6 魔法の道具を入れたよ
「そこから動かないで。いい? 絶対に動かないで」
「はい。動きません。動きませんから、話がしたいです」
開け放った扉を手で押さえ、ランマレスは一息ついた。
こんな時間だから背後の路地には誰もいないけれど、通り沿いには家が建ち並んでいる。あまり騒ぐと人が起きるかもしれない。見咎められるのはきっと自分だろうから、できれば今すぐ身を隠したい。
そんな気持ちはあれど、この機会を逃したくなかった。教えてほしいことがいくつもあるのだ。
女泥棒は手を伸ばしても届かない位置に立っている。警戒心を剥き出しにしてランマレスを睨む姿は、まるで毛を逆立てた黒猫だ。
人がやっとすれ違える程度の通路に見えるが、物置部屋としても使っているのだろう。棚にはいろいろな道具や布きれなどがしまわれていて、ごちゃごちゃしていた。
窓はなく、頼りは開け放った扉からさしこむ月光だけだ。自分の影で暗くならないようにと、ランマレスは少しだけ立ち位置を変えた。
「動かないで」
「そっちには行きませんから、教えてください。どうして僕の荷物を狙ったんですか」
「本当にヴィッヘルクック・イルマーじゃないの?」
「誓って、違います」
疑わしげな視線が舐めるように動く。
居心地の悪さを愛想笑いでごまかし、ランマレスも観察の目を向けた。
美人だと思う。顔の輪郭が小さくて、目も鼻も口も品よく整っている。睨んでいても崩れた印象にならないのだから、笑ったらきっともっと魅力的だろう。
だけど服装は不恰好だ。頭巾は取っているものの、いまだ黒ずくめ。大きさが合っていないようで、おそらく首回りを詰めている。
「それ、あなたの服ですか? 男物に見えますが」
「だからなに?」
「ええっと、どうして泥棒を? ご主人は知ってるんですか」
佳麗な小顔からスッと表情が消え失せた。変化は一瞬で、いっそう険しさを増した顔になって唇を引き結ぶ。
失言に気がつき、ランマレスは慌てて謝罪を口にした。
「ごめんなさい。亡くなってるんですよね。職人頭さんから聞きました」
返事はなく、険のある顔も変わらない。ただ、力の入っていた肩がわずかに下がったのをランマレスは見逃さなかった。
「もういちど言います。僕はランマレス・イルマー。ヴィッヘルクック・イルマーの双子の弟です。あなたの名前も教えてくださいませんか」
「……エルゼ・シュテンダー」
ゆっくりした口調を心がけて問えば、しぶしぶといった様子で答えが返る。ランマレスの口元がほころんだ。
「はじめまして、シュテンダーさん」
「エルゼでいいわ。ヴィッヘルクック・イルマーはおかみさんって呼んでたけど」
「いいんですか? じゃあ、エルゼさん。ありがとうございます」
「イルマーさんって呼んだらヴィッヘルクック・イルマーと同じでしょ。だからよ、ランマレスさん」
「なるほど」
対等に接するという意味だろうか。
ふつう初対面で名前と名字を名乗られたら名字を呼ぶ。名前を呼ぶのはある程度の親しさを得てからだった。
なんだかとても大きな歩み寄りに思えて、ランマレスは笑み崩れた。
「灯り代をくれるかしら」
「え?」
「灯りの代金よ。それをくれるなら中で話をするわ」
「ああ……」
冷ややかなエルゼに笑顔を向けたまま、小さな頷きを返す。
確かに、こんな夜中に話し合いをするとなれば灯りは必須だ。けれども油にしろ蝋燭にしろ消耗品だから、気兼ねなく使えるものではない。宿でも別料金だった。
蝋燭代を節約して泊まってきたので、ついついしょっぱい気持ちになる。とはいえエルゼの要求は納得できた。
「えっと、じゃあ、一プェニヒでいいですか。宿でもだいたいそれぐらいなので」
「それでいいわ」
仕方ないなと諦めて腰の財布に触れたとき、不意にイドが眼前へと身を滑りこませてきた。
――お金よりもっといいものがあるかもぉ。
なんだって?
