7 それがあなたの望みってこと?
子供のころのヴィッヘルクックはしょっちゅう喧嘩をした。
相手がからかうからだ。ヴィッヘルクックを、というより、双子であることを。
同じ顔、同じ背恰好、同じ日に生まれた兄と弟。
半分と半分の存在。二人そろって一人。
徒弟修行を開始する前、ランマレスとヴィッヘルクックは父の指示で学校に通った。高尚な学問ではなく、あくまで職人や商人を目指す子供たちのための、日常で使う読み書きと算術の学校だ。必須ではないが、できないよりできたほうがいいからという理由だった。
二人が一緒に学校へ行った日は数えるほどしかない。一人が学校へ行っている間、もう一人は父の工房や家事を手伝った。交代で学校に通い、その日学んだことを帰宅後に教えることでどちらも学べるだろと、そういう指示だった。
双子は便利だ、半分と半分だから補いあえる、二人そろえば人より半分の努力で一人前になれるんだ。
父は目尻に笑みを刻んでそう口にした。
半分と半分の存在。
二人そろって一人。
学友たちはそれをからかった。「片っぽ」「体も頭も半分こ」「きっと結婚しても交代で家に住むんだ」と。
ランマレスは無視したが、ヴィッヘルクックは手が出た。足も出た。侮られたら黙って耐えることができない性分だった。
さすがに徒弟時代は親方のしごきに逆らわなかったけれど、不満は悪口となって吐き出された。そういうときはランマレスもよく一緒に愚痴を言ったものだ。
親方が飲むビールにしょんべんを入れてやろうか、とヴィッヘルクックが口走ったことは何度もあるが、実行に移したことはない。おかみさんの財布をくすねて買い食いしようか、と計画を具体的に語りあうことはあっても、それだけだった。
「ほんとにやったら俺たちの負けだよな、ラン。ばれるかばれないかじゃない。仕返しは隠れずにやってこそだろ」
そんなことを言っていた兄が雇い主を襲って財布を奪ったなど、信じられなかった。
ランマレスが知るかぎり、ヴィッヘルクックが暴力を振るうのは自分の名誉を守るためであって、その逆はない。だから契約を破ったという話もランマレスは半信半疑だった。
事実だとすれば、よほどの事情があったのだろう。それがなにかを考えながらここまで話を聞いてきた。
たぶん、エルゼの知らないところで起こったのだ。日記に残すことすら嫌うほどの出来事が。それが失踪の理由だと確信しかけたところで、イドの言葉を聞いた。
嘘があるよと。
いったいどう受け止めたらいいのだろう。
イドはもう無言だ。いつもそうだ。いたずら好きの気まぐれな妖精だから、思わせぶりなことを言うだけ言って終わりにしてしまう。
聞き出したいけれど、できない。イドに問えば独りで会話する変人になってしまうし、エルゼに尋ねたところで答えを引き出す話術が自分にはない。
俯いていたランマレスは、息を深く吸って顔を上げた。
「兄が、その、ごめんなさい。契約を途中で放り出したのは、兄が悪いです」
ちら、とイドに目を向けると、燭台の皿の中で蝋燭に背中を預け瞼を閉じていた。黒い羽がだらんと垂れ下がって、模様のように白い服に張り付いている。
「だから、兄が働くはずだった残り一週間分を、かわりに僕がやります。お給料は、もう兄が持っていってるということで、要りません。ご主人は生き返りませんが、それはヴィックのせいだとは言い切れないので、せめて契約の件だけでも僕がかわりに」
エルゼが不可解だという顔をした。
「どうしてあなたがそこまでするの?」
「双子だから」
せわしなくエルゼとイドを行き来していた瞳がぴたりとエルゼを見据え、火が映りこんで一瞬だけ強く光った。
考えるまでもなく口から答えが出たのは、幼いころから言われ続けてきたことだからだ。
「兄のかわりをするのは慣れてるんです。双子だから、片方がやってることはもう片方もやってることになるんで、僕をヴィッヘルクックだと思ってください」
「でもあなたたちは別人でしょ?」
「そうですけど。エルゼさんも僕を間違えたじゃないですか。そのまま、間違えたままにして僕を雇ってください。必要なら
怪訝そうにエルゼは黙りこむ。ややあって、首をかしげながら口を開いた。
「つまり……そうすればヴィッヘルクックは契約違反を償ったことになって、これ以上は罪に問われない。それがあなたの望みってこと?」
「はい。身内が石を投げられるままなのは、すごくいやなので。ヴィックがそれを知るかどうかはまた別で、とにかく、問題をなかったことにしたいんです」
「それはお兄さんのためになるのかしら」
「でも僕らはずっとそうやってきたので」
「双子だから?」
「双子だから」
「罪を肩がわりするの?」
「それでいいんです」
エルゼは小さく溜息をついた。視線を横に外して沈黙する。
イドが薄く目を開けた。林檎色の瞳がエルゼを映し、つっとランマレスを見上げる。
