23 不気味なやつだな

 薄闇の部屋でランマレスは枕元に目を留めた。掌より小さくて丸い光がくっきりと見えたからだ。


「イド?」

 

 返事のように光は左右に揺れ、丸い形から姿を変える。大きさは雀ほどで、背中の羽以外は真っ白という、ランマレスが見慣れた姿だ。

 膝を抱えてランマレスを見る瞳は赤みを帯びた金色にきらめき、表情は珍しく遠慮がちだった。黒い麦の穂のような羽もしなだれてしまっている。


「なんで恥ずかしそうにしてるの」

「だってぇ……」


 もじもじしながらイドが答えた。


「ちょっと出しゃばりすぎたかなぁって……」

「イドでもそんなふうに思うことあるんだ」

「イドはイドのために反省してるの。これはランの旅だからランに任せるのが正解だったんだ」

「イドもいっしょに旅してるだろ」


 ランマレスは寝台に腰掛けて笑った。イドを慰める日が来るなど思いもしなかった。

 イドは「うーん」と唇を尖らせる。瞳の色が赤みを増していき、普段のイドに落ち着こうとしているようだった。

 

「イドって大きくもなれるんだね」

「そうみたいだねぇ」


 ふっくりした幼い頬に誇らしげな笑みがほんのり漂う。


「反省点はあるけど、楽しかったらいっかぁ」

「楽しかったんだ? こっちはむずむずしてた」

「動けなかったから?」

「会話が勝手に進むから」

「しゃべりたそうにしてたもんねぇ」

「炉辺に人がいたの? 見えなかったんだけど」

「それはぁ」


 イドが膝をぎゅっと抱きこんで頭を傾ける。髪の毛がさらさらと揺れて顔にかかった。しおらしかった表情から一転、悪事を企むような笑みがひろがる。


「肉体がないものたちで、ランの目が映すのはイドだけでいいの」

「ちょっと意味がわかんないな」


 反応に困ってランマレスが半笑いになると、「あはは!」と軽やかにイドは笑い、背中の黒い麦束をはためかせて枕から飛び立った。動きを追いかけてランマレスは仰のく。


「わざとランにだけ見えないようにしたわけじゃないんだよぉ。イドも初めてのことをやったし、何人も同時に揺らぎを合わせるのは大変だし、もう手いっぱいだっただけぇ」

「揺らぎ? 合わせる?」

「ああ……んっとぉ……」


 イドは思案する顔になって、逆立ちするようにくるりと回った。くるりくるりと回りながら、「えっとぉ、どう言おうかなぁ」と呟きをぽろぽろこぼす。

 枝分かれしている羽がイドの体にまとわりつき、ばらつき打ちつけあって重なる。絡まらないのかなとランマレスが興味深く見守っていると、羽はふわりとひろがって止まった。


「ランにわかるようにたとえるとぉ」


 腰に手を当てたイドが真面目そうな顔をする。


「妖精でも悪魔でも亡霊でも名前とか種類とかはなんだっていいんだけど、イドみたいに肉体を持たない存在ってのがこの世界にはいっぱいるんだよね。肉体のある人間より多いと思う。それをね、イドはぜんぶひっくるめて、生きてるって言う」


「うん? 体がなくても、生きてる?」

 

「イドはそう見てるってこと。生きてる、ていうことに肉体のあるなしは関係ない。幽霊だって生きてる。生身の人間から幽霊へと変化しましたってだけ。で、生きてるものはみんなそれぞれ錠前を持ってるんだと想像して。形のない、さわれない錠前だよぉ」

 

「えっと、……はい」


「その錠前とぴったり合う鍵を持ってるなら、錠前を開けて相手を見ることができるの。だけどぉ、肉体のある人間は、肉体のある存在を見るための鍵しか持ってないってことが多い。ランもだよ。イドがイド専用の鍵を渡したから、イドのことが見えてるってだけ」


「いつのまに受け取ってたんだろ」

 

「それはもちろんあのときだけど……だから、さっきの人を見るためにはそれに合った鍵を持ってないといけなくて、でもこの家の人たちは誰も持ってなかったから、イドが用意してあげたの。だけどそれって疲れるから、ランにはあげなくていっかって」

