第2話
「ご注文は?」
穏やかな声、柔和な表情。
傷つけないものを選んで自分に向けてくれる。
たとえそれが仕事上のことだとしても、それだけで泣きそうになった。
私は差し出されたメニューを盾にして顔を隠しながら、
「お任せします。何か、落ち着くものを」
と、言うと、マスターは、承知しました、と言ってその場を離れ、何かを準備し始めた。
私はしばらくメニューの影で涙が収まるのを待ってからそっと店内を見渡した。
抑えた照明。
控えめに飾られた観葉植物。
優しい色合いの絵画。
店内には落ち着いた音楽が小さく流れている。
どれも私の好みに合っていた。
自分のためにあつらえられたような空間に、私の気持ちは自然とリラックスしていった。
そのせいかどうかは分からないけれど、私の視界にそれまで気づかなかったものが入ってきた。
それは、小さな水晶玉だった。
ガラス玉のようにも見えるけれど、その珠には大きなクラックが入っていた。
クラックは要はヒビのことで、ガラス玉なら置いたりしないと思う。
水晶のクラックは、その中に独特の輝きをもたらし、時に虹を見せる。
何年か前に興味を持ち始めた天然石。
それも、特に何かに使えるわけでもなかった知識。
そう思えば少しせつなくもなるけれど、今は逆に楽しんでみていられる。
「きれい」
眺めているだけで、幸せな気持ちになれた。
そのうち、ちょっとした違和感を覚えた。
水晶玉は何にも支えられていなかった。
大体、球形の天然石を飾る時はそれが何かの衝撃で転がらないように台座などに置かれていることが多い。
けれど、その水晶玉は何にも支えられていなかった。
それにも関わらず、どこにも動こうとしない。
まるで自分の意志でそこに居るとでもいうように鎮座している。
私のためなのかなと思うと、余計にその珠が可愛らしく思えた。
「カモミールティーです」
思わず水晶玉に見とれていると、目の前にガラスのティーポットとカップ、砂時計が置かれた。
てっきりお酒が出て来ると思っていた私は少し驚いた。
嫌だったわけでは無い。
カモミールティーも私の好きな飲み物だ。
ハーブティーはどれも好きだけれど、最近は好んでカモミールを飲んでいた。
知っていたわけでは無いのだろうけれど。
「あと3分ほどお待ちいただいてからお飲みください。お好みではちみつをどうぞ」
遅れてやってきたはちみつは小さな壺のような入れ物に入っていた。
はちみつの甘い香りと、リンゴによく似た優しい香り。
ポットの中でカモミールの花がふわふわと動いている。
その様子を見るのも好きだ。
どうしてこんなにと思うほど、私の好きなものがここにはたくさんある。
私の中に忘れていた大切な何かが溶けだしていくような、そんな感覚を覚えた。
「マスター、」
確証なしで呼んでみたが、なぜか間違っているとも思わなかった。
「はい」
予想通りにマスターから短い肯定の返事が返ってくる。
私は小さく笑い声を漏らした。
そんな小さな笑みでも、私にはとても久しぶりだ。
「これ、触っても?」
水晶玉を指さしてそう言うと、マスターはなぜかとても嬉しそうに微笑み、優雅な手の仕草で
「どうぞ。心ゆくまで」
と、むしろ私を誘った。
「ありがとう」
そう言うのもおかしいような気がしたが、心に浮かんだ言葉をそのまま口にした。
ありがとう。
ここに来てから、そう伝えたいものとたくさんであった。
まだ、それほど時間は過ぎていないけれど、その中で見つけたもの達は、今までの私の人生の、長い最低な時間に入ってきたものよりもずっとずっと尊くて愛しい。
その愛しさのままにそっと指で触れると、指先から優しい冷たさが伝わった。
触れているのは私なのに、なぜか水晶の方からも触れられているような気がする。
思えば、天然石に触れるとき、そんな感じがすることは今までもあったような気がする。
ずっと忘れてしまっていたけれど。
忘れてしまっていた大切なことは、きっともっとたくさんある。
そんな思いが、胸に湧いてきた。
「聞いてくださる?」
私は水晶玉から目を離さずに言った。
誰へともなく、その言葉を口から出した。
ここにいる人間はマスターだけだけれど、私が話を聞いてほしいのは、きっとマスターだけにではない。
それが分かっているのか、マスターから言葉での返答はなかった。
その代わり、視界の端で、マスターが私の方へ視線を向けたのを感じた
「私ね、離婚したの。この年でよ。笑っちゃう」
そう言った直後、砂時計の砂が全て落ちた。
私はティーポットからカップへ、カモミールティーを注いだ。
強くなった香りを私は一息に吸い込み、はぁ、と、息を吐いた。
「私がそれを望んでいなかったって言ったら噓になるわね。そういう想いもあった。結婚してからどんどん私が私じゃなくなっていくような感覚があったから。なんのために生まれてきたのか、生きているのか、存在しているのか、分からなくなっていったのよ」
堰を切ったように言葉を発していくと、ふいにぱたぱたと水音が耳に入ってきた。
それが涙だと気づくのに時間がかかった。
そして、驚いた。
けれど、その涙が、離婚したことが辛くて流されたものではないことに私はすぐに気づいた。
