splinter spinner
零
第1話
その日は、人生最悪の日。
だと、思っていた。
ガラガラと、スーツケースのキャスターの音が響いている。
中には私の全財産が入っている。
とはいえ、それほど物は多くない。
それは、半分ヤケになって、私物のほとんどを処分したから。
少し前まで思い描いていた未来の構図は、その日、決定的に崩れ去ったと言っていい。
その兆候はずっと前から在ったと思う。
気づいてもいた。
それに抗わなかったのは私だ。
その責任は確かにある。
だから、この流れも受け入れて、私は今、ここにいる。
何なら、初めから何もなかったことにしたかった。
誰とも出会っていない。
何も起きていない。
私は最初から一人で、今も、一人。
そうだったらどれほど心穏やかで幸せでいられるだろう。
そう思う気持ちがあったから、思い出になりそうなものを全て処分した。
そうしてみたら、思いのほか荷物は少なくて、それは少し寂しかった。
アイツに未練があるわけじゃない。
それを除いた自分が、思いのほか空虚だらけだったことが、寂しい。
こういうときは危険だということを知っている。
うつろな部分があると、それを満たそうとする気持ちが起きる。
それも、簡単に、すぐ手に入るものを探し始める。
藁にもすがる、というのは、こういうことなのだろう。
その、危険で偏った視界の中に、私は小さな明かりを見つけてしまった。
真っ暗な、他に明かりが一つもないような場所を歩いていたわけでもないのに、その明りはまるで私が光として認識できる唯一のものであるかのように見えた。
私の意識の中に君臨し、灯明に引き寄せられる火蛾のように、私は力なくふらふらと熱にうかされる。
雲の上を歩くような感覚のまま、明かりに近づくと、それは小さなランタンだった。
そのあまりに小さな光の輪の中に、辛うじて古びたドアが浮かび上がる。
アンティークな輝きを見せるノブを見ると、営業中を示す小さな札がかかっていた。
それを頼りにそっとドアを開けると、中からも柔らかい光が漏れてきた。
バーのような雰囲気ではあるけれど、壁の棚に置かれている酒瓶の数はそう多くはないように見えた。
喫茶店とバーの中間。
あるいは、昼間は喫茶店で夜はお酒も出します、というくらいのスタンスなのだろうかと思いながら入り口に立ち尽くしていると、
「いらっしゃいませ」
ふんわりと優しい、年配の男性の声が聞こえてきた。
声の主を追うと、カウンターの中に人影を見つけた。
彼は真っ白な布でグラスを丁寧に拭いていた。
年のころは50代半ばという感じに見えた。
美しく、自然な色合いのグレーの髪は丁寧にまとめられている。
服装も店に合っているし、年齢的にマスター、と呼んでも良いのだろうかと思った。
他にスタッフも客もいなかった。
マスターと私の二人だけの空間。
そのことにほっとする。
何かの店に入ったとき、スタッフの年齢が自分より上だということにほっとするようになったのは、いつのころからだったろうか。
相手がどの立場の人間でも、若い人とはなんとなく会話が成立しづらくなっていた。
雑談をするとしても話す内容もスピードも違う。
どうしても途中で話の輪から外れ、背後で様子を見ていることが多くなった。
見守っていると言えば聞こえはいいが、要は単にどうしていいか分からなくなっていただけだ。
そのことは、少なからず私がそこに存在する意義を、私の中から削っていった。
思い返せば、その期間はとても長かったように思える。
年のことだけじゃない。
他の様々な要因が私から存在意義を削っていた。
そのうえで、この事態だ。
そう思うと、私の胸はきりきりと痛んだ。
不当な扱いを受けたと思っても、怒れない。
怒ったところで無駄だという認識をどこかで持ってしまっている。
それもまた、自分を削る。
いつでも誰かに遠慮して、誰かに何かを譲って。
最後に、私が純粋なワガママを口にしたのはいつだろう。
どれほどの時間、私は何も要求していないのだろう。
もう、それも思い出せない。
それは、私が自分の意思を外へ出さなくなったのと同じ時間。
私はふらふらとカウンター席へと足を運び、マスターの正面に座った。
いつもなら多分、こんな席には座らない。
カウンター席を選ぶこともあまりなかったけれど、座るとしても端の方だった。
目立たないように、邪魔にならないようにすみのほうで小さく。
だからこそ今日は、いつもは選ばない席に座りたかった。
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