2 寄り道を楽しみたいなら帽子を脱ぐことだ
帳場の奥にある階段は厨房の斜向かいに位置していた。
「靴を脱げ。二階は上靴だ」
「あ、えっと……はい」
厨房の出入口は広く、扉はついていない。管理人の居丈高な声が聞こえたのか、椅子に座って水筒を呷っている男が首を伸ばしてランマレスに視線を向けた。
ほかにも調理中らしき人たちが振り向き、わざわざ廊下に出てきた人もいる。帽子から靴までじろじろと、同じ宿に泊まるからにはどんな身分なのかが気になるのだろう。
遠慮のないそれらの視線より管理人の圧のほうが強い。
ランマレスは革靴を脱いだ。帽子に座るイドが足を引っ込めたので、視界が開ける。
穿いている脚衣は足裏まで包む類いのものだから上靴のかわりにもなる。布製の上靴も持っているけれど、取り出すのに手間取りそうだから今はやめておいた。
「それでもいい。外歩きの靴や裸足でうろつかなければいいんだ。杖も突くなよ。床が汚れる」
管理人は見下すような口調で言い放ち、狭い階段をギシギシと鳴らしながら上りだす。
ランマレスは杖と靴を両手にそれぞれ持ちながら後を追った。香ばしい匂いが充満しているので空きっ腹が落ち着かないが、一段を上がるごとに食事の匂いは薄まる。
「汚え足で寝台を使われたくない。意味はわかるな、
「心得ています」
「ならいい。たまにいるんだ、汚れた靴で階段を使うやつが。足が寒いだの履き替えが面倒だのと当たり前のことを言い訳にして……」
しわがれた声で繰り出される管理人のぼやきを聞きながら階段を上りきる。
埃っぽくて、腐りかけた古い木のような匂いがした。掃除がされていないのだろう。ランマレスの視線は暗い床に落ちた。
足裏の感触からすると床板が腐っているわけではないようだが、砂か小石か、なにかを踏んだ。これなら普通の靴で過ごしてもいいんじゃないだろうか、という思いを振り切って顔を上げる。
廊下の左右に二部屋ずつと、突き当たりにもう一部屋あるようだ。左右それぞれの部屋を区切る通路の奥には窓がある。今は右側から夕陽がさしこんでいるけれど、廊下の全体は照らさない。管理人が掲げる蝋燭の光は背中で遮られているから、暗がりに入るとずんぐりした影がいやに濃くなり、恐ろしげに見えた。
暗闇だから怖いのか、廊下の狭さが息苦しいのか、愛想の悪い管理人が苦手なだけか。
よくわからない不安を紛らわせようと周囲を見回せば、いちおう物の形は区別できた。目が探したのは錠前だ。どんな種類のものを使っているか、状態はどうか。気になったのだが、どうやら部屋の扉には錠前が取り付けられていないようだった。
なるほど、と思うだけで特に驚きはしない。ランマレスが知るかぎり、鍵のかかる客室は大部屋だけだ。
「ここだ」
階段から最も遠い突き当たりの部屋に通された。
扉の真向かいにある窓がまず目に入ってくる。生成り色の窓掛けが外から叩かれ揺れていて、戯れのように風が糞尿の匂いも運んできた。
窓掛けが外の明かりを通しているから、蝋燭がなくても廊下よりずっと明るい。おかげで床の隅に置いてある素朴な壺にも気がついた。排泄用だろう。
寝台は左手側で、扉からすぐの場所に枕がある。ごく普通の、寝台の横幅に合わせた細長い枕だ。
寝台の奥、寝台と壁の隙間に人の姿があった。荷物を床に置いて中身を整理しているようだ。
「よお、ひとり増えた」
呼びかけられた先客は小さく笑って頷いた。
横皺の刻まれた額がランマレスに向き直って告げる。
「寝台を使うときは裸足になれ。服も脱げ。
「はい」
「厨房は脇の小部屋に一日分の薪がある。今日はまだ残ってるはずだがな、使い切って追加で欲しけりゃ有料だ」
「わかりました」
「武器は預かる。規則だ」
「持っていません」
「財布と一緒にくくってただろう」
「これはメッサーです」