――嘘つきランマレス。
責めるような顔つきで言い放って、羽を宙に打ちつけ飛び上がった。ランマレスの目の前まで来ると、体をひねって羽をぶつけてくる。
猫にひっかかれたような痛みが鼻先に走った。顔をしかめそうになるのをこらえて俯き、鼻をさする。
嘘つき、か。まあ、まるきりの嘘でもないよ、と内心で返事をすると、「嘘ばっかり」とイドは吐き捨ててランマレスの膝へと降りた。帽子の上だ。仰向けに寝そべって不服そうに見上げてくる。
そんなに嘘が嫌いなのだろうか。
そういえばイドが嘘をついたことはない気がした。いたずらはしょっちゅうだけれど、嘘をついて騙そうとしてきたことは一度もないはずだ。
一対の羽が帽子の上でひろがっている。羽も帽子も黒色なのに見分けられるのをふしぎに思いながら、片方の羽を撫でた。イドに触れることはできないから、伝わるのは帽子のすべやかな感触だ。
こっちの羽だけ傷ついて、何本も抜けちゃったらいやだろ? それとおんなじだよ。
心の声は伝わっているのだろうか。林檎色の瞳はときおり金色に光りながらランマレスを睨みつけるばかりだ。
エルゼは思い悩んでいるようだった。視線を下げて押し黙っているので、辛抱強く待つことにする。
いったいなにをそこまで悩むのだろうか。無償で働くと言っているのだから、彼女にとっても悪い話ではないはずなのに。
まわりにどう説明するのか考えてるのかなあ……手続きが面倒とか……それとも、嘘、っていうのが関係してるのかな……とランマレスも思案する。
ようやく顔を上げたエルゼは、なにか答えが出たのか、晴れやかな笑顔だった。
「あなたがそれでいいなら、いいわ。これも貰ってしまったし」
言いながら掌を蝋燭に差し向けた。
火はまっすぐ輝いて、調理台の上に影を落としている。本当に蜜蝋製だったようで、これだけ長く燃えていてもまったくいやな匂いが出ていない。
「詳しいことは明日にしましょう。ランマレスさんは職人用の部屋に泊まって。ドリースが使ってる部屋だけど、今夜は戻らないはずだから、どうぞ独り占めして」
別人のように明るく優しいエルゼの口調に、ランマレスはわずかに目を瞠る。ふっと息を吐き、にこやかに応じた。
「ありがとうございます。使わせていただきます」
エルゼの言葉には裏があるのかもしれないが、こんな夜中に追い出されるよりは泊めてもらうほうがいい。断る気にはなれなかった。
「どういたしまして。それじゃ、寝ましょう。ああそうだ、明日の朝はどうする? とりあえずお客さまってことで、欲しければ朝食を用意するけど」
「あ、おねが……」
やめたほうがいいよぉ、と膝から声が飛んできた。冷淡な調子で「ランはエルゼからごはんをもらわないほうがいいよぉ」と。
ランマレスは口にしかけた言葉を引っ込めて、小さく
「自分で適当に食べるので大丈夫です」
「……そう?」
エルゼはなにか言いたそうにしたけれど、「わかった」と頷く。立ち上がって燭台を右手で持ち上げ、「ついてきて」と歩き出した。
何気ないその動きを見て、ランマレスはふと問いかけた。
「あの、体は本当になんともありませんか? 肩とか肘とか背中とか、痛くないですか?」
「え?」
エルゼがきょとんとして足を止める。
「さっき後ろから組み伏せてしまったので……」
きまりが悪くて言い淀むと、エルゼは思い出したように右肘を撫でさすった。
「そういえば、なんともないわ。痛かったんだけど。どこも……なんともない」
「ほんとですか? よかった」
彼女にも非があるとはいえ、これ以上の禍根は残したくない。ランマレスは安堵の息をついて杖を握る。
ふしぎそうに肩のほうまで撫でまわしたエルゼが、まあいいかという態度で台所を出た。
エルゼの工房は二階建てで、階段は二つあるという。
二階は親方一家が使う部屋と、職人たちの部屋とに分かれている。親方たち家族の部屋は一階の居間や台所と近いが、職人用の部屋は遠く、階段も中庭を回りこんで配置されていた。
職人用の部屋は徒弟と共用するそうだが、今は徒弟を抱えていないらしい。職人はドリースのみで、その彼も今夜は不在。
一人で部屋を使えることにランマレスは感謝した。寝台を独り占めできることが嬉しかったのもあるが、なにより人目を気にせずイドと話せるからだ。
「で、エルゼさんの嘘って?」
「寝たら?」
さっそく椅子に腰を下ろして問い質そうとしたランマレスに、イドは冷たかった。
部屋は真っ暗だ。エルゼが去る前に蝋燭でぐるりと照らしてくれたから、様子はなんとなくわかっている。寝台と机が一つずつ、椅子は二脚、衣装箱が一つあっただろうか。物が散乱しているようには見えなかったので、きれいに使っているなという印象を受けた。
イドの姿は暗闇でもよく見える。光り輝いているわけではないのに、表情も指先も、黒い羽の動きすらもくっきりと見えていた。
