3 寝返りを打つのが同時で面白かった

「俺はもう寝るよ。悪いけど寝台を先に使わせてもらう」

「はい、おかまいなく」


 動き始めた男につられてランマレスも帽子をかぶり、足元の革靴を持ち上げた。

 

「君も寝台で寝るよな? 三人なら余裕で横になれるだろ。詰めれば五人か六人はいけそうだ」

「三人? あと一人いるんですか。今はどこに?」

「ああ……下で食事してるんじゃないか? 目つきは鋭いけど、静かな男だったよ」

「静かなら安心です。乱暴な人は苦手なので」

「乱暴か。確かに君、細いもんなあ。顔もわりときれいというか、優しいというか、おとなしそうというか、まあ強そうには見えないからな。や、悪口じゃなくてね」

「いいんです、弱いですから……殴り合いなんて痛いし怖いし……」


 想像しただけで逃げたくなり、ランマレスは身をすくめる。

 

「そうじゃなくて。見た目が弱そうだと絡まれやすいから大変だって言いたいんだ」

「ええ……?」


 男は脱いだ服を適当に丸めたりせず、いちいち畳んでいる。てきぱきと手を動かしながら口も止まらない。

 

「特に旅はね。知ってるか? お城にゃ強盗が住んでて、やりたい放題だって。よその地域にもいるけど、ここはとりわけひどい」

「そうなんですか?」

「盗まれた物はこの辺境伯領で捜せば必ず見つかるって、まあ冗談だけど、そんな話をよそでも聞くぐらいにはひどい。辺境伯さまが代替わりして風向きが変わりそうではあるけどな」


 とにかく、と動きを止めてランマレスに顔を向ける。

 

「そんなわけだから、せめてここを出るときは誰かと一緒に行くといい。旅の目的なんてばらばらでいいからさ。同じ方向に行く人をつかまえるんだ。一人でいるよりは狙われにくい。それでも狙われたら……」


