1 放浪修行をしている錠前師です
「
大声で呼ばれた名前にぴしりと額を叩かれた。
直後になにかが腕にぶつかってくる。角張った石ころが落ちるのを見ながら振り返り、ランマレスは声のあるじに視線を向けた。
「うそつき! どろぼう!」
六歳か七歳ぐらいだろうか。青い瞳をぎらぎらと光らせた少年が握り拳で睨みつけている相手は、この自分だ。
「父ちゃんを返せ! ひとでなし!」
「いや、ちょっと待って」
鍔広の黒い帽子の下でランマレスはひくりと笑う。なんだなんだと注目の的になるのを感じながら左足を後ろに引いた。体を斜めにして少年と向き合い、右手に持つ杖をさりげなく体の前に立てる。
「どろぼう! ひとでなし!」
全身で怒鳴った少年はさっとしゃがみ、足元の土をひっつかんで投げ飛ばしてきた。
慌てて腕を持ち上げると、壁となったマントに土がぶつかってバラバラと落ちる。それで終わりではなく、ひっきりなしに小石混じりの土が飛んできた。
「待って待って、違うから、僕は」
「ハンス!」
人混みから甲高い声が上がった。
少年はぴたりと攻撃をやめる。機敏に駆け寄ってくる女性を振り返って「母ちゃん」と呼び、土まみれの人差し指をランマレスに向けた。いらいらした様子で何度も上下に振り、声を飛ばす。
「ヴィッヘルクックだ。戻ってきたんだ」
女性は控えめな刺繍が入った飾り布で頭を覆っているが、少年とよく似た暗めの金髪を隠しきれていない。髪の色だけではなく、面差しも似通っていた。瞳の色も同じだし、特に上向きの鼻がそっくりだ。
母親でも姉でも通るだろう。二十歳ぐらいだろうか、とランマレスは女性を見る。自分よりいくつか年上に思えた。
庇うように少年の肩を抱き寄せた若い母親は、敵意に満ちた目をランマレスに向けた。
ぶつけられる眼差しの強さにたじろいで思わず視線をそらしたものの、さほど広くない道を見渡せばあちこちで別の視線とかち合ってしまう。予想より見物人が多いことに気づいて、なおさらランマレスはまごついた。
好奇な視線から逃げるために足元へ目を落とし、ひとつ息を吐いてから顔を上げる。
「あの、違いますよ」
「どうして戻ったの?」
僕はヴィッヘルクックじゃありません。そう言おうとしたランマレスの口は中途半端に開いたまま固まる。
「契約を破ったでしょ? 罰を受けに来たの?」
「え……」
「誰もあなたを雇わないから。すぐに消えて」
言い終わると女性は冷たく顔をそむけ、子供の肩を押した。歩き出した少年が振り返って唾を吐く。母親にまた肩を押され、しぶしぶといった様子で雑踏に紛れていった。
荷を担いだ商人が射殺すような目つきでランマレスを追い越す。ほかにもちらほらと冷ややかな視線が向けられている。事情はわからずとも「契約を破った」と聞いてすっかり軽蔑したのだろう。商業の世界でも手工業の世界でも、契約を破る人間は信用に値しない。
居たたまれなくなって俯いた。帽子の鍔で顔を隠すようにして、親子が消えた方向とは反対に向かって歩き出す。遠回りになるかもしれないが、市場が開かれている中央広場にはどの道からでも行けるはずだ。
「痕跡ありまくりぃ」
すべすべした声がランマレスの耳を打つ。目を転じると、杖を上から握りこんでいる右手の甲に、小さな生き物が座ったところだった。
姿は人に似ているが、大きさは雀と同じくらいでランマレスの掌ともあまり変わらない。色白の幼い顔にいたずらっぽそうな笑みを湛え、林檎色の瞳をきらきらと輝かせている。揺れる髪の毛は真っ白で、衣服も靴もすべて白いのに、背中に生える一対の羽だけは真っ黒だった。
「いやいやいや、おかしいよ。日記と違う」
足を止めずにぼそぼそと呟きながら、背負っていた鞄を体の前に持ってきて中身をあさる。
取り出したのは掌よりひとまわり大きい手帖だ。紙数が多くて厚みがある。固い表紙は黄土色の豚革で装丁され、四辺と中央には格子模様が空押しされていた。
目当ての箇所を開いたランマレスは、「ほら」と声を上擦らせる。
「なにもなかったって書いてあるよ。ヴィックはここをすぐ出てる」
この町に関する記述はわずか数行。ヴィッヘルクックは泊まることなく次の町を目指した。それを承知で自分も来たのだ。
