4 乱暴なことは嫌いだって言ったじゃないですか

「もしもヴィッヘルクックが信じられないようなことをしでかしていたとして」


 少年とも少女ともつかない幼い顔にあるのは真面目な表情だ。深刻さはないが真剣で、ランマレスが目をそらすことを許さない。


「それについてランが悩むのも怒るのも悲しむのも好きに選べばいいよ。だけどさ、旅をやめるのだけは選ばないでね。だってランは……」


 イドは急に言い淀んだ。ランマレスと目を合わせているはずなのに、神秘を宿す瞳はどこか遠くの空を見はるかすかのように捉えどころがない。


「……ランは歩くことを知るために生まれてきたんだから」


 ぽつり、滴る雨粒のような言葉だった。

 ランマレスは視線を外す。しばし考えこんでから首をかしげた。


「よくわかんないけど、旅は続けるよ」


 ヴィッヘルクックに会いたいし、放浪修行ヴァルツはずっと夢だったんだし、ここで止まるわけがない。生まれてきた理由なんて言われてもなんのことだかぴんと来ないけれど、やっと実現した旅をやめたくない。

 そんなことはイドも知っているはずだ。それなのにどうしてわざわざ釘を刺すのか。


「なんで今そんなことを言う?」

「ただの確認だよ」


 イドの唇が弧を描いた。熱を感じない、星のまたたきのように小さな笑みだ。

 

「ランが旅をやめるならイドはランから離れるよって、わかっててほしかっただけ」


 言い終わると同時に羽をひらりと翻す。黒い穂先が波打つようにしなった。


「じゃあイドはお散歩してくる! またあとでねぇ」


 軽やかに飛び上がって厨房を突っ切り、煤けた壁をすり抜けて消える。

 窓から出たほうが早いだろうに帳場の方向へ行くとは、と頭の片隅で思いながら、ランマレスは小さな友が消えた壁をしばらく眺めた。吐き出せなかった返事のかわりに溜息がこぼれる。

 離れるだなんて、不安になるようなことを言わないでほしい。

 食べかけの粥に目を落とした。だいぶ手元が暗い。小窓から見える空は夕まぐれでも、炉と蝋燭の輝きはゆらゆらと影を濃くしている。


「……食べるか」


 円かな音が聞こえてきた。午後九時。夜の始まりを告げる鐘だ。市壁に囲まれた都市が完全に閉じこもる時間。

 ヴィッヘルクックもイドも謎だらけ。今の段階で頭を悩ませても不安ばかり膨れあがってきっとなにもわからない。

 寝床がある、飢えをしのげている、虫や獣を睡眠中に恐れなくていい。とりあえず今夜はそれだけで充分。

 黙黙と食べたあと塩水で口をゆすぎ、片付けを終わらせ二階へ戻った。

 そういえば三人目の同室者はどこにいるんだろうか。

 それらしき人物を見ていない。もう部屋にいるのかと扉から中をそっと覗いてみる。

 寝台にいるのはファイト・アーレンスだけのようだ。ほかに人の姿はない。


「どけ」

「うあッ」


 予期せぬ声にランマレスの背中はひっくり返った。部屋の中に逃げこんで振り返れば、面長の痩せた男が廊下に立っている。

 背丈は高くもなく低くもなくランマレスと同じくらいだが、ずいぶんと猫背だ。背筋を伸ばせば長身なのかもしれない。まったく足音がしなかったが、見ればきちんと上靴を履いている。靴底が柔らかいので静かに歩けたのだろう。

