに笑って羽をひろげ、窓の外に消えていった。

 呆れる思いで息を吐きながら、杖を軽く床に打ちつける。

 イドの機嫌がすっかり直ったらしいのはいいことだが、なにを考えているのかはさっぱりわからない。正直なところ、正体もよくわからないのだ。


「ほんと、心が読めたら簡単なのに」


 知りたいことの大半はそれで解決するのに。

 ランマレスは嘆息しつつ、階段へと足を向けた。

 

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