ランマレスは薄染めの青いマントを払って腰のあたりを見せた。財布の下にあるのは鞘に収めた長めの刃物だが、柄の先端がするりとまっすぐでなにも金具がついていない。
「んじゃ、荷物だ。預かってやる。知らないやつのそばに置いとくのは不安だろう?」
親切そうに口元を緩めながら、管理人は濁った目を背負い鞄に向けた。
イドが笑い声をたてる。「どろぼうする気だぁ」となぜか嬉しそうだ。ランマレスは笑みを浮かべて首を振った。
「いいえ、結構です」
「へっ、そうですかい」
管理人はあっさりと背を向け立ち去った。「貧乏旅の
「君、
先客の男が寝台ごしに背を伸ばす。声色は明るく、無精髭の顔に浮かぶ笑みも朗らかだったから、ランマレスもにこやかに返事をした。
「はい。修行中です」
「懐かしいな。俺も昔はやってたんだよ」
「そうなんですか!」
聞いた瞬間ランマレスは目を輝かせた。
男は長めの前髪を鬱陶しそうにかき上げて笑った。
「もしかして始めたばかり? 今は五月だろ。
「そうです。
「こんなところで会うとは思わなかったな。職人宿は?」
「それが……」
どう説明しようかと言葉を探して口ごもる。
「ないのか? 馬具師の宿ならあったけど……俺は馬の鞍を作ってるんだ。ええっと、君は……」
男の視線が上向きになった。
どこを見ているのか気づいたランマレスは、杖を壁に立て掛けて靴を床に寝かせ、帽子を頭から取る。鍔に座っていたイドが華麗に宙返りを披露したけれど、馬具師だという男は気づくことなく帽子だけを見ていた。
「錠前師ですよ」
そう告げて帽子をくるりと回転させた。
ランマレスの帽子は黒いフェルトで作られており、鍔は肩幅ほど広く、後ろ側が反り返っている。山は低く丸く膨らんでいて、鍔と山の境目に巻き付けられた茶色の飾り紐は、銀灰色の小さな錠前でつなぎとめられていた。
この帽子を身につけられるのは
とりわけ帽子は重要で、『
手工業の種類ごとに形が決められているため、知っている人なら帽子を見ただけで職業も見抜けるだろう。ランマレスも帽子の特徴をひととおり
仲間ならば初対面でも助けあうことになっているので、
「そうか。小さな町ならともかく、ここは……まあ、この町の強みは布だからな」
「職人宿がないんじゃ、働くのも厳しいかもなあ」
「えっと……錠前師専用の宿屋はないんですけど、職人宿はあったというか……鍛冶屋と合同になってるみたいで、なんというか……
まとめるとこういうことだよなあ、と記憶と照らし合わせながらランマレスは答えた。
職人宿は、仕事を求める職人や
地元の職人やよそから流れてきた職人にとっては働き先を紹介してくれる斡旋所であり、宿泊も数日間なら連泊できる。普通の宿屋は連泊お断りだから、宿替えの手間をなくして職場探しに専念するための専用宿ということだ。
支援が厚ければ宿泊も飲食も無料でさせてくれるし、もしも仕事に就けなかったら路銀まで提供してくれる。錠前師も馬具師もこうした手厚い贈り物を受け取れる職業だった。
ただし、目当ての職人宿が必ず町にあるわけではない。
職人は自分の手工業に応じて兄弟団に入る。血のつながりではなく掟によって結ばれた兄弟、
職人兄弟団は一つの職業につき複数あって、規模もそれぞれ異なる。ランマレスが所属する兄弟団がまだ進出していない町も当然あるわけで、そういうところではたとえ職人宿があっても手厚い援助をしてもらえないのだ。
この町がまさにそうだった。しかも鍛冶屋と合同で職人宿を運営しているという変則的な在り方だったのだ。
いまだ旅慣れないランマレスは、合同運営の職人宿があるのを初めて知った。そのため説明もたどたどしくなったが、馬具師の男はすぐに事情を理解したらしい。納得した顔つきで頷いた。
「そっか、錠前屋も鍛冶屋の範疇か」
「はい。おかみさんがその場にいた鍛冶職人を使いに出してくれて、錠前師の職人頭を呼んでくれたんです」