 視線が不愉快だったのか、男は鋭く睨んできた。殺気立つ気配にランマレスは愛想笑いで宥めつつ、後ろに下がる。


放浪職人ヴァンダーゲゼレか」

「はい。えっと、この部屋に泊まる三人目です。あなたもここですか?」

「そうだ。……ああ、厨房に荷物を置いてきちまった」


 男は両手をひろげて舌打ちする。のそりと踵を返した。


「先に寝てていいぞ」

「はい、ありがとうございます」


 ランマレスは遠ざかるかすかな足音に耳をそばだてて、半開きの扉にゆっくり近づき廊下を覗いた。階段を下りる猫背を暗がりの奥に認めると、思わず首をひねる。

 厨房にあの人もいただろうか。気がつかなかったな。

 確かに目つきが怖くて気難しそうだった。ああいう物騒な雰囲気の人とはなるべく関わりあいになりたくない。それでも関わるなら、うんと仲良くして敵意を抱かれないようにしたい。

 わずか一晩のつきあいなのに、と自分の不安を笑い飛ばし、寝支度に取り掛かる。

 窓掛けはそよとも揺れず夕陽も消えていた。

 あらためて見渡しても荷物を置くための台がない。机はもちろん長椅子すらないので、仕方なく寝台のそばに毛皮の背負い鞄を下ろした。枕元は壁とくっついているから足のほうに寄せる。

 旅装を脱いで下着も替え、身軽になって寝台に潜りこんだ。詰められている藁が音をたてつつ受け止めてくれる。「一晩の友」の体温を左側に感じながら、目の粗い麻の掛け布を肩まで引き寄せた。

 直後、ランマレスは渋面を作って掛け布を顔から遠ざける。

 臭いのだ。

 おそらく原因はくしゃみで飛んだ唾とか涎とかだろう。ファイト・アーレンスが掛け布の上に腕を出しているのも、悪臭を少しでも遠ざけるためかもしれない。

 臭くても固い地面よりはいい。昨夜は野宿したからあまり体が休まっていないのだ。どうせ寝てしまえば鼻も眠る。

 おとなしく目を閉じて全身の力を抜いた。ファイト・アーレンスの寝息は静かだ。つられるように、とろとろと微睡みが訪れた。

 眠りの淵へと優しくいざなわれ、深みにはまる寸前でランマレスは薄く瞼を開く。見えない棘が刺さっているかのように、指先と額がぴりぴりと異変を感じ取っていた。

 眠っていたのはどれくらいだろうか。視線だけで周囲を探れば、窓掛けが白くぼんやりと見えた。夜が明けたにしては静かすぎるから、まだ夜だ。

 床がきしんだ。

 誰かが歩いている。

 掛け布の中で力いっぱい握り拳を作り、ぱっと開く。それだけで血の巡りが良くなった気がして、いつでも体を動かせるという気分になる。けれどもまだ起きない。静けさを保ったまま闇を窺う。

 隣から伝わってくるのはファイト・アーレンスの気配だけだ。それなら入ってきたのは三人目の同室者だろうか。だが、無性にいやな予感がした。

 人影が窓辺に立った。窓掛けを少しめくり外を見たようだ。すぐに寝台のほうへ近づいてくる。さっき顔を合わせた猫背の男、にも思えるがよくわからない。荷物を取りに行くと言っていたけれど、なにも持っていないように見える。

 眠りに来たなら掛け布をめくるはずだ。それなのに影は寝台の足元に向かった。ランマレスが荷物を置いた場所だ。

 イド、と胸の中で呼んでみた。

 返事はない。姿も見えない。散歩に出たまま戻っていないのか。こういうときにこそいてほしいのに。

 固い音がした。床になにかが落ちたらしい。

 革帯とメッサーだ、とランマレスは想像する。寝台に入る前、鞄の上にその二つを置いて、さらに脱いだ衣服と帽子をのせて、最後にマントをかぶせた。それを動かされたのだろう。