顎を引いて目だけで問いかけると、得意げな笑みとともに指差された。
――鞄の中にぃ、魔法の道具を入れたよ。役立ててねぇ。
ランマレスは誰もいない方向に視線を投げる。少し悩んで、とりあえず確認してみようと財布から手を離した。
背負っている鞄を前へと回し尾錠を外して毛皮の垂れ蓋を開ける。きらめく夜空の明かりを当てて中を覗きこめば、まず目に入ったのはヴィッヘルクックの旅日記だ。その隣に見覚えのない物があった。
取り出して、矯めつ眇めつ眺める。
細長くて黄色い蝋燭だ。芯は焦げているようだし、その根元の蝋も窪んでいるからすでに一度は使っているのがわかる。
鼻を近づけてみたら、ほのかに甘い香りがした。無臭と言っていいほど弱い香りだ。これはもしや。
「なにしてるの?」
不機嫌そうな声にランマレスの肩が跳ねた。隠し持つように蝋燭をお腹の前で杖と一緒に握り、へらへらと笑って、空いた左手で帽子ごと頭皮を揉む。
「えっと、じつは貰い物の……じゃなくて、拾ったんです。この蝋燭。蜜蝋製だと思うんですけど、あの、もともと僕の物じゃないし、だから、お金のかわりにこれを差し上げます……」
「拾った? 蜜蝋の蝋燭を? どこで?」
エルゼの声は不審に満ちていた。
それはそうだ。蜜蝋の蝋燭は獣脂の蝋燭と違って格式も価格も高い。もっぱら教会や貴族や豪商などが使い、そうそう道端に落ちているものではない。
貧乏な職人が買えるわけはないし、人から譲られるのも理由が思いつかない。だから「貰った」ではなく「拾った」と嘘をついたのだ。
いったん口にしたなら押し通すしかない。ランマレスは必死に言い訳を考えた。
「えっと、街道に……街道の脇の茂みに。たぶん盗賊が商人を襲って、積んでた荷物に蝋燭があったのかと。それでこれだけ落ちて、気づかずにそのままだったんじゃないかと、思います」
「あなたが盗んだんじゃなくて?」
「違います違います! 僕は絶対に盗んでません! 本当に、絶対に、間違いなく、僕が盗んだ物じゃないです」
視界の端でちらつく白い気配を懸命に無視した。この蝋燭についてイドに問い詰めたいけれど、今はできない。
「いいわ」
蝋燭を受け取ったエルゼが扉を施錠する。ランマレスが錠前を見る間もなく真っ暗になった。
「こっち」
棚にぶつからないよう気をつけながら歩き、誘導する声を頼りに進む。辿り着いた部屋では小窓から淡い光が落ちていた。渡したばかりの蝋燭にも火がつけられ、それでもまだ暗い室内をランマレスは見回す。
どうやら台所のようだ。窯と炉がくっついた
エルゼが蝋燭を置いた卓は調理台だろう。作業をするには小さめだが、広く使うためか台の上は片付けられていて、蝋燭のほかにはなにもない。
椅子に腰掛けたエルゼが対面を促してきた。
「座って。下に椅子があるから」
「はい」
調理台の下を覗けばすぐに見つかった。座面は小さく背もたれがない。
杖を調理台に立て掛けて、鞄は下ろさずに座り、帽子だけを膝の上に置いた。押さえつけられていた金髪と隠れていた額がすっきりと現れる。
エルゼがじいっと視線を注いできた。
目を合わせてよいものかどうかわからず、唇をもぞもぞと動かして瞳をさまよわせる。蝋燭の光で浮かびあがるランマレスの顔は、笑っているような泣いているような、どうにも締まりの悪いものになった。
おもむろにエルゼが頭を下げた。
「勘違いしてごめんなさい。荷物を盗んだのも、ごめんなさい」
「いや、まあ、返してもらえたので、いいです」
「そう……?」
遠慮がちに上げられた顔を火明かりが撫でる。頬がうっすら緩んだようだったが、火を照り返す瞳はいまだ冷たさを湛えていた。