 目と口を大きく開けて掴みかかるしぐさをした男は、そっと囁くように告げた。


「おとなしく荷物を渡すんだ。無理に逆らって死んだら元も子もない」

「はい」

「町の中でも同じだぞ? 泥棒はどこにでもいる。金より命が大事だ。商人じゃないんだし、荷物が奪われても惜しむな」

「そうですね。お金より命が大事です」


 ランマレスは鞄の肩帯をぎゅっと握る。

 どうせ所持金なんてたかが知れている。天秤にかけたら命のほうが絶対に重い。

 そうは思うけれどやっぱり鞄を失うのは困る。死なずに、荷物も奪われない方法はないだろうか。

 もしものときは、と考える。

 あれだけでも手元に残れば、それでいい。

 行方知れずの双子の兄がわざわざ自分に送りつけてきた旅日記。兄の足跡を辿る唯一のしるべ。これだけは失いたくない。

 馬具師の男はどうにも心配なのか、視線だけで言い聞かせようとするかのように目を合わせて動かなくなった。迫力に気後れしつつランマレスは何度か頷く。


「よし」


 褒めるように男は笑った。

 すでに下着も脱いで真っ裸になっているため、見るともなく彼の裸身が目に入る。馬具の鞍作りというのはきっと力仕事なのだろう。薄暗い中でも逞しい体つきなのがわかった。


「じゃ、俺は寝るから起こさないでくれ。隣で寝るなら好きに潜りこんでいいから」


 そう言って寝台の掛け布をめくると、「あ、そうだ」と頼もしげな顔を振り向ける。


「名前を言ってなかったな。俺はファイト・アーレンス」

「ランマレス・イルマーです」

「一晩の友だな。よろしく。そしておやすみ」

「おやすみなさい。僕は食べてきます。よい夢を」


 ランマレスは立て掛けていた杖を持って廊下に出た。

 寝台を分けあうことには慣れている。兄のヴィッヘルクックとは一緒に眠っていたからだ。ただし裸ではなかった。だから旅の最初は服を脱いで泊まることに困惑したものだ。

 旅人の服は基本的に汚れている。安宿に泊まるような貧乏人なら当然、寝間着など持っていない。服を洗う機会もほとんどないので、裸で寝たほうが寝台を汚さない。

 職人宿でも一般の宿屋でもそういうしきたりなのだと諭された。職人宿で同室になった先輩たちに、懇懇と。

 裸ならば武器を忍ばせることもできないから、害意がないことの証にもなる。安心して眠るために裸を重視している客も少なくないという。

 もっとも、きれいな下着や寝間着があるならそれで寝てもいいそうで、ランマレスは洗った下着を常に持ち歩くことにした。裸で寝るのは解放感があって気持ちいい面もあるけれど、どうにも落ち着かなくて熟睡できなかったからだ。


「寝相がいい人だといいねぇ」

「あ、もうそれほんとに、それ」


 ゆったり頭上を飛ぶイドの言葉にうんうんと頷く。


「ランの寝相はいいよね。死んだようにぴくりとも動かない」

「そうなんだ」

「野宿するときのほうが寝相が悪いかも」

「へえ」

「よく寝返り打ってるよ。そういえば、ヴィッヘルクックと寝返りを打つのが同時で面白かったなぁ」

「ああ……」


 階段の手前でランマレスは立ち止まる。足元の暗がりに目を落とし、低い声でぼそりと呟いた。


「どうして放浪修行ヴァルツをやめたんだろ」

 

 イドの羽がゆらりと横に振れて、赤い瞳がほのかに黄金を帯びる。遠い火を打ち眺めるような眼差しになって、帽子の下の暗い顔を見つめる。

 ランマレスは息を深く吸った。とたんにゴホゴホと咳きこむ。


「う、埃っぽい」


 涙目になりながら足を前に動かした。



 

 厨房は土間だった。

 靴を履いたランマレスは片隅に場所を定めて背負い鞄を下ろし、自作の鍋を取り出す。

 鍋の製作は素材によって工房が異なる。真鍮製や銅製はもちろん、鉄製であっても錠前師は関わらない。鍋作りを専門にしている工房もあるので、彼らの仕事を奪わないためだ。

 けっして鍋を作る技術が錠前師にないわけではない。

 錠前作りが専門の錠前屋は、実際には錠前以外の鉄製品も手がける。専門の同職組合アムトがないもの、たとえば煙突の帽子とか、鉄格子とか、衣装や道具を入れる大箱とか小箱とかも作る。鍋を作るならそれらを応用すればいいだけの話だった。

 最初で最後、旅のお供となる鍋を自分で作ってみたいと親方に相談したところ、売り物にするわけじゃないからいいだろうと許可が出た。

 製作時間が足りなかったため、底につけた脚の長さが不揃いだ。置くと傾いてしまうのが難点だが、初めての鍋作り、それも急いで作ったにしてはまあまあじゃないかと満足していた。

 

 水筒に残っていたビールをすべて鍋に入れてから、水甕を見つけて覗きこんだ。二つあるうち片方に水がたっぷり入っていたので、変な匂いがしないか確かめてから鍋に移す。

 買ったばかりのライ麦を鞄からひとつかみ取って鍋に放りこみ、次いで小さな木箱を取り出した。中に入っているのは塩だ。ひとつまみ取って入れた鍋を炉の自在鉤に吊した。

 壁に掛かっている木の篦を手に取ってみる。

 自前の匙よりもこちらのほうが大きくて使いやすそうだ。濡れているし白っぽいものがついているのが気になるけれど、鼻を近づけたらなんとなく豆の香りに思えた。

 食台で鍋を囲んでいる人たちを横目でそっと窺う。蝋燭が燃える獣脂の匂いに混ざって届く香りが、木篦から香るものと同じだと感じる。柄杓を使って鍋から皿に移しているようだけれど、おそらく調理中にこの篦も使ったのに違いない。