「眠くない。エルゼさんの嘘ってなに?」
もういちど問うと、イドは宙に浮いたまま寝そべった。まるで毛布にくるまるように羽を体の前に持ってきて、林檎色の瞳も瞼に隠してしまう。小さな口だけが動き、つっけんどんな声を発した。
「寝なよ、ランマレス・イルマー。夜だよ」
「眠れないよ。今から寝てもすぐに朝になる。かえって起きられない気がするから起きてるよ」
「寝ればいいのに」
うんざりしたような呟きの少し後で、瞼が開く。顕れた瞳は陽に透ける若葉のような緑色だったが、ランマレスに視線を向けるにつれて赤色に戻った。羽の隙間から白い手がゆらりと伸びて、一点を指差す。
「知ってるのに知らないふりしてたんだよぉ」
ランマレスの膝の上で鞄が身じろぐように震えた。
びっくりして手を離すと、毛皮の垂れ蓋が勢いよく顔にぶつかってきた。思いもしない衝突に「ぶぇッ」という間抜けな声が飛び出す。
顎を反らして鼻に手を当てた。ツーンとして息がしにくい。血が出るかもしれない。ランマレスは泣き顔で抗議しようとしたが、直後に文句を忘れて鞄を凝視した。
蓋は直立したままで、鞄の中身が出てきているのだ。麦藁のような淡い黄土色の手帖。ヴィッヘルクックの旅日記だ。鞄も手帖もイドの姿が見えるのと同じように、はっきりと見えていた。
「それが日記だってエルゼは知ってたんだよぉ。なのに書物だのなんだの、手に入れたかった理由をでっちあげてたからさぁ」
「なんで、そんなことで嘘を」
両手で手帖を持つと、溶けるように闇と馴染んでしまった。消えたわけではなく、ほどよい重みが腕に伝わる。垂れ蓋も力を失ったのか、ランマレスの手首を叩きながら落ちて闇に紛れた。
表紙を撫でて形を確かめる。背表紙にある盛り上がった綴じ帯は三本、どこにも飾り鋲や留め具はなく、豚革のなめらかな感触が心地よい。
中に綴じられている紙は亜麻布の
読もうとしてみたが暗くてまったく見えない。イドがあくびをする姿は見えているというのに。
「いろーんなこと考えてて、いろーんな嘘をしゃべってて、イドは疲れたよぉ」
「ほかにも嘘があるんだ?」
「あったよぉ」
「どんな嘘?」
「教えなぁい」
「ヴィックが契約期間を残していなくなったのは本当?」
「そうなんじゃないのぉ?」
面倒そうにイドがそっぽを向く。
「ヴィックはなにをやった?」
「さぁねぇ」
「イド」
「いいから寝なよ。イドもちょっと休みたいんだよぉ」
「うーん……じゃあその前に、イド」
「お日様が昇ったら起こしてあげるねぇ」
「蝋燭はどこで手に入れた?」
「どこだっけ?」
イドは宙に寝そべったまま羽を打ち開いた。背中がしなって頭が逆さまになり、ぐるんと一回転する。ぐるん、ぐるん、と回転を繰り返しながら床に降り立ち、意地の悪そうな笑顔を振り向けてきた。
ランマレスは疑いを含んだ目で見下ろす。
「イド。どんな人が使ってた?」
「使ってたっていうか、置いてあったっていうかぁ。イドが火をつけたり消したりして遊んでたら、見てた人がいてね、火を消すのと一緒に蝋燭も消してみせたら腰を抜かしてたよぉ」
「そのまま持って来ちゃったのか? だめだよ、泥棒だよ。もう、どうすんだよ」
弱りきった顔でランマレスは天井を仰ぐ。
これでは盗みを働いたエルゼたちをとやかく言えないし、自分が蝋燭泥棒として追われる可能性も出てきた。双子の弟が蝋燭泥棒ならやっぱり兄だって泥棒だ、と言われかねない。ヴィッヘルクックにかけられている盗みの疑いは強まってしまうだろう。
「大丈夫だよぉ。だってエルゼのお金で買ったものだから」
「え?」
「魔法の道具にしたしねぇ。おかげで追い出されなかったでしょ?」
「いや、どういうこと? 誰が持ってたの?」
「名前は知らなぁい。でも、そこに連れてってあげてもいいよぉ」
「わかった。行く。約束な?」
「はぁい。おやすみ、ラン」
イドはするりと寝台の下に潜りこんでしまった。
「イド?」
呼んでも返事はない。もう話をする気はないようだ。
ランマレスも旅装を解いて寝台に横たわった。鼻と額は痛いし気分も冴えているし、眠れる気はしないけれど、とりあえず目を瞑る。
いろいろなことがある一日だった。知りたいことも増えた。それらがひとつひとつ脳裡に浮かんでは流れてゆく。
エルゼは嘘をついている、と思って顧みれば、そういえばあれはちょっとおかしかったな、と気がつくことがあった。
不誠実な職人「ヴィッヘルクック」が戻ってきたのに、どうして彼女は「罰を受けろ」と言わずに「すぐに消えて」と言ったのだろうか。
まるで戻ってきてほしくなかったみたいな、追い出したがっていたような。
うつらうつら、考えはまとまらず、そのうちに深い眠りへと落ちた。
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