10 情報交換といこうじゃないか
広場は閑散としていた。
昨日は市が立っていたから賑わっていただけだ。静けさこそ本来の姿なのだろう。
砂が敷き固められている地面にランマレスは腰を下ろす。
正面には木彫りの騎士像が柱のように直立している。右手に持つ剣は戦闘用ではなく処刑用の両手剣なのだと、前に泊まった職人宿で教えてもらった。市民が市民のための法を敷いて裁くことができるという、自治の象徴らしい。
台座を含めずに見ても大人の倍はある背丈だから、遠すぎず近すぎず、全身を眺めるのにちょうどいい距離で見上げる。
ランマレスの故郷にもこういう騎士像があったらしいが、百年以上も前に川へ落とされたという話を思い出した。それでも自治を確立している都市だった。騎士像の設置は、自治をするうえで必須ではないのだ。
剣先をまっすぐ天に差し向け、左手に都市の紋章が刻まれた盾を持つこの立像も、いつまでここにあるだろうかと感傷が湧く。川に落とされなくても、木像だからいずれは朽ちるはずだ。
騎士像の背後には煉瓦造りの市庁舎と裁判所があり、市庁舎のすぐ後ろでは中央教会の尖塔が聳え立つ。二つ並んでいて、片方は大時計を備えていた。
市門を通り抜けたとき、真っ先に目に入ったのがこの尖塔だった。それほどに高さがあって遠くからでもよく見えるから、目印になる。近くを通りかかったときには大工が集まっていた。増築か改築をしている最中なのだろう。
胃が「からっぽ」を訴えて鳴いた。
聞こえなかったことにして鞄から鉄製の櫛を取り出し、鞄の毛皮を梳く。風はひんやりしているけれど陽の当たる手元は暖かい。
朝食は諦めた。
五プェニヒしかないのだ。酒場に行ってもたいしたものは食べられない。惣菜屋なら出来合いのものが安く手に入るだろうが、あの手の店は当たり外れの「外れ」が多い。不味いだけならまだしも、腹を壊したこともあるから気が進まない。
パンを買ったとしても食べる場所がない。往来で食べることを禁止している町もあるらしいから、屋外で食べるのはやめたほうが無難だ。工房に持ち帰ることも考えたが、すぐに帰っては約束の時間まで暇になる。
それならパンを買って散歩しながら帰ろう。そう思った瞬間に昼食や夕食のことが頭をよぎり、節約したい気持ちが一気に強まった。
麦粥なら作れる。ライ麦は充分に残っているから作るのはかまわないのだが、どこで作るのか。台所を貸してくれとエルゼに頼むのか。それはどうにも気が引ける。
広場に行こうよ、と言ったのはイドだ。
いいけど、と陽気な青空に目を眇め、観光気分でぶらぶら広場まで歩いてきた。そこでふっと思い立ったことが背負い鞄の手入れだった。
茶色い毛並みが陽に照らされて、つやつやと輝いて見える。櫛を通せば心なしかふわふわと柔らかくなる。それが快い。
ランマレスの背負い鞄は鹿の毛皮で作られている。軽い雨なら弾いてくれるから気にしなくていいし、びしょ濡れになっても叩いたり揺すったりして水を飛ばせる。
毛皮じゃない鞄もあったが、毛皮の鞄のほうが安かった。それに毛皮には身を守ってくれる力があるとも聞く。具合の悪いところに毛皮をあてがえば体調がよくなるとか、乳飲み子を毛皮でくるめば無事に育つとか、そんな言い伝えがあるのだ。
貴族向けの高価な毛皮は論外として、安価だという毛皮ですらランマレスは身に纏ったことがない。けれども鞄とか小物でなら手に入る。旅のお守りにもなりそうじゃないかと、悩まずに選んだ。
ヴィッヘルクックも同じ鞄を選んでいた。さすが双子、と店主に言われたから笑って同意したけれど、双子じゃなくても同じものを選ぶ人はいるはずだと内心では思っていた。
店主は毛皮の宿命について助言をくれた。長く使えばどうしたって虫がつくし、毛も抜けてゆく。日頃から手入れが必要で、最低でも土埃は落とせと。
道具は櫛か刷毛だと教わり、かさばらないという理由で櫛を買った。腰の財布に入れたかったのだが、ぎりぎり入らない大きさだったので、背負い鞄の底に入れて持ち歩いている。
この鉄櫛を使っているときは故郷に思いを馳せてしまう。容赦なくしごいてくれた親方と、けちなおかみさん、修行中は疎遠だった家族、製本職人になった友達のクルト。みんな、どうしているだろうか。
転がるように風が吹いた。美味しそうなパンの香りも運ばれてきたから、とりあえず吸いこんで腹に落とす。胃がまた不満を訴えて鳴いた。