「じゃあ人違いかもねぇ」
「そんなわけないだろ。よくある名前でもないし、俺と間違えるってことはそっくりってことで」
「それで? 予定どおりランもすぐ出るの?」
問われて、薄青い双眸が翳る。
手帖をしまい、黒色の帽子を脱いで小脇に挟んだ。波打つ金髪に指を突っこんで頭皮を強く揉む。痒いからではなく途方に
「父ちゃんを返せってどういうことか、すごく気になるだろ。ヴィックがなにかやらかしてるなら、双子の弟として知らんぷりはできないし、それになにか手がかりがあるかも」
「言うと思ったぁ。イドはなんだっていいんだけどね。日記を追及するのも、しないのも」
人の言葉を話せど人ではないイドは、ランマレスの手を椅子にしたまま背伸びをした。両手を上げて羽をひろげ、小さな口であくびをする。甘えるような細い声を洩らしながら手を下ろすと、ふん、と鼻から息を吐いて足をぶらぶらと揺らした。すっきりした顔をしている。
ランマレスは思わず頬を緩め、すぐに頭を切り替えた。引き締まった顎を持ち上げて、考え深げな眼差しを前へと振り向ける。
町にとどまるなら、食糧調達のほかに宿探しも必要だ。できればお金も稼ぎたいけれど、できるだろうか。
今日は週に一度の市が立つ日だというのは到着前に聞いていた。同じように町の外から商人が集まってきていて、客も押し寄せているのだろう。人通りが多くてどこも賑やかだ。
物売りの声が飛び交い、楽器の音色が聞こえてくるほうへと進む。
イドがなにかに興味を引かれたように振り返ったが、ランマレスは所持金と欲しいものとで頭をいっぱいにしていて振り向くことはなかった。
夕べの鐘が鳴っている。
商人も職人も仕事を終わりにする時間だ。ランマレスは視線を巡らせながら通りを歩いた。教会の尖塔に夕陽が当たり、空では薄い雲が流れている。
あと三時間ほどで二回目の夕べの鐘が鳴るだろう。同時に市門が閉じて、門の内側は夜警の時間になる。それまでに泊まる場所を決めなければいけない。
すでにいくつか宿を確認しているけれど、最も安い宿だけは場所を聞いただけだ。手持ちの塩が残り少ないことを急に思い出して市場に逆戻りしたせいだった。
行ったり来たり立ち止まったり、うろつきながらどうにか見つけた宿は通りの一角にひっそりと佇んでいた。
隣には倉庫らしき建物があり、狭間の細道に目を向ければ突き当たりに屋根と仕切り壁だけの小屋が見える。藁が敷いてあるようだから、この宿の厩だろうと見当がついた。
黒ずんだ扉の横に馬の絵の旗が掲げられているのをもういちど確認し、ここで間違いないと自信を持って中に踏みこむ。
「すみませーん」
開いている窓から夕陽は入らず、薄暗くて物が見えにくい。狭い帳場だというのはわかるし、誰もいないということもわかる。奥では人の声や物音がするから、待っていれば誰か出てきてくれるはずだ。
周囲の様子をざっと確認しつつ何度か呼び続けていると、受付台の横の扉が音をたてて開いた。現れたのは額に横皺のある気難しそうな男だ。手燭を机に置いて濁った目をランマレスに向けると、薄い唇をめくるようにして笑みを浮かべた。
「珍しいな。その恰好は知ってるぜ。貧乏旅の
ランマレスは螺旋状に捻じ曲がった杖をトン、と床に軽く打ちつけ、にこりと笑みを返した。
「
「床でもよければ何名さまでも泊まれますぜ」
「かまいません。食事はできますか」
「うちは自炊ですねえ。ビールなら売ってるけどな。食堂付きの宿がいいならここじゃないぜ」
「ほかの宿はもう見てきました。床でもいいので、」
「前払いだぜ、
言葉を遮られたランマレスは一瞬黙ってから「はい」と微笑んだ。
客なのに下男呼びかあ、とは思うけれど仕方がない。こういう蔑みはどこに行ってもついてまわるのだろう。
どれだけ腕がよくても職人は侮られやすい。
手工業者は三つの階級に分かれていて、上から親方、職人、徒弟となるが、親方と職人以下では立場が大きく違う。
徒弟は親方のもとで奉公修行する見習いであり、年季が明ければ職人になれる。職人になってからようやく稼いでいけるわけだけれど、親方に雇われることが大前提であって、職人は親方に尽くすのが基本だ。