「もっと怒るかと思った。性格は似てないのかしら」
「ああ……そうですね、ヴィックなら……」
「殴る?」
「まさか。あ、でも相手が男だったらそうするかもしれません」
「あなたは違うの?」
「僕は穏便にしたいです。ヴィックの喧嘩もいつも止めてました。とばっちりで巻きこまれることはありましたけど」
「でも結局あなたも喧嘩してすっきりするんでしょ?」
「ええっと、そう、だったかな」
曖昧に笑って言葉を濁す。
思い出すのは子供のころだ。双子の兄が誰かと喧嘩をすると、後日その相手から「仕返しだ」と自分が殴られることがあった。相手はヴィッヘルクックだと勘違いして殴る。あるいは弟のほうだと気づいても、「双子なんだからどっちでも一緒だ」とやっぱり殴られる。
ヴィッヘルクックに報告すると、「なんでやられっぱなしなんだよ」と呆れられた。父や上の兄も「殴り返せ」だとか「弱いな」だとか言って笑うだけだった。
ぶたれた頬や背中の痛みが心にまで移ったようで苦しいのに、うまく言葉にできずランマレスはたびたび泣いたものだ。
視線を感じて回想から抜け出すと、探るような表情のエルゼがいた。目が合ったとたん彼女の顔に親しげな笑みが浮かぶ。
「ほんとに別人なのね。そっくりなのに」
ようやく納得してくれたらしい。ランマレスはほっとして、つい口がほぐれた。
「親でも見分けられませんから。親方も、しょっちゅう僕とヴィックを間違えてました。姉ぐらいかな、ちゃんと見分けてくれてたのは」
首筋のほくろで見分けられることを教えてくれたのは姉だった。ランマレスとヴィッヘルクックが徒弟奉公のために親元を離れてからは姉と会うこともなく、ほどなくして嫁いでいったため、姉との思い出は幼少時のものがほとんどだ。殴られて負った怪我を手当てしてくれるのもたいてい姉だった。
「ヴィッヘルクックと一緒に徒弟修行を?」
「そうです。十二歳から十六歳まで」
「
「いいえ。僕は一年遅れで。でも旅の途中で合流できたらしようって、ヴィックは僕への伝言を職人宿に残すって約束してくれたんです」
「会えたの?」
「会えません。伝言は受け取りました。それが手帖で……あの、宿で僕の荷物を奪ったあの男の人って?」
「ああ、ドリースのことね。うちの職人よ」
「えっ!」
「名字もあだ名もドリース。老けて見えるけど十九歳」
「ええっ! 僕と一歳しか違わない。かなり年上に見えてました」
「それでいいみたいよ。若く見えるほうがいやなんですって」
「そうなんですか……あの、ドリースさんは、僕の持ってる手帖を狙ったみたいに言ってたんですけど、エルゼさんの指示なんですか?」
「そうね。だって、旅の職人には不釣り合いだと思ったから」
「見てたんですね。取り出してるところ」
ランマレスが呆れて溜息をつくと、エルゼは蝋燭に目を落とした。調理台の上で両手を組み、ためらいがちに言葉を紡ぐ。
「あのあと」
エルゼの指が落ち着きなく組み替わった。
「わたし、引き返したの。ハンスに買い物を頼んで、わたしはあなたを追いかけた。知りたいことがあったから」
ランマレスは頭をひねる。あれだけ罵倒してこちらの話は聞こうとしなかったくせに、わざわざ追いかけてまでなにを質問したかったのだろう。
「手帖に書いてない? ヴィッヘルクックは突然いなくなったの」
エルゼが上目遣いで嘲るように声を発した。ランマレスは背筋を伸ばし、真摯な面持ちで答える。
「いえ、手帖にはなにも。あの、詳しく教えてください。職人頭さんからちょっと聞いたんですけど、よくわからなくて。その話を教えてほしくて、もともとエルゼさんを訪ねる予定だったんです」
