第10話
そこは苔と大樹の世界だった。
無意識に大きく呼吸すると、胸いっぱいに緑の香りが入り込んできた。
深く、みずみずしい、芳醇な香り。
木々の緑は濃く、薄く、陽光を映し遮り様々な色を見せている。
人が介在しない自然というものはこれほどまでの雄々しく、これほどまでに美しいのかと思う。
誰にも整えられていないということは、誰の美意識にも染まっていないということ。
それはそこで生まれて、そこで生きる生命そのもののかたち。
生命そのものの息吹。
生きている。
ただ、生きている。
それだけでいいのだと、全身で表現している。
純粋な命の輝きに圧倒される。
いつか何かの映画で見たような、どこか人間の世界とは違う虫が飛び交い、遠くに別の命の気配も感じる。
この世界にきて、まだ野生動物には遭遇していないけれど、もしかすると、虫も動物も、人間が存在しないという環境下で、違う進化をしているのかもしれない。
似ているようでどこかが違う。
そんな世界の、大地と植物の王国。
その王国の中の玉座であろう場所に、それは在った。
苔むした巨大な岩は、いくつもの木の根が絡まり、大木の中に埋まっているようにも、大木に囲まれ、守られているようにも見える。
こちらの世界のものになる前は分からなかったけれど、今はそこかしこに精霊がいるのを感じる。
やはりまだ、積極的には関わってこない。
ただ、遠巻きにこちらをうかがっている。
「やれ、珍しいこともあるものだ」
そんな不干渉の檻を越えて深みのある声が響いた。
さわさわと大岩の苔が風もないのに動き始め、小さな苔の葉はゆらゆらと揺れながら、葉の一つ一つに宿る光の粒子を、岩の真ん中へ集めている。
集められたそれはやがて小さなおじいさんのような姿になった。
しわに埋没した目がゆっくりと開くと、現れたのはベルガモットと同じような大きな目。
苔の精霊だと、直感的に理解した。
「この状態で話をするのは初めてじゃの。今は、ベルガモット、と、呼ぼうか」
苔の精霊にそういわれ、ベルガモットは照れたように笑った。
全くの初対面ということでもないらしい。
植物同士の、何か特別な交流があるのだろう。
ベルガモットという名も、私が知っている名前で呼んでいるだけで、こちらでの呼び方は違うかもしれない。
私の名前が、向こうとはもう違うように。
「初めまして、シアと申します」
「サイモンです」
龍の子も負けじと声を上げた。
その姿を苔の精霊はまじまじと見つめた。
「その子を助けたいということじゃな」
「はい。そのために、こちらの水晶玉の元の持ち主にお会いしたく、鉱物とご縁の深いあなた様を頼みに参りました」
サイモンがそう言って水晶玉を取り出した。
苔の精霊は、ほ、と笛の音のような声で笑った。
「アミュレット、じゃな。シアの嬢さんが創られた」
そう言われて、私はまた顔が赤くなるのを感じた。
「あの、すみません、お言葉大変ありがたいのですが、残念ながら私は見た目はこれでも中身は年寄りですし、その水晶玉も私が創ったものでは、」
私がしどろもどろになりながらなんとか説明しようとするのを、苔の精霊は手で制した。
「儂より年が下であれば、お嬢さん、じゃ。それとも、儂より長生きしているとでも?」
なぜかその目の奥に並々ならない威圧を感じて私はあわてて首を横に振った。
そう圧をかけられなくても、少なくともこの世界の誰よりも、おそらく私は年下だ。
そう思ったらなんだか笑えてきた。
サイモンも、ベルガモットも、もちろん龍の子も、見た目だけなら元の私よりもずっと年若く見える。
そんな中にいて、どこかで年上の私が何とかしなければと、私が助けなければと、気負っていたことに気づく。
私はほっと息を吐いた。
体の力が少し抜ける。
それを見て、苔の翁は再び目をしわに埋没させ、カカと笑った。
「誰かを、ことさらにそれが小さきもの、弱きものであるならば、守りたい、助けたいと思うその気持ちは尊い。ぬしのそういうところは美徳といえよう。じゃが、ここではぬしは若輩。まして、他所からの新参。いずれ強くも賢くもなろうが、今は古参に甘えて半分物見遊山のつもりでおればよい」
そう言ってもらえるのはありがたいけれど、少なくとも龍の子の命がかかっているとなれば遊んではいられない。
そういおうと思った直後、翁の片眼がきょろりと私をとらえた。
「無論、ただ遊んでおればよいというのではない。ぬしの役割を果たすためにも、見聞は広めておいてほしい。ただ、それが義務となれば見えぬものも出て来よう。その狭き視野ではなく、気負いのない心で好奇心に溢れた広き視野を持ってほしいということよ」
若輩なら若輩らしく、新参なら新参らしく、肩の力を抜いて、広く高い視野を持つことが肝要。
翁はそう言いたいのかと、私は思った。
興味をひかれるからこそ、知識は深まり、技は磨かれる。
押し付けられたものでは同じ視座に至るまで、より長い時間を要するか、あるいは不可能なこともある。
そのことを、私はよく知っている。
「さて、余分な力が抜けたところで、本題に入ろうかの」
そう言って翁は足元の岩をとんとんと指でノックするように叩いた。
「これ、岩の。起きんか」
すると、岩の中からするりと同じような姿のおじいさんが現れた。
二人で並ぶと双子のようだった。
「なんだぁ、苔の。人の姿を取るのは面倒なのだよ」
目をこすりこすり現れた岩の翁は私たちをぐるりと見渡した。
「話は大体聞いていたよ。苔のとは長い付き合いになる。岩の精霊だ」
ふむ、と言って、岩の翁は水晶玉を指さした。
「つまり、これのようなアミュレットを、その子のためにしつらえたいと」
「はい」
サイモンが頷く。
「不思議なものよの。この世界のものだけではなしえることではない。シアの嬢さんありきだな」
「いえ、」
私は反射的に否定の言葉を吐いた。
それを岩の翁が制止する。
「称賛は黙って受け取るが良いぞ。それは稀有なものだ。確かに、このアミュレットがあれば、そこな龍の子が助かる可能性はある。我らとて、この世界に龍が飛ばなくなることは望んではない」
苔の翁が頷く。
「おそらくはそれを原初の龍に渡したのは水晶の精霊だろう。一言に水晶の精霊といっても様々居るが、原初龍に繋がれるとなれば」
「あやつであろうの」
「然り然り」
翁たちは二人だけでわかり合っている様子だった。
「されば、」
そう言って二人は大岩から飛び降りた。
そして、その岩の右と左に立ち、両手を大きく空に向けて開いた。
その手の中に小さな二振りの剣が現れる。
それを手にし、二人の翁は同時に大岩の左右の端に突き立てた。
キインと、楽器の音色のような音が響いて、岩は砕けもせず、剣はこぼれもせず、ただ、その大岩の麓に大きな穴が口を開けた。
覗き込んで中を見ると、キラキラと星のようなものが瞬いている。
「この道を通ってゆけ。その水晶玉がかつての持ち主へ導いてくれよう」
岩の翁の言葉に、サイモンの手の中の水晶を見ると、ほんのりと光を帯びている。
それを見つめる翁たちはどこか懐かしそうに眼を潤ませていた。
そして、小さく、私の耳元に何かをささやいた。
よく聞き取れず、聞き返そうとすると、人差し指を立てて唇に当てた。
「いずれ、わかる」
唇の動きで、そういったのが分かった。
「ありがとうございます」
私たちは彼らに礼を言って、足元の星空へダイブした。
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