仕事場にもなる自分の家を所有して結婚をすることが親方の義務であり権利でもあるから、職人や徒弟はこれらを禁じられている。
そのため「職人とは親方にこき使われている下男だ」と揶揄する声も多いのだ。
イドがランマレスからふわりと飛び立った。「クネヒト、クネヒト、って言うけどさぁ」と歌うように言いながら移動する。
嘲りを隠しもしない男の眼前でイドは腰に手を当て少し屈み、「この人だってクネヒトだよぉ。宿の持ち主に雇われてここを管理してるだけだもん」とじろじろ観察しながら告げた。目の前のイドに男が気づいた様子はまったくない。
それは一般的な
イドの羽は独特な見た目をしていて、鳥の羽でもないし虫の羽とも違う。なにに似ているかといえば麦の穂が近い。ただし普通の麦ではなく影のように真っ黒な麦だ。
奇妙な黒い羽はうねるように動き、巻き起こった風はランマレスの髪の毛だけを揺らした。毛先が目に刺さる。痛みに瞼を閉じて頭を振ったら、管理人の男が不審そうな顔をした。
「払えないのか?」
「いえ、払います、大丈夫です。いくらですか」
慌てて腰の革帯にくくりつけている財布に手を伸ばす。
財布は袋ではなく小さな鞄で、お金以外にもこまごました物を入れていた。お金が一枚もないときには小物入れとしか呼べなくなるが、今はまだ財布だ。
管理人が受付台に片肘をついて横柄に答える。
「四プェニヒ。馬も休ませるなら一プェニヒ追加だ。ま、どうせ徒歩だろうがな」
男がしゃべっている最中にイドが体の向きを変えた。白い衣の裾がふんわり翻って波打つ。してやったりという顔でランマレスの頬をかすめながら浮上し、帽子の前鍔に座った。
目の前でぶらんぶらんと揺れる小さな白い靴に溜息で抗議を送ると、管理人が「へっ」と嘲笑う。
「足りないのか? だったら路上で寝るんだな。外で寝るのなんざ慣れてるだろ?」
「え、夜に外にいるのはだめですよね」
「かまわないさ。犯罪者は夜に出歩くと決まってる。旅人は特に疑われるから、見つけてもらうのも簡単だ。そうすりゃ屋根のあるところで寝かせてもらえるぜ」
「牢屋のことですよね……? えっと、ここに泊まります。あ、馬はいません」
「よそのプェニヒ硬貨じゃねえだろうな?」
「両替はしてあります。払えます」
「蝋燭は使うか?」
「あ、いえ。使いません」
手拭いやら櫛やらをかき分けて指先ほどの小さい硬貨を探り当てた。薄くて軽い。銀とほかの金属との合金貨幣だ。中央が窪んでいて、鳥と菱形の模様がぼんやりと打ち出されている。市門に翻っていた旗の紋章と同じ図柄だ。
ここは独自のプェニヒ硬貨を鋳造する権利を持つ都市だった。利益になるからこその鋳造権なので、よそで発行されたプェニヒ硬貨は使えない。
一枚、二枚、と掌に取り出していき、ほっと吐息をこぼす。
よかった。寝床代を払ってもまだ五プェニヒが残る。つまりあと一泊できる。余りの一プェニヒはちょうどパン一個分だから、まあ、たぶんどうにかなる。
「名前」
支払いが終わると管理人は帳面を取り出して言った。
差し出された羽根軸に人差し指と中指の腹をつけ、親指を添えて持つ。文字を書くのは苦手だけれど、子供のころに教わったペンの持ち方はちゃんと身についている。
インク壺につけながら帳面を確認した。ほかの客の名前が並んでいるが、出身地などは書かれていない。それに倣って空いている場所に自分の名前を書きこんでいく。上手ではないけれど、ゆっくり丁寧に記した。
「あの、ここに……僕と同じ帽子の人が泊まったことはありますか? ちょうど一年前ぐらいに。顔も僕と似てるんですけど……」
帳面を引き寄せて内容を確認する男の目が、煩わしそうに帳面から離れた。じっとランマレスの顔を見つめ、片眉を上げる。
「いや? おぼえがないな。似たような恰好のやつなら何度か泊めたけど、帽子の形はそれと違ってた気がする」
「そうですか……あの、その帳面に名前はありませんか。ヴィッヘルクック・イルマーっていう」
「めんどくせえな」
男は乱暴に帳面を閉じる。溜息とともに手燭を持ち上げて顎を振った。
「部屋まで案内してやるからついてきな」
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