エルゼは視線をそらして細く息を吐いた。つらそうに顔をしかめながら、ゆっくりゆっくり話し始める。
「土曜日だったんだけどね、仕事が終わって、夫もヴィッヘルクックも出かけてた。二人とも夕食までには帰ってきたのよ。でもその日の夜、寝ようとしたら夫がいなくて。探したら、工房で倒れてた。ヴィッヘルクックを呼びに行ったのは、助けてもらいたかったからで、でも部屋にいなくて、荷物もなくて、それっきり」
父ちゃんを返せ、という声がランマレスの脳裡に甦る。あの子は激しく怒っていた。怒って、泣いている目をしていた。
「ヴィックが関わってる、ということでしょうか」
「わからない。目立つ怪我はなかったの。もともと体調を崩しがちだったし、病気で死んだのかもしれない」
「じゃあ」
「でもね、夫の財布が消えてたの」
言葉をかぶせるようにエルゼが告げる。ランマレスはわずかに眉を寄せた。
「ヴィックが盗んだんですか?」
「わからない。だからそれを訊こうとしてたの。はっきりさせたくて。でも、きっとヴィッヘルクックだと思う。でなきゃおかしいもの。そうでしょ?」
「んー、ヴィックは確かに喧嘩っ早いけど、悪人ではないです」
「なんにもないならどうしていなくなったの? 契約は一週間も残ってた。それなのに黙って消えた。お給料はまだ渡してなかったから、そのかわりに財布を奪ったのかもしれない」
「いくら入ってたんですか?」
「たぶん、一グロッシェンぐらい」
「ということは……だいたい一週間分ですか? お給料の」
職人の賃金は働き方によって変わるし、職業の種類や地域によっても差がある。
ランマレスの経験上、基本の賃金は住み込みなら一日でおおよそ二プェニヒ。日曜日は休みだから一週間分は実質六日分で、十二プェニヒ。
これをグロッシェン銀貨に換算するといくらになるか、というのは、地域によってばらつきがある。同じ単位の貨幣でも、その貨幣を発行している都市が違えば銀の含有量も異なるから、価値が変わるのだ。
事前に両替屋で確認したところ、この地域では十二プェニヒが一グロッシェンと等しい価値を持つとのことだった。
「ええ、そうよ。契約は二週間で、働きぶりもよかったのに」
エルゼは疲れたように息を吐いた。
「ドリースさんもそれを知ってますか? 宿で会ったとき、初対面のような態度だったんですけど」
「ドリースは夫が死んでから雇ったから、ヴィッヘルクックと一緒に働いたことはないの。事情は伝えたから、もう知ってる」
「なるほど。それで、僕の荷物を盗ませた? ヴィックが財布を盗んだなら、その仕返しにって思ったんですか?」
エルゼは何度目かの深い溜息をついた。
「ごめんなさい。こうして話すと思い込みだらけね。ハンスが怒ってるのもそう。ヴィッヘルクックのせいで父親が死んだって思ってるから。そんな証拠はない……でも契約を破ったことは事実。だから懲らしめたくなったの」
「それは……まあ……ごめんなさい」
ランマレスは小さな声で謝った。
風もないのに蝋燭の炎が踊る。イドが口をすぼめて息を吹きかけていた。暇なのだろう。
よせよ、と心の中で咎めながらイドを見つめる。白い相棒はあどけない顔で振り向き、ひとこと言った。
――嘘があるよ。
ぞわり、背筋が冷えた。動揺を悟られまいと顔を伏せる。目の前でエルゼの気配が黒く膨れあがったように感じた。
え、嘘?
今の話の、なにが嘘?
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