8 イドの物思い

 寝顔は健やかだった。

 濃淡のある金髪がゆるやかに弧を描き、肌理きめのこまやかな頬にかかっている。それをひとすじ握り、つんつんと引っ張ってみた。

 寝息に変化はない。寝返りすら打たない。完全に眠っている。


「ねえ、ラン」

 

 つんつん、つん。

 細く柔らかい髪の毛を引っ張りながら、イドはそっと声を放つ。


「ランはイドに触れられないと思ってるみたいだけどさ。まあ実際そうなんだけど。でもイドのほうはランに触れることができるし、ランの手が当たる感触もあるんだよねぇ」


 引っ張るのをやめて指を開くと、はらりと零れ落ちた。イドは「ひひっ」と目を細めて笑いかける。


「だからさっきは気持ちよかったよ? もっと撫でてもいいんだよぉ」


 エルゼが黙りこんでいるとき、ランマレスは膝の帽子に寝そべったイドの羽を指先で撫でた。

 まるで色を塗り替えるようにくすぐったさが泳ぎ跳ねてひろがり、ぞくぞくする感覚が背中や首にまで伝わってきた。束の間なにも考えられなくなったほど、甘美だった。

 もしも両方の羽を撫でてもらえたなら、どれほど快いのだろうか。

 羽じゃなくてもかまわない。

 服や靴だってすべてがイドで、存在の一部なのだから。袖であろうと靴先であろうと撫でられればそわそわするだろうし、払い除けられれば痛いだろう。たとえそれをした相手がなにも感じていなくても。

 もっとも、自分からぶつかっていくぶんには痛くも痒くもない。熱さも冷たさもわからない。人の髪の毛を掴んで引っ張ることはできても、髪の毛の手触りはわからない。

 ただ、知っているのだ。

 両手を頭の後ろで組み、一歩二歩と退いた。精巧な人形のように眠りこけるランマレスへ、ひっそりと語りかける。

 

「なぁんて、起きてるときには絶対に言わないよ。イドはランになんにも求めない」


 だってさんざん奪ったから。奪い尽くしたから。

 そして約束をしたから。ランマレスは根こそぎ忘れているけれど、約束は有効だ。

 寝台の端まで行き着くと、イドは落ちた。途中でくるりと身を翻し、難なく床に降りる。傍らの背負い鞄を見やり、瞳が一瞬だけ緑色に変じた。


「問題はこっちかなぁ」


 腕を振り上げる。意思を通わせて留め具を外し、毛皮の垂れ蓋を持ち上げて一冊の手帖を招くと、宙に浮かせたままパラパラとめくった。

 イドは文字を知らない。だから読めない。それでも瞳に映すのは、書き手が文字を記したときの感情や思い浮かべていたことを読み取れるからだ。もっと詳細に内容を知る手段もあるけれど、今はできそうにない。だからランマレスが見せてくれた紙面を見つけ、じっくりと解読した。


 ――疑い、逃げている。

 ――惑い、恐れている。


「ヴィック……ヴィッヘルクック」


 はあ、と大きく息を吐いて肩を落とす。


「拒まれてるからほっといたんだけど、様子を見に行こうかなぁ? でも……」


 寝台の上へと瞳を向けたイドは、こころの火を消すように瞼を伏せた。視線を床に這わせながら横へと動かし、反対側を見上げる。仄赤い唇に笑みを刻んで、無邪気さを装い声をかけた。


「こんばんは」


 部屋の中に大柄の男が佇んでいる。イドの挨拶には反応せず、虚ろな顔を寝台へと向けていた。閉じきらない口元から聞こえるのは、ぼつぼつと途切れがちな声だ。


「どう……して、……くれれば……のに」


 喉を痛めているような嗄れた声が、さざなみのごとく闇をかき乱す。

 イドは手帖を宙で操り鞄にしまった。ふんわり飛んで寝台の端に座り、呆れ顔で男を見上げる。


「聞こえてないの?」

「たすけ……、……たのに」

「こっち見てよ」

「ヴィっへ……」

「はい、注目」


 言葉と同時に両手を打ち合わせた。

 とたんに、カラコロと箱の中で木の実がぶつかりあうような音がさざめき、光り輝く種子が部屋にあふれる。天井から床まで無数にたゆたい、清涼な樹木の香りもたちこめた。

 光る種はふるふると動き、男に集まる。じゃれつくように、くっついては離れ、くっついては離れる。

 無反応だった男が耐えかねたように仰のいて肩を揺すると、種は一本の道を作った。その先にいるイドへと、男はようやく顔を向ける。

 イドは自分の何倍も大きなかたちから目をそらさず、頭を傾けた。雪色の短い髪の毛がさらりと虚空に流れる。賑やかな音は鳴り止んで、光を纏う種子は気ままに漂いはじめた。


「ここに寝てるのはあなたの思ってる人とは違うよ。べ、つ、じ、ん」


 大きなからだが前後に振れる。

 薄汚れた服を着て、頭も手足も胴体も傷ひとつ見当たらない、骨格の確かな姿。それなのに重さは感じられず、風に吹かれる枯れ草よりも手応えがなさそうにふらふらと揺れている。口から洩れる声は苦しげで、歩きたいのに歩けないような、耳を塞ぎたいのにできないような、焦れた気配が暗闇に浸みる。


「それにねぇ、ヴィッヘルクックになにを訴えても変わらないと思うよ」


 男が唸った。洞窟に響く風の音にも似た、細く長い唸り声に続いて発された言葉は、口惜しげな響きを伴っていた。


「たす……れば、……よかった、のに」


 黒い羽をひろげてイドは飛んだ。男に近寄り、ただの裂け目のような光のない眼窩を覗きこむ。


「見えてないんだね。だからわからないんだ。こんなに近くにいるのに目は明かないままなんて、思い込みが強いねぇ。それならイドが見せてあげる。あなたをこんなふうにした、いろーんな出来事の光景」


 豆粒のように小さい掌が男の額に触れた。


「イドに見えたものに限るけどぉ、こんな感じ」


 イドの瞳が色合いを変える。鮮やかな緑に輝き、金色が表に出て、赤が強まり、また緑色を帯びる。それをくるくると繰り返すさなか、光る種はイドのほうへと集まり、吸いこまれるように消えていった。

 赤い瞳に落ち着いたイドが、手を下ろして呟く。

 

「そっか」


 光の残滓がきらめく暗がりで、背に生やした黒き植物を打ち振るう。目を細め、真っ白な眉に憐れみを浮かべて、唇の両端をきゅっと引き上げ慰めの笑みを象り、そうして、唆すような声を出した。


「あなたも悪魔になるんだね」

 

  

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