 

「じゃあ、その鍵を渡したってのが、あの急に燃えて消えた火のこと……?」

 

「あれは違うよぉ。あれこそあの人の言葉だよ。炎に棲むことにしたらしいからね。イドがやったのは、ちょっとしたお手伝い。みんなも気がつくようにって」

 

「へえ……? あの、それって」

 

「イドの魔法は長続きしない。だからあの三人があの人を見ることは、自力で鍵を手にしないかぎりは、もうできないと思うよぉ」


「ふーん……」


 炉辺の人の正体をはっきりさせようとしたら遮られてしまった。意図的なのか偶然なのかわからないが、ランマレスは再び質問する気になれず、いったん口を閉じる。


「つまりイドは合鍵を作ったってこと?」

「そだねぇ」

「三人分だけ」

「そのとおりぃ」

「で、その合鍵はもう壊れたと」


 うんうん、とイドは大きく頷いて、いたずらっぽく笑みを含んだ。


「見たかった?」


 そう訊かれるとランマレスは頭をひねってしまう。

 見たかったのだろうか。それとも、自分だけ見えていないことがいやだったのだろうか。

 心の内側を探れば、答えはすぐに見つかった。

 さっきは、炉辺にいた人の正体を知っておいたほうがいい気がしたから質問しようとした。遮られてあっさり諦めたのは、本当に知りたいわけではなかったからだ。

 むしろ知りたくない。

 重要なのはヴィッヘルクックがここでどう過ごし、どんな事情で出奔したのかを知ることだ。それはもう見た。聞いた。ならばこれ以上の深入りは気分が塞ぐだけで、なんの益もない。

 そういう本心をイドはとうに見抜いているのかもしれない。

 頭で考えていることはランマレスがちゃんと声に出さないと、なんとなくしかわからない、というようなことをイドは過去に言っていたけれど、逆に言葉にできない気持ちや自覚していない感覚は口にするまでもなくイドに伝わる。そういうことなのかもしれないと、ふと思った。


「見えなくていいや。怖いから」

「そぉ?」


 林檎色の瞳が見透かすように細くなった。


「うん。あのさ、ヴィックがここを出る様子が幻みたいにして見えたけど、あれは、記憶? エルゼさんの」

「あ、見えた? ランにも見えたんだぁ? あれはエルゼがあのとき思い浮かべてたことだよ」

「じゃあ、やっぱり炉辺の人は見なくてよかったよ」


 苦しむあの姿が、さらに変わり果てた姿であの場にいたのだとしたら、見えなくてよかった。恐ろしいというのもあるけれど、本来なら顔すら知ることのなかった人だ。悲しい姿ばかり見てしまうのは失礼な気がするから、やっぱり見なくてよかったのだ。

 