現れた壮年の逞しい男は、ランマレスを見るなり「見覚えのある顔だな」と険しい表情をした。
見知らぬ親子に罵倒されたことが頭をよぎり、ここでも冷たくされるのかと不安になったものの、職人頭は真面目に話を聞いてくれた。
「泊まるのは断られたのか?」
「僕が入ってる兄弟団ではないので……お金を払えば泊まっていいとは言われたんですけど、断りました」
そうか、と男は喉の奥で笑った。
「鍛冶屋の宿じゃ、錠前師は居心地が悪いか」
「そりゃあ、まあ、肩身は狭いです」
ランマレスは苦笑する。
べつに仲は悪くないけれど、とても寛げる気はしなかった。めったに会わない遠縁の集まりに一人で放りこまれたような、あるいは兄や姉が結婚して、新たに縁続きになった人たちから愛想よく値踏みされたときのような、そこはかとない緊張感に襲われてしまったのだ。
「でもいろいろ話は聞けたので、充分ですよ」
「働けそうなのか?」
「いいえ。ここには錠前屋が二つしかなくて、どちらも職人の募集はしてないそうです」
「それは残念だったな。じゃあ、あした出発か」
「いいえ。ちょっと用事があるので」
「用事? へえ……だったら逆によかったかもな、錠前屋宿がなくて。もしあったら、歓迎の宴に、職場の斡旋もしくは却下、宿と食事と路銀の提供、最後は職人総出のお見送り。すべて決められてる。私用のためにふらふらする暇は、たぶんないな」
「ああ、なるほど……」
「寄り道を楽しみたいなら帽子を脱ぐことだ。俺みたいに」
男はおどけた様子で髪の毛をかき乱した。短い金髪がぼさぼさになって、一部は逆立っている。
「
「そうなんですか」
「町から町へ、親方から親方へ、
ことさら明るく言う男に対し、ランマレスは神妙にかしこまって話を聞く。返す言葉は出てこなかった。
「今から
「そうなんですか……」
沈んだ声で相槌を打つと、男は慌てた様子で言葉を継いだ。
「君はまだ若い。どう転ぶかわからないよ。
「そうですね……まあ、今は独立も結婚もあまり切実じゃないというか……」
本音をはっきり口に出すのは遠慮した。職人が
徒弟から職人になるのは数年間の修行を終えればいいだけ、なのだけれど、職人から親方になるためには条件がいくつもある。そのなかで最大の壁は、親方の人数制限という自分の力ではどうにもできない掟だった。
規模の大きいところでも親方の定員は三十人ほどらしい。本人が亡くなるか隠居を決めるかしないと親方の席は空かない。どこも満席状態で、親方になれないまま生涯を終える職人がざらにいる。
その救済策として生まれた制度が
職人としての技術を磨くための修行の旅。行き先は自由。掟を守り、見知らぬ町の工房を遍歴し、誠実に働きながら定められた期間を歩きまわること。開始の条件は徒弟卒業から間もないという一点のみ。
目の前の馬具師は
職人の雇用期間は短くて一日、長くても数年なので、そのつど雇い主を探さないといけない。仕事を求めて町を渡り歩く流れ職人は、修行のために旅をする
励ましたいけれど、どんな言葉がいいのかわからない。
ランマレスは「親方になりたい」だとか「独立して自分の工房を持ちたい」だとかは考えたことがなかった。だから「流れ職人っていうのもいいですね」というのが本音なのだけれど、その言葉をこの人はどう受け取るだろう。
迷った末にほんの少しの嘘を加えることにした。
「いずれは親方になりたいですけど、でも今はまだ……旅そのものが楽しくて……」
「そうか、
不意に胸を打たれて、ランマレスは精悍な笑顔を見つめる。ふわふわと漂っていた霧がぎゅっと包まれて形を得た気がした。
「楽しいのはいいことだ。うん、それでいいと思うよ。……さて」
馬具師の男は寝台を軽く叩いて立ち上がり、だしぬけに服を脱ぎ始めた。
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