第2章
第6話
がたんっ
黒髪の美少女が椅子を引く小さな音が、教室一帯に響き渡った。
立ち上がった美少女は、コンタクトを入れた碧眼を輝かせ、
これ以上なく完璧に微笑むと、ゆっくりと、俺に近づいてきた。
かと思うと。
雨守は、俺に、もう一度だけ鮮やかな微笑みを小さく見せた後、
窓側で呆然としている
「え。
ぼ、僕?」
「はい。」
!?
あ、雨守の奴っ。
「貴方の幼馴染が、どうしてお怒りになられておられるのか、
貴方には、おわかりになりませんか。」
「お、怒ってる?」
「い、郁ちゃんっ。」
あの真矢野がむき出しの驚きを顔に出してる。
第一派閥から全クラスに、動揺が地割れのように伝わっていく。
「貴方があと半歩で、地元有数の名家の怒りを買って破滅に追い込まれるのを、
幼馴染のお二人がすんでのところで救っておられます。
そのことが、貴方には、お分かりになりませんか。」
言ってしまっていた。
これ以上なく、きっぱりと。
分かるわけがない。
言って分かるようなら、二人とも、苦労しない。
雨守は、そうだと分かって、分かりきって、
あえて言っている。
それよりも。
そんなことよりも。
雨守にしては、相当、低い声で、話している。
普通よりは少し高いくらいだが、女子から違和感を持たれる、
あの鼻に甘く掠るような高く跳ねる声ではない。
練習の成果が、出てしまった。
「……ごめん、雨守さん。
僕には、その、なんのこと、か……。」
「分からないなら、貴方は間違いなく破滅します。
それは貴方の勝手ですが、巻き込まれる私達は、いい迷惑です。
これ以上、貴方の美麗な幼馴染たちに、私の彼氏を弄ばせないでください。」
『!?』
がらっ。
「間に合ったーっ。
はーい、みんな、座って座ってー。
……って、なに、この雰囲気?」
……ははは。
星羅ちゃんがマジな天使に見える……。
*
「か、隠してたわけじゃ、ないの。
使う機会が、無かっただけで……
その、ご、ごめんなさい。」
声の教室に、通わせていた。
発声法を、研究させていた。
「謝る必要なんてまったくない。
よくやったな。ほんとうにおめでとう。」
終わっ、た。
雨守郁美に関するプロジェクトは、すべて。
やりきった。
ぜんぶ、やりきれた。
「……うん。
でも、別れないから。」
……ん?
「だ、だって。
わたしがふつうに喋れるようになったら、
絶対に、突き放すつもりだったでしょ。」
突き放す?
突き放されるの、間違いじゃないのか?
「わ、私からは、ぜ、その、別れないから。
だ、誰かと付き合うなら、別……。」
「っていうかな、雨守。」
「