 静寂が漂う。やがて影が動き、窓に近づいていくのがわかった。手になにかを持っている。

 鞄かもしれない。明るいところで中身を見るつもりなのだろうか。

 心臓が早鐘を打った。

 どうしよう、と悩んだのはわずかな時間で、そっと掛け布から足を出す。藁がこすれて音をたてた。寝台から転げるように降り立つと、すぐさま一歩、大きく踏みこんだ。

 影との距離を一息で詰める。後ろから相手の首に腕を回し、その膝裏に自分の膝を叩きこんだ。腕の中の体がよろける。

 押さえこもうとしたところで身をよじられた。なにかが窓に向かって放り投げられる。星明かりに照らされたものを見てランマレスは愕然とした。

 

「え、なんで」


 見慣れた毛皮の塊が窓掛けを押しのけて視界から消える。

 嘘だろ。

 思わず窓に手を伸ばそうとして、つい腕から力を抜いてしまった。瞬間ひやりと胃がふるえる。考えるよりも早く後ろへ跳びすさると、ほぼ同時に相手の手元が光った。鞘から抜かれたメッサーだ。

 嘘だろ嘘だろ、と内心で悲鳴をあげつつ息を深く吸う。足が震えそうになるのを腹に力をこめて耐える。


「それも僕のですよね。返してください」


 意識して声を張った。そうでもしないと勇気なんて一瞬で枯れる気がした。

 顎の力を緩めると、頬のこわばりがわずかに取れた。それでも笑うほどの余裕は生まれてこない。

 極度の緊張でランマレスの表情は削ぎ落とされ、かえって気弱な雰囲気も隠れた。傍目には怯えず騒がず縮こまらず、下着一枚なのに堂堂としているが、実際は逃げたくてたまらない。

 相対した賊は猫背をいっそう丸くした。揺れている窓掛けから星明かりが忍びこみ、痩せた横顔を照らしている。ランマレスの予想どおり、同室の男だ。

 酷薄そうな目と、張り詰めた眼差しがぶつかった。猫背の低い声が静寂を裂く。


「武器の持ち込みは禁止なんだぜ」

「それはメッサーですよ。道具であって、武器じゃない」


 ランマレスがいつも腰に下げているメッサーはやや大振りで、柄を握って下向きに持つと肘よりも下に切っ先が来る。

 メッサーというのは食事用の小さいものから両手で扱う大きいものまでと多様で、大きいものは『大きい小刀グロスメッサー』という矛盾した名前で呼ばれもする。もともとは小さいものしかなかったからだ。

 ランマレスのメッサーはちょうど中間くらいで、剣で言うなら短剣ほどの大きさだった。鍔はあるが柄頭はなく、切っ先にいくほど幅広でわずかに湾曲している。

 どんな大きさであれメッサーは武器ではない。片刃だからではなく柄の構造が殺傷用の剣とは違うのだ。柄頭がないのも違いの一つであり、見れば誰にでもわかる。重心を調整し打撃にも使える柄頭は、ただの道具のメッサーには過剰な部分だ。

 行く手を遮る枝があれば切り落とし、獣に襲われそうになったら杖とメッサーでどうにかし、必要なら食材だって切る。そういう意図で持ち歩いている。武器としても使えるが、武器には分類されない。それがメッサーだった。

 もちろん故意に人を害することもできる。目の前の男がそのつもりで鞘から抜き放ったのはあきらかで、胸の鼓動は「どうするどうする、逃げろ逃げろ」とせきたててきて騒がしい。

