5 返してほしいだけなので

「あの、起きてますか?」

 

 管理人室の扉を軽く叩いて呼びかけてみたが反応はない。思い切って開けようとしたら、鍵がかかっていた。

 溜息をついて天井を仰ぐ。朝まで待つしかないのだろうか。

 錠前をいじれば……いやそれはだめだ、と悪念を振り払ったとき、青白い光がランマレスの目に留まった。

 暗闇の中でぼんやりと光っている細い縦の線がなにかわからず、じっと視線を注いで、もしやと思い当たる。

 はやる気持ちを抑えながら手探りで移動した。青白い線の前に立ち、そっと手を伸ばせば木の感触がする。扉だ。手を少し下に動かして錠前に触れた。

 夕方にここで管理人を待っているとき暇潰しがてら見ていたのだが、この扉には鍵穴と掛金かけがねがついていた。掛金は、扉の取っ手でもあるかんの台座に、横の壁に取り付けられている鉤を回して上から挿しこむだけの簡易な錠前だ。ところが今、鐶にはなにも挿しこまれていない。

 まさかまさか、と思いながら鐶を手前に引っ張った。


「あいちゃった」


 思ったとおり、青白い縦線は扉の隙間から入る外の光だった。二つの錠前がどちらも無防備だったことは嬉しいような怖いような、複雑な気分にはなるが、文句は出ない。

 夜間は戸締まりをするのが普通で、宿屋も市門が閉じたら客を受け入れないのが常識だ。都市の条例は各地で異なるけれど、日没後に仕事をしないのはどこでも同じはずだった。だからこそランマレスは夕べの鐘が二回鳴るまでに宿を決めなければと急いだのだ。

 ランマレスが徒弟時代に工房の戸締まりを忘れたときは、親方に鼻血が出るほど殴られた。ここの管理人も怠慢が誰かにばれたらお咎めを受けるに違いないが、今のランマレスにとっては幸いでしかない。

 表に出て静かに扉を閉めると夜気に包まれた。気怠くて秘めやかで、冷たいのにぬくもりを感じる。どこからか汚物の臭気においもした。

 数歩だけ後退して宿屋を見上げる。

 空には星が散らばり、獣の爪のような三日月が屋根に突き刺さっていた。視線を下げれば二階部分に窓がいくつかある。だが、容赦なく荷物を落とされた窓はおそらく反対側だ。

 通り抜けられる所は隣の建物との間にある細い道だけのようだった。ひときわ暗いその場所へとランマレスは立ち入る。

 からっぽの馬房を通り過ぎれば宿の裏庭に出た。厩と裏門をつないで石が敷かれているほかは、土の地面だ。

 どんよりと漂う汚臭にたまらず腕で鼻を覆った。馬糞とか人糞とか、そういう類いのものだ。敷石を外れて土に踏み出してみると、気のせいかぐんにゃりしている。


「それで、どこに落ちた?」


 足元に気をつけながら宿の外壁に近づいていく。先程まで寝ていた部屋を探すと、それらしき窓はすぐに見つかった。では地面はと目を向けてみるも、あるのは背の低い草ばかりで、一階の外壁にぶつかってしまう。

 ないのだ。

 ランマレスの背負い鞄が。

 どこにもない。

 ぐるっと体ごと回って見渡しても、注意深く歩いて探しても見つからない。草花が月光を浴び、木の葉がそよぐばかりだ。


「どこだ……」

 