「だけど呪いの話は気になるから教えて。その、炉辺の人っていなくなったわけじゃないんだよね?」

「いるよぉ」

「その人がいるからエルゼさんは治らないってこと?」

「そだねぇ」

「命を取られるわけじゃない、んだよね?」

「エルゼ本人は、そうだねぇ」

「え、やな言い方。ほかにも悪さをする?」

「かもしれないねぇ」

「防ぐことは? やめてくださいってお願いしたら聞いてくれる感じ?」

「どうだろねぇ。あれは感情で動いてるから、人間だったときみたいな考える力はないから、難しいかもねぇ」

「人間だった……? 肉体がないだけじゃ……、えっと、いたずら好きな妖精になった、とか?」

「どっちかって言ったら悪魔だねぇ」

「あ、悪魔なの? それじゃ、追い払ったりやっつけたりしないと」

「やっつける?」


 イドはきょとんとした顔でランマレスを見た。


「やっつけるっていうか、いなくなってもらうんだ。イドならできるんじゃないの?」

「できたとして、なんでそんなことするの?」

「え、なんで?」


 今度はランマレスがきょとんとした。そしてハッとする。


「あ、あれか。悪意には悪意が返る、だっけ。それはわからなくもないけど、でもほら、ハンスくんにまで被害が出たらかわいそうだなって」

「あの子はだいじょうぶだよ。かえってあの悪魔が護る」

「護る? 悪魔が?」

「悪魔なりのやり方で」

「それなんか怖い」

「とにかく戦わないよ。悪魔が消えなくちゃいけないなんてイドは思わない」

「ええ……? 薬屋さんのときと反応が違うね」

「あれはイドが気に入らなかったからぁ」

「そこなの? まあ、そうか……」


 戸惑いつつも話を閉じる。

 いまいち呑みこめない部分もあるけれど、気まぐれなイドがこれ以上なにもしないというのなら自分にもできることはない。この件はこのままで旅立つことになるのだろう。


「あ、それとヴィッ――」


 出入口に垂れている麻布が動いた。暗がりの中でドリースがのっそりと立ち止まり、陰鬱な眼差しをランマレスに向ける。


「あ、えっと」

「おまえって……」


 いつ階段を上ってきたのだろうか。ひょっとしたらイドとの会話を聞かれていたかもしれない。ドリースにイドの声は聞こえないはずだから、つまり一人でしゃべっていたことになる。なにを言われるのかと、ランマレスはどぎまぎしながら次の言葉を待った。

 

「不気味なやつだな」


 低く静かな声でドリースはそれだけを言った。心なしか視線が冷たい。ランマレスは乾いた声で笑った。


「は、ははは……あの、エルゼさんは……?」

「腹痛は治まったらしい。部屋まで連れてった」

「そうですか」

「あの蝋燭で治るのか?」

「え?」


 真剣な面持ちで見つめられ、ランマレスは返事に詰まる。

 にわかにチクチクとした痛みが頭部を襲った。視線を上げると、逆さまに覗きこんでにやりとするイドと目が合う。いたずら好きな相棒が人の頭で遊びだしたのだとランマレスは察した。


「その、一時的なものだと思います。痛みは……繰り返すかと」

「なぜわかる」

「それは……そう、言っていたので。あの蝋燭、を、くれた謎の人物が」

「謎の人物?」

「えっと、妖精だったかも?」


 地味に鋭い頭皮の痛みが思考を邪魔して適当な嘘も浮かばない。ランマレスはひたすら笑ってやり過ごそうと懸命に口角を上げた。

 イドはくるんくるんの髪の毛を握れるだけ握っては引っ張って緩める。引っ張るたびに二本の角が生えたように髪が逆立つのだが、ランマレスは痛みを感じるだけで自分の頭がどうなっているのかわからなかったし、ドリースも特に反応を示さない。

 

「死ぬのか?」


 ドリースの声には緊張が含まれていた。ランマレスは慌てて口を開く。

 

「いえ、たぶん大丈夫……いや、でも痛みは繰り返すかも。でもあの、きっと大丈夫です。たぶん」


 しばし沈黙したのち、「そうか」とドリースは短く告げて、やっと出入口から部屋の中へと入ってきた。靴を脱ぎながらさらに話しかけてくる。


「明日は日曜だ。エルゼは様子を見ながらいつもどおりに過ごすと言ってる。だから、そうする」

「はい」

「兄弟団のほうでも集まる」

「はい。聞いてます」

「ならいい」


 ドリースは裸足になると、ランマレスの反対側に回りこんで寝台に上がった。

 枕に預けられた横顔に「おやすみなさい」とランマレスは声をかける。ドリースはなにかを言いたげに眉根を寄せたが、なにも言わずに目を閉じた。

 ヴィッヘルクックは頭がおかしくなっていた、とエルゼが言っていたけれど、無事なのだろうか。

 疑問を喉の奥に押しこんで立ち上がる。少なくとも旅日記はこの町を出てからも続いているから、その間の無事は間違いないはずだ。

 頭がチクチクつんつん、気が散る。

 どうせなら毛先の絡まりをほどいてくれと心の中で呼びかけてみても、断続的な痛みに変化はない。いいかげん煩わしくて手で払ってみたら、案外に離れていった。

 窓辺に腰を落ち着けたイドはご機嫌な様子で、やおら歌い始めた。雨粒が葉っぱを滑り落ちるような調べは耳に優しい。だが、どこの言葉なのか。ランマレスの知らない歌だ。

 月光を集めたように艶やかな髪の毛が右に左に揺れ、清らかな純白の衣が幻妙な光を纏う。両手をゆらゆらと揺らすたびに袖の縁飾りが金色の光沢を放った。対照的に艶のない真っ黒な羽はまるで、悪魔の呪い。歌声は清純を装った悪魔の囁き。