 口の中はからからに渇いていた。

 逃げ道はある。真後ろの扉を今すぐ目指せと背中がひりついている。

 だからこそ息を吸った。鼻から深く吸って長く吐き、焦りを宥める。

 背を向けた瞬間にきっと襲われる。こっちは下着姿。それでどこまで逃げる。鞄はどうする。最良はなんだ。


「返してください。あなたを訴えたりしませんから、返してくれればいいんです。乱暴なことは嫌いなので、返してくれれば、なにもなかったことにします」

「おまえが眠れば返してやるよ」


 猫背が刃先を寝台に向かって振った。

 ランマレスの視線は動かない。正面を見据えたまま抑揚のない声で否定する。


「信じられません。僕が眠ってたからあなたに盗まれたんじゃないですか」

「俺も、おまえがなかったことにするなんて信じられないんだ」


 猫背の男はメッサーを持ち直して大きく踏みこんできた。

 刺す気だ。

 切っ先が胸に届く前にランマレスは動いていた。

 腰を深く落として刃をよけながら左足を前に出し、男の腹に左肘を当てる。男の右足の踵にくっつけるように左足を着地させると、抱えこめる位置に来た男の右膝を右手で掴んで持ち上げ、左肘に体重をかけながら前のめりで男の腹を押す。

 泥棒はしたたかに尻を打った。

 ランマレスは躊躇なく手を伸ばす。柄を握る親指の下をぐいと押し、緩んだ手からメッサーを抜き取る。頭の芯が痺れるような心地になりながら、メッサーの背で男の脛を殴りつける。

 ひしゃげた呻き声を洩らして膝を抱える猫背をこわごわと見下ろした。いつでも叩けるようにメッサーを構えたままだったけれど、反撃の気配はない。骨に響いているのだろう。きっとしばらくは動けない。

 ふう、と息を吐いてようやく構えを解いた。無表情だった顔が色を取り戻し、泣きそうに眉尻が下がる。


「乱暴なことは嫌いだって言ったじゃないですか」


 すぐにでも荷物を拾いに行きたいところだけれど、まずは服を着なければ。落ちていた鞘を回収し、ランマレスはびくびくと男を気にしながら寝台に戻った。

 これほどの騒ぎなのにファイト・アーレンスはまったく起きる様子がない。「泥棒がいます」と揺り起こしたくなったものの、よけいなことだと思いとどまる。

 管理人に報告すれば泥棒はたぶん拘束されるから、ファイト・アーレンスに被害はない。だったら寝かせておいてあげよう。

 窓から投げ落とされたのは鞄だけで、帽子も杖もマントも、財布すらも残されていた。

 奪うなら財布にしてほしかった。しだいに気分がささくれ立ってくる。


「おまえ……、逃げると、思ったのに」

「それも考えましたけど、取り押さえたほうが身を守れると思ったので」

「喧嘩慣れしてるのか」

「違いますよ。乱暴なのは本当に嫌いです。一人旅は危険だから対策してるだけです。だいたいあなたはどうして僕の荷物を外に落としたんですか。ひどいです。ひどすぎです」

「高そうな書物を持ってただろ」

「持ってませんよ」


 身支度を済ませたランマレスは靴と杖を持って扉へと足を向けた。通り過ぎざまに鉄でできている杖先を床に強く落として泥棒に抗議を示す。

 男は首だけを持ち上げて苦しげに声を放った。


「革の装丁がされた立派なやつだよ」

「あれは書物じゃなくて、……えっと、え、あれを見たってことは外?」


 彼が言っているのは旅日記のことだろう。豚革で装丁されているヴィッヘルクックの手帖を、ランマレスは確かに人前で取り出している。そのときから付け狙ってこんな夜中まで機会を窺っていたということか。


「恐ろしいな、泥棒って」


 寝っ転がる猫背に感心と軽蔑のごっちゃになった視線を送り、真っ暗な廊下に出る。「あれ、でも」と独り言が飛び出した。


「俺が宿に来る前にもう泊まってたんだよな?」


 ファイト・アーレンスの口ぶりからするとそういうことだ。ということは後をつけてきたのではなく、先回りしていたことになる。

 付け狙ったのではなく、宿にいたらたまたまランマレスも来たから標的にした、ということだろうか。だとしたら自分はなんて運がないのか。


「助けてくれるんじゃないのか、イド」


 こうなる前にイドはなにか気づいていたんじゃないだろうか。教えてくれればいいのに、知らんぷりで散歩に消えるとは。

 ぶつぶつと文句を垂れながら、ランマレスは階段を下りた。

 

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