今までの人生をきちんと自分のために生きてこられなかったことが、辛い。
そして、そこまでして自分をつぶしてきた挙句に起きたことが、辛い。
「余命宣告された途端、離婚、ですって」
直後、パキン、と、何かが壊れるような音がした。
私はとっさに自分の目の前に並んだものを確認した。
ポットにもカップにも変化はない。
砂時計や壺には触れていない。
あと1つ、触れたもの。
「あ、」
水晶だった。
もともとクラックは入っていたけれど、そのクラックに入り込んでいる輝きが変化していることに気が付いた。
壊れるようなことはしていないはずだが、だからといって壊れない保証もない。
謝らなければとマスターへ視線を送った時、マスターはじっと私を見つめた。
あまりにまっすぐな目線に、どきり、とした。
「やり直したい、ですか?」
次にマスターの口から出た意外な言葉に私はその意味を図りかねてしばらく沈黙した。
「夫と、ですか?」
そう言いながら眉根が寄るのが自分でも分かる。
マスターの言葉が不愉快だったのではない。
あの男と、やり直すことを望むなんて未来は、永劫ありえない、と、思ったのだ。
結局のところ、あの男は、自分の言いなりになりそうな女を探していただけなのだ。
薄々感づいてはいたものの、明確にそれに気づくころにはすっかり相手の事情に巻き込まれ、抜け出せなくなっていた。
そんな男とやり直したところで、同じことが起こることは容易に想像できる。
絶対にありえない、と、思えた自分に、自分で安心してすらいた。
そんな私の様子が滑稽だったのだろう。
マスターはこっそり笑いをこらえ、片手を上げて失礼、と、言った。
私もなぜか笑いたくなって一緒に笑った。
「やり直すのは、あなたの人生そのものです。正確に言えば、生き直す、という方が正しいかもしれません」
「生き直す?」
私が聞き返すと、マスターは水晶玉へ誘った時と同じ手の動きを見せた。
「ええ、彼と」
話の流れから言って、この彼は元夫ではないだろう。
かと言って、店内には他に誰かいるわけでもない。
「誰、です?」
私がそう聞くと、マスターは悪戯っぽい笑顔を見せた。
「あなたが運命と言うものを信じるのなら、私はあなたに生き直すきっかけをひらくことができます。ただ、それ以上のことは今ここでは申し上げられません。運命とは、全てをつまびらかにしない方がいいのです」
聞きようによってはうさん臭くも聞こえる台詞に、ここにきて初めて私の心に警戒心が戻って来た。
「でも、結婚でも就職でもできる限り条件を細部にわたって知り、吟味するのが普通では?」
言葉にしてから、マスターの心象が悪くなっていないか気になった。
気になったということは、マスターそのものを悪い人だと認定はしていないということだ。
できれば、信じたい。
その気持ちが自分にあることに少し驚いた。
まだ、自分は人を、誰かを信じていたい。
「その考えは決して間違いではありません」
マスターは穏やかにそう言った。
その瞳にはただ、慈愛だけがあるように見えた。
私は心の中でほっと溜息を吐く。
マスターはそんな私を目を細めて見ていた。
「けれど、そうやって生きてきた結果が今、なのだとしたら?」
はっとした。
今、私はそうして生きてきた結果を、どう思っているだろう。
少なくとも、なかったことにしたいと、思うような、今、になっているのは、確か。
「もし、生き直すとしたら、今までとは違う人生にしたいのでは?」
私は無意識に頷いた。
違う人生を生きたいと望むなら、選択の仕方を変えるのも一つの手だ。
慎重に吟味したところで、今のままでいたらいずれ命は終わる。
それも、そう遠くはない日に。
不愉快なままで。
理不尽なままで。
「この店に来られたのは、何かを吟味した結果ですか?」
マスターにいわれ、私は口角を上げた。
上げたというより、上がったという感じだった。
もう、私の知らないところで、私は私の選択を決めている。
そう。
今、私はこの状況を「楽しんで」いる。
傍から見れば、私が置かれている状況は完全なるどん底だ。
けれど、そのどん底な人生はほんの少し前に終わりを告げたと言える。
否、そう、決める。
もう私はそこにはいない。
どん底にいたときの私はもういない。
そう決めた。
そのきっかけを作ったのは。
「その、きっかけ、頂きます」
私はそう言うと、少し冷めたカモミールティーをぐいっと飲み干した。
口端に残った雫を乱暴に手で拭う。
手に持っているのがガラスのティーカップでなければ乱暴に置いているところだ。
そう。
私はワクワクしている。
この先に何があるのだとしても、今までの人生よりは、はるかにましだ。
たとえそこが、地獄であったとしても。
「承知いたしました。すでに先方はあなたを望まれております」
そう言ってマスターは水晶玉を私の手の平の上に持って行き、放した。
それが私の手に触れるか触れないかのタイミングで、真っ白な光が私の視界を満たし塞いだ。
「良い人生を」
何もない空間でマスターの声が、私のクズな人生の完全なる終わりを告げていた。
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