 もういちど二階の部屋を確認しようと振り仰いだら、窓から見下ろす人影があった。猫背の泥棒だ。

 目つきの悪い陰険な顔がほんの少し愉悦を浮かべた気がして、ランマレスは眉根を寄せた。すぐに「ああ」と呆れた声で苦く笑う。


「そういうこと」


 からくりが見えてきた。

 ランマレスが荷物を見つけられないことを、たぶんあの泥棒は予想していた。窓の下に落としたのはとっさの行動ではなく、最初からそのつもりだったのだろう。

 仲間がいるのだ。

 ランマレスの荷物は彼の仲間が持ち去った。メッサーを突きつけてのやりとりは、仲間が逃げるための時間稼ぎだったのかもしれない。

 じりじりと苛立ちが胸を炙る。

 あの鞄に入っているのは食糧と、着替えと、鍋とか火打ち石とかの手道具、そして手帖。

 この世に一冊だけの、ヴィッヘルクックの旅日記。さらにもう一冊、白紙のままの手帖も入っている。どちらも故郷の友人が手ずから装丁してくれた贈り物だ。


「ほんと返してほしいんだけど。どうしようかなあ」


 癪に障る顔から目をそむけて地面を観察する。毛皮の鞄は落ちていないし、人が潜んでいるようにも見えない。

 周囲を見渡して気になったものといえば、鉄格子の門扉だ。もしかしたらそこから逃げたのかもしれない。

 急ぎ足で裏門に近づき手を伸ばした。冷たい鉄扉はしっかりと施錠されている。閂に触れて確かめて、焦りが吐息に混ざった。

 泥棒が鍵を持っているならまだしも、そうでないならわざわざとざされた裏門は突破しないだろう。普通に表の道から逃げたほうが早い。

 そこまで考えて、はっきりくっきり結論が出る。


「だめだ。追いつけない」


 泥棒がどこに向かったのかわからないから追いかけようがないし、夜間外出は自分が捕まる危険性もある。逃げた泥棒を追いかけるのは現状、とても厳しい。

 だからといって望みがないわけじゃない。

 振り仰げば不快な視線がまだ送られていた。


「あの人が鍵、か」

 

 部屋に戻ろう。あの男に仲間の場所を訊く。これしかない。もう二、三発ほど脛を叩けば口を割るだろうか。痛いことはしたくないけど、譲れないものもある。

 急いで庭を突っ切り、厩まで引き返したところでぎくりと足が止まった。

 細い通りに白い光がふわふわと浮いている。一つではなく、道に沿ってほぼ一直線にいくつも浮いている。

 小石ほどに小さくて丸い光の群れ。さっきはなかった。裏庭に行って戻ってくるまでのわずかな間に現れた。

 虫だろうか、とランマレスは光の中心に目を凝らす。白いけれど、ときおり金色や赤色に変わるものもあった。春の夜に光りながら飛ぶ虫。そんな虫がいただろうか。

 いや、そうではない。

 種、あるいは実だ。

 なんの植物かはわからないが、芽が出ているのか茎なのか、丸い粒から髭のようなものが一本だけ飛び出して、粒に沿うようにくるりと丸まっている。


「イド?」


 呼ばれるように足を動かした。

 上下に浮遊している光の種を追い抜きながら表の道に出ると、さらにたくさんの光の種が浮いていた。宿の右手に向かって、ずっと先の道まで続いている。

 イドの足跡。

 こんなものを見るのは初めてだけれど、そう思った。

 マントを揺らして歩を進める。宿屋から離れることに逡巡などしなかった。

 行けば取り戻せる、行かなければ失う。そんな確信があるから決断は単純で行動も迅速だ。満天のきらめきが降り注ぐなか、帽子で翳る顔はひたむきで、焦りも怒りも薄らいでいる。

 誰もいない夜の石畳では靴音が思いのほか響くため、最初は慎重に歩いていた。ところが金や赤に光る種がまるで「遅い」と諫めるように足元に絡みつくので、腹を据えてランマレスは走った。鞄を背負っていない体はいつもより軽く、いくらでも走れる気がした。

 ほどなくして石畳が途切れ、舗装されていない道に入る。さほど息も上がらぬうちに人影が見えた。

 黒ずくめの背中を光の種が照らしている。その頭上でいっそう強く光っているのは、いてほしいときにいなかった旅の相棒だ。「やっと来たぁ」と能天気な笑顔を向けてくれた。

 直後に黒ずくめの背中が沈む。蹴躓いて転んだらしい。「ほらほら、さっさと捕まえちゃいなよぉ」というイドの応援で勢いがついた。

 立ち上がろうとする黒ずくめの右腕を捻じり上げて背中に固定し、地面に押さえこむ。たまりかねたのか、黒ずくめの左手が鞄を離して土を掴んだ。ランマレスの背負い鞄だ。


「僕の荷物、返してもらいますよ」


 暴れられたくないから、捻じり曲げた腕の関節に負荷をかけていく。押し殺した悲鳴が聞こえた。


「動かないでくださいね。返してほしいだけなので、よけいなことをしなければ僕もなにもしません」


 黒ずくめの耳元に顔を寄せ、小声で問いかける。


「返事は?」


 黒い頭がこくこくと頷いた。

 少し強引だが交渉成立だ。ひとまずの安心を得たので、彼を解放しようと力を緩め、はたと違和感に気づいた。

 押さえこんでいる体が、なんだか、やわらかい。それにずいぶんと華奢だ。


「ええっと……もしかして」


 信じられない気持ちでおそるおそる手を離した。

 泥棒の横顔を月影が照らす。頭巾が口元まで覆っているから、見えるのは目元だけだ。湿った光を湛えているのがわかる。

 ランマレスは手を伸ばし、頭巾をそっとずらした。顕れた素顔を見たとたん、慌てて背中からどく。


「女の人、ですか」


 鞄と杖をひっつかみ、後ろ向きにじりじりと離れた。立ち上がろうとしない女泥棒から注意をそらすことなく、鞄を背負う。


「あの、その、怪我、とか……」


 てっきり男だと思っていたから手加減をしなかった。もし動けないほどの怪我をさせてしまったのなら放置はできない。夜警に見つかることもそうだけれど、危険はほかにもあるのだから。