 ぞくりと寒気立ったランマレスは視線を外し、財布から櫛と鏡を取り出す。

 掌より少し小さな、牛の角で作られている櫛と、その櫛よりも小さくて薄紅色の袋に入っている手鏡。どちらも姉からの贈り物だ。

 身嗜みがよければ相応の扱いをしてもらえる、というのが姉の助言だった。「ちゃんと整えればあんたは天使なんだから見栄えよくしなさい」とも言っていた。

 天使と言われて喜ぶべきかどうかは決めあぐねているが、見かけで人の態度が変わるというのは一理ある。

 旅に出る前は髪の絡まりを気にしたことがなかった。月に一度は散髪していたからだ。親方の指示でもあったし、短いほうが視界もよくて作業に集中できた。

 ただ徒弟修行に入る前はそこそこの長さがあったので、絡まりやすいことを姉はよく知っていたのだ。

 幼いころ自分たち双子の面倒をいちばん見てくれたのがこの五歳上の姉だ。姉も当時は子供だったはずだけれど、ほんの五歳の差は大きくて、ほとんど母親がわりだったように思う。

 再会はまだ遠いし、お互いがどんなふうに変わっているのかも想像できないけれど、記憶の中の姉は姉のままランマレスに語りかけてくる。一騒動あったときでも、人ならざる相棒の底知れなさに薄ら寒くなった直後でも、なにも変わらず。

 記憶ってふしぎだなと感慨に浸りながら髪をほぐし終える。ドリースの隣に潜りこんで目を閉じると、おやすみ、と姉の声が聞こえた気がした。





 

 歌が途切れる。

 安らかな寝息をたてるランマレスを林檎色の瞳が窺った。


「見なくていいんだよ」


 唇の端が吊り上がり、こぼれた声は楽しげな響きを伴う。


「思い出しちゃうかもしれないからね、ヴィッヘルクックみたいに」


 だって、と声は続く。


「忘れてるから旅を楽しめるんでしょ。歩けるはずの足を封じられて生きて、ただの一度も外を歩かずに死んだなんて、その理由がイドにあることなんて、思い出したら楽しくないでしょ」


 林檎の花のごとき掌が虚空に伸びる。

 純白の光が細い螺旋を描いてイドの手や腕に絡まり、蔓草の形を取って可憐な花を開き、天井を舐めるほどの樹木となり、どす黒い種を落として、種から黒光りのする蔓草を生やす。光と闇と、二つを絡めて遊びながらイドは独り言を紡ぐ。


「この姿だって、警戒されずに興味を引くめだからね。元の姿なんて……でもねぇ、思い出す必要はないけど、気づいては、ほしいんだよねぇ」


 ごめんね、と真白き頭がわずかに傾く。

 

「あんなに怯えるなんて。忘れてても記憶は残ってるから、突っつきすぎたね。忘れたまま旅を楽しんでよ、ランマレス・イルマー」


 絡まる蔓草が消える。花も樹木も種も、跡形もなく消える。空虚な無音を挟んで、深い溜息が夜に触れた。


「ヴィッヘルクックもそれでよかったのに……あの薬屋があれをエルゼに売りつけてなければ、そのままだったのに……また兄弟で訣別するの、ヴィック……、スア。アーロ・スアロトゥジュラン・スア」


 聞く者のいない呼びかけは闇に溶けこみ、余韻も残らなかった。

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ヴァルツ ~放浪の錠前師とワケあり妖精のみちみち~ 晴見 紘衣 @ha-rumi

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