 食べられるもので濡れているなら汚れてないってことだ、と結論づけて、木篦で鍋の中をかき回した。手も顔も熱気に当てられるが、錠前作りでも炎は身近なので慣れている。

 自炊をするための道具は宿に備えられているのが普通だった。こうした木篦も鍋も、木製の皿や、皿がわりの板も借りられる。

 だからといって当てにしすぎるのはよくない。他の人が使っているときは順番待ちだし、まともに使えるものがないときだってあるかもしれない。

 野宿するときにも使えるから持ち歩いたほうがいいよ、だけどあんまり重くならないように小さい物がいい、という助言を受けて旅立ちの前に用意したのが自作の鍋だ。

 正解だったなと、今のように借りられる調理器具が木篦ぐらいしかないときに実感する。

 

 どろどろに煮立ったところで鍋を下ろした。持ち手は熱いので、マントの裾を手に巻き付けて持つ。荷物がある場所まで慎重に運んで足元に置けば、案の定、傾いて中身がこぼれそうになった。どうにか縁のぎりぎりで止まってくれたので、ちょっとだけ勝った気分になる。

 椅子はすべて使用中だし、できれば人がいないところで食べたいから、土間だろうとかまわずに腰を下ろした。

 いつの間にやら鞄の上で寝そべっていたイドがわずかに顔をもたげる。眠そうだ。

 開けるよ、と囁いてから毛皮の垂れ蓋を持ち上げた。

 本日一プェニヒで買ったパンを取り出す。灰色に近いような濃い茶色をした、堅くて平べったいパンだ。片面に木の葉のような切れ込みが入っている。片手よりは大きく、両手にはわずかに足りない大きさだった。

 鞄の蓋を閉める。イドは変わらずひっついていた。口元は毛皮に埋もれているが、目はぱちりと開いている。

 指先に力を入れてパンを切れ込みから引きちぎると、ほろほろと細かい屑が粥の上に落ちた。ちぎった一切れを鍋に突っこみ、粥をすくって口に運ぶ。食べるのは粥だけだ。

 はふはふしながら麦の粒を噛み潰して胃に落とした。それを数回も繰り返せば堅いパンもふやけるので口に入れる。

 このパンは酸味があるけれど、噛めば噛むほどまろやかになることをランマレスは知っている。急いでいるときは手早く食べてしまうものの、今はゆっくりできるからしつこいくらいに噛んで飲み下した。

 作り方が簡単なので自炊となればいつも麦粥を作る。味は、特に好きでも嫌いでもなく、強いて言えば水だけで作るよりビールで作るほうが好きかな、という程度だ。肉とかチーズとかを入れれば美味しくなるけれど、金銭的にそんな余裕はない。

 旬の果実を入れてみるのもいいな、と思った。

 今の時季だとなにがあるだろう。苺とか? ううん、どうかな。あ、野草を試してみようかな。道端で手に入るし。


「このあとはなにするのぉ?」


 のんびり間延びした声が聞こえた。

 頭を持ち上げ、腹這いになったイドが足をゆらゆらと動かしている。靴が毛皮に何度も埋まるのをランマレスは横目で眺めた。

 イドの靴は爪先が細く長く尖っている。ランマレスが子供のころに流行した形で、良く言えば懐かしく、悪く言えば古くさい。出会ったときからずっとイドはこの靴だ。

 白く長い爪先が遠慮なく刺さり、たまに踵まで埋もれても鞄に変化はない。靴が当たる音もしないし、茶色い毛並みの一本たりとも乱れない。


「寝るだけだよ」


 すっかり見慣れてしまった奇妙な光景を視野に収めつつ小声で答える。

 どっと笑い声がした。

 横を向けば食台に集う人たちの背中や顔がはっきり見える。男性が多いが女性も数人いた。旅の伴だったり初対面だったり関係はいろいろだろうが、十人程度が楽しげに飲み食いしている。