道行く人はあまり広場に入ってこなかった。たまに来る人はたいてい市庁舎に足を向けていて、ランマレスには近寄ってこない。
視線は感じた。帽子と杖を見られているなと思いながら、せっせと櫛を動かす。
帽子だけではなく、杖も
シュテムスの長さや形はさまざまだった。素材となる枝の節目はもちろん、歪みや捻じれも残したまま杖にするから、一つとして同じものはない。
共通点があるとすれば、装飾性が皆無で、杖先は金属で補強するが、握りは特に作らないということ。
まっすぐな杖より捻じれているほうがいいとは言われている。必須というわけではなく、捻じれがあれば上等ということだ。職人の器用さを象徴するからだとか、荷物を引っ掛けられて便利だからだとか、理由はいくつか聞いたが正解はよくわからない。
ランマレスの杖は上から下まで蛇が巻きついているかのように捻じ曲がっていて、なかなかの存在感だった。色は濃い茶色で、焦げたような黒い斑点がある。持ち手部分は亜麻色の切断面が剥き出しになっており、木目もはっきりと見えていた。
杖も鞄もマントも、ランマレスのお気に入りだ。 お気に入りの装いが自分の立場を守っているということもまた、気分がいい。
ヴィッヘルクックの杖も捻じれていたが、もっと細くて長かった。鞄は同じものになったが、マントの色はランマレスと違って深みのある青だった。
一年前に一人で
途中で合流しようと約束していたのに、
期間にして半年。たった半年でヴィッヘルクックは
納得できない。
そもそも最初に
錠前師の修行を十二歳で開始して間もないころ、職人になったら
ヴィッヘルクックは当初、その夢を理解しなかった。むしろ馬鹿にしていたふしもある。それなのに後から同じ夢を語り出した。しかも強い願いというより、「この町ですぐ働くってのもいいけど、ほかの町に行ってみるのもいいよな」という気軽な調子で。
それでも、まだそのときはよかった。多少の温度差は感じつつも理解者になってくれたと喜んだ。一緒に徒弟を卒業するんだから一緒に旅をしよう、と提案したのはヴィッヘルクックのほうで、ランマレスは胸を躍らせ頷いた。
誤算があったのだ。
徒弟を卒業してから正式な職人になるまでの猶予期間は一年。そのあいだ世話になった親方のもとでお礼奉公をするという慣習が故郷にはあった。
二人はこの慣習を甘く見ていた。進路が決まるまでの一時的なものに過ぎず、
実際は強制的な、回避できないものだった。
一年も待てない。今すぐ旅に出る。
双子の主張を聞いた父は親方に相談してくれた。その結果、「双子だから、お礼奉公をするのはどちらか一人でいい」ということになった。片方がやっていることは、もう片方もやっていることになる。それが双子だと。
兄はどうしても自分が先に旅立つのだと譲らなかった。ランマレスも旅に出たくてたまらなかったのに、兄は強硬で、周囲も兄を推した。ランマレスはついに折れた。すごくいやだったけれど、折れるしかなかった。
旅の準備には十箇月をかける。兄が着着と準備を進めていく最中にランマレスはお礼奉公という名の無償労働に時を費やした。もう徒弟ではないのに、徒弟だったときとなんら変わりのない生活だ。
あの時期がいちばん悔しくて、むしゃくしゃしていた。知り合ったばかりのイドや、先輩の
それなのにたった半年で
兄は今どこでなにをしている。
知りたい。なんでもいい。消息不明の兄につながるなにかを、どうしても知っておきたい。
茶色い毛皮と市庁舎と、広場に面した左右の道、行き交う人たちの姿が目に入る。誰も自分に注目していないのを確認して、ランマレスはイドに話しかけた。
「そういえば、蝋燭を手に入れた場所って?」
砂の下に靴先を潜りこませて遊んでいたイドが顔を上げる。ぼんやり空を見たかと思うと、ランマレスを振り仰いで笑った。
「あとでね! 今は遊ぶ時間だからー!」
高い声をあげながら宙に躍り出ていく。
申し合わせたかのように教会の鐘が鳴り始めた。優しく重なりあう音に乗ってイドがひらりはらりと回る。純白の髪も舞い踊り、はためく裾から色白の脚が覗き、麦の穂のような形をした黒い羽の先端がばらばらに交差し、しなる。
無邪気な笑顔がくるくると見えては隠れる。とても楽しそうだ。ランマレスは苦笑した。
蝋燭の入手先を教えてくれると約束はしたけれど、イドがまっすぐ連れて行ってくれるなんて、たぶんないなと思っていた。予想どおりだから怒りは湧かない。