 閉店まで酒場で飲んで、見つかれば牢獄行きなのに夜道をうろつく酔っぱらいや、正真正銘の泥棒。便所掃除や野良犬の捕獲など、許可を得て夜に働く汚れ仕事の人たち。彼らはみんな男で、路上に転がっている女性を親切に助けるとは限らない。

 どうすればいいかわからず、おたおたと前に出たり下がったりしながら見守っていると、女泥棒はゆっくりとした動きで体を起こした。


「乱暴なのね。ヴィッヘルクック・イルマー」


 え、とランマレスは息を呑む。まじまじと女性の顔を見つめ、あんぐりと口を開けた。


「昼間の」


 石を投げてきた少年の、母親だ。腕をさすりながら立ち上がる彼女は、相も変わらず敵意を剥き出しにして睨んできた。


「え、どうして……なんでですか。泥棒をやってるんですか……?」

「ええ、たまに」

「やめましょう? 捕まったらたいへんですよ。子供だっているのに」

「心配するふりをどうもありがとう。どうして戻ってきたのよ、ヴィッヘルクック・イルマー。今頃になってどうして」

「違いますよ。あ、心配してるのは本当です。違うのは僕の名前で、ヴィッヘルクック・イルマーじゃありません。ランマレス・イルマーです」

「は? 名前を変えたの?」

「生まれたときからランマレスです。僕とヴィッヘルクックは双子なんです」

「なにそれ。そういう作り話? なにがしたいの」

 

 女性が一笑に付す。

 ランマレスは顎を反らし、自分の右肩に手を添えた。


「見えますか? 右の首筋にほくろがあるんですけど、ヴィック……ヴィッヘルクックにはないんです」

「暗くて見えないし、そんなところ気にしなかったから憶えてない」

「ああ、そうですよね……」


 どうすればわかってくれるだろうか。ヴィッヘルクックではないと理解してもらわなければ、話が進まない。

 ずれた帽子を直しながら悩んでいると、「ねぇねぇ」と耳元でイドが言った。「そこの道のちょっと遠くから人が来るよぉ。槍みたいに長い斧を持って、角笛を首にぶら下げてて」

 

「夜警!」


 はッと顔を振り向けてランマレスは小声で叫ぶ。ここは未舗装の細い道だけれど、大通りの入口に程近い。「そこの道」とイドが指差したのはまさに目の前の大通りだ。三日月と星明かりで見通しもいいから、この場所は見つかる。


「とりあえずここを離れましょう。宿に……あれ?」


 女泥棒はすでに走り出していた。大通りへと飛び出していく姿を見つけて、慌てて呼び止める。


「そっちは夜警が……ああ、もう」

 

 ランマレスも大通りへと飛び出し、帽子が飛ばないように手で押さえながら全速力で駆けた。背負った鞄の中身が激しく揺さぶられ、ぶつかりあっている音がする。

 蓋をちゃんと閉めてたよな、飛び出さないよな、と気にはなったが確認している余裕はない。物が落ちる音はしないから大丈夫だろうと信じた。

 途中で横を向いたら遠くに小さな灯がぽつんと見えた。夜警だろう。よそ見をしていてくれと祈りながら、どうにか渡りきる。

 道は細くなったが石畳は続いていた。足音を聞き咎められないためにもさっさと大通りから離れたい。


「ついてこないでよ」


 振り向いた黒ずくめが苛立たしげな口調で小さく声を飛ばす。追いかけるランマレスも抑えた声で訴えた。

 

「ヴィックの話をしたいんです、教えてほしいことがあって」

「嘘つき」

「ひどいな、言いがかりだ」


 道は何度か分岐していたが、黒い背中は迷うことなく道を選んでいる。

 ふらつく様子もまるでないから、どうやら怪我はしていないみたいだとランマレスはひそかに安堵しながら一定の距離を保って追いかけた。

 女泥棒が逃げこんだのは工房とおぼしき建物の裏口だった。首から下げていたらしい鍵を使って中に入った彼女は、素早く扉を閉めようとした。

 慌ててランマレスは隙間に足を捻じこむ。半長靴のおかげで痛みはそれほどでもない。


「入らないで」

「いや、あの、入れてください」

「この足をどけて」

「蹴らないでくださいよ。話をしたいだけです。ここから動かないのでせめて中に入れてください。穏便に、静かに、話をしましょう」

 

 力比べではランマレスのほうが強い。扉を閉めよう、開けようとせめぎあったのはわずかな時間で、彼女は不本意そうに扉から離れた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る