 複数の話題が同時進行しているようで、「破けて尻が丸出しになった」とか「あっちの道は追い剥ぎが」とか話す声がランマレスの耳にも届く。

 客が自炊するようになっている宿では、厨房は談話室としても使われる。なんならここで眠りこけ、夜を明かしてしまう人もいた。

 旅人にとっては貴重な情報交換の場となるが、今のランマレスは参加する気がなかった。


「あしたはー?」

「昼間の……あの親子にもういちど会って話を聞く」

 

 声に出さずに返事をしてもイドに伝わるものはある。ただ限度があるらしく「口でしゃべって」とあるときイドに言われた。

 だからランマレスはぼそぼそとしゃべる。変な目で見られたくないから、なるべく人に聞かれないようにしてイドと話す。

 試しにもういちど食台を盗み見たら、怪訝そうな複数の視線とぶつかって息が止まった。

 彼らもびっくりしたのか素早く目をそらし、なにもなかったように大声で雑談を再開する。

 イドへの返事が聞こえていたのだろうか。独りで話す変人だと思われたかもしれない。

 恥ずかしくなって俯き、お尻を動かした。マントの中で腰に下げているメッサーが床をこする。

 食台に背を向けてしまえば声は届きにくいだろうし、帽子の鍔もあるから、しゃべっている口元が彼らに見えることはまずないだろう。


「えっと……あと一泊できるから、明後日までなら……できれば明日のうちに話がしたいなって」

「ヴィッヘルクックの話?」

「うん」

 

 ランマレスは職人宿を訪ねたときのことを思い返した。

 昼間、あの親子と別れてから買い物をして、それから職人宿に向かった。おかみさんが呼び出してくれた職人頭のヨーハン・ケスラーはヴィッヘルクックのことを憶えていた。働くことが決まったヴィッヘルクックを正式にここの兄弟団に加入させたのだという。

 職人頭というのはつまり職人兄弟団の長のことだから、当然ヴィッヘルクックのことも憶えていたのだ。

 ランマレスもヴィッヘルクックもすでに故郷で職人兄弟団に加入している。職人兄弟団はふつう一つしか入れないけれど、加入した町から遠く離れた場所でなら新たな加入も認められる。だから旅の途中の放浪職人ヴァンダーゲゼレが複数の兄弟団に入ることも特に問題がなく、むしろ働くなら必須だと加入させたらしい。

 ランマレスはケスラーに昼間の出来事を話した。

 ケスラーはすぐに思い当たったようで、「その人はヴィッヘルクック・イルマーが働いていた錠前屋のかみさんだろう」と言った。「今は彼女が親方だけどな」とも。

 ヴィッヘルクックを雇った親方は病死して、妻であるあの女性が工房の主人になったらしい。

 ケスラーは苦い顔でこうも言った。「ヴィッヘルクック・イルマーは契約期間を完了しないうちに失踪したんだ」と。彼女が怒るのは当然だ、と。

 兄弟団としても許せることではなく、ヴィッヘルクックを除名処分とし、近隣の町でも雇用しないようにと通達したらしい。もしも姿を現したら制裁を加える手筈になっているが、とんと噂を聞かない、とも教えてくれた。

 まさかヴィックがそんなことを、とランマレスは衝撃を受けたし、疑念も湧いたが、とりあえず事情は理解した。

 ただ、それだけでは説明のつかない「父ちゃんを返せ」という言葉の意味については、ケスラーの返事はあやふやだった。「だいたいわかるが、説明しろって言われても俺にはよくわからん」と謎の答えを返してくれたのだ。だったらあの親子に尋ねるしかない。

 

「んー、じゃあ……はい、注目」


 粥をパンですくった手を口の手前で止めた。ランマレスは緑がかった薄青い瞳に疑問を浮かべて、小さな友を見る。

 イドはいったん宙に飛び上がり、木の葉が落ちるようにゆっくりと鞄の上に座りなおした。赤いような黄色いような、神秘的な瞳でまっすぐランマレスを見据え、すべすべした清い声で告げる。


「もしもヴィッヘルクックが――」

 

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