鐘の音色に耳を傾けつつ鞄の手入れを続けていると、突如として名前を呼ばれた。
「ランマレス・イルマーくんじゃないか!」
通りから広場に入ってくる男がいる。ランマレスは驚いて声を上擦らせた。
「アーレンスさん」
「また会えるとはなあ!」
宿で同室になった馬具師のファイト・アーレンスだ。鍔のない筒型の帽子をかぶり、頭巾付きのマントを羽織っている。どちらも赤みを帯びた茶色だ。マントの裾から鞄がわずかに覗いていた。マントの中で斜め掛けにしているのだろう。
鐘が鳴り止んだ。イドはどこに行ってしまったのか、姿が見えない。
「無事だったか! よかったよかった!」
アーレンスはランマレスの前まで来ると、溌剌とした笑顔でしゃがんだ。
「昨夜は大変だったな? どうしてるかなって、心配してたんだよ」
「えっと……」
ランマレスは笑い返そうとして、中途半端に表情を翳らせた。
あのときアーレンスはぐっすり眠っていた。今朝になって「一夜の友」がいないことに気づいたにしては、言い方が妙な気がする。一騒動あったことを承知しているかのように聞こえたのだ。
誰が彼に教えたのか。ドリースは盗みの件をしゃべらないだろう。宿の管理人もどこまで把握しているかわからない。ということは。
「もしかして、起きてました? 夜……泥棒が入ったとき」
アーレンスは笑みを深くした。「そうだ」とも「違う」とも答えなかったが、灰色の瞳に宿る光は落ち着いていて、それこそが答えだとランマレスは感じた。
見て見ぬふりをされた。
胸がわずかに痛む。「一夜の友」なんて言っていたが、結局は初対面の他人だった。それを突きつけられて、思いのほか自分はこの人に好感を持っていたんだなと気がついてしまった。
「起きてたんですね。騒がしくしてしまったので、寝られませんでしたか?」
うるさくして申し訳ないという気持ちと、助けに入ってくれてもよかったのではという皮肉とが綯い交ぜになる。
自分の身を守るために争いごとに関わらないという選択は理解できた。だから責める気はないけれど、気さくすぎる笑顔に対してはなにか言ってやりたくなったのだ。
寝たふりで人の窮地を傍観しておきながら、どうして悪びれもなく声をかけることができるのだろう。自分だったらできない。
アーレンスはパッと口を開き、言葉を探すように動きを止めてから、顎の力を緩めるように声を発した。
「毛皮の手入れをしてたのか。こまめなやつだなあ。いや、もちろんいいことだ。それじゃあ、朝食はもう済ませたのか?」
「まだですけど」
「そうか! だったら一緒に食べないか? 宿代が浮いたからな、ちょっとだけ奢るよ。一プェニヒ。一プェニヒだけくれれば、残りは俺が支払う。肉が食えるぞ」
そう言ってアーレンスは広場の外、北側に行く道を指し示した。
ついさっき通ってきた方向だから、そのあたりになにがあるのかランマレスは知っている。職人宿や酒場などが軒を連ねていて、午後にエルゼと行くことになっているラーデもあったし、学校だという古ぼけた建物もあった。
「それは、ありがたいですけど。いいんですか?」
食事に頭を悩ませていたところだから大助かりだ。全額を負担してもらうよりわずかでも支払うほうが気楽だし、パン一個の値段で肉料理が食べられるなら非常に心惹かれる。だけれども理由がわからない。
こちらの窮地に見て見ぬふりをした人なのに、どうしてそんなに気前がいいのだろう。
「もちろんだ。宿代が浮いたのは君のおかげだからな」
どういうことだろうか。
困惑の目を向けると、アーレンスは含みのある笑い方をして右手を差し出してきた。
「その話もしたいんだ。情報交換といこうじゃないか。たぶん君が知っておくべき情報を、俺は持ってると思うよ」
ランマレスは視線を宙にさまよわせる。
イドの姿は見えない。見えないけれど、きっとどこかでこの会話を聞いている。
ついていかないほうがいいなら警告をくれるはずだ。なにもないということは、誘いに乗っても問題ないのだろう。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
胡散臭い笑顔に微笑で応え、骨太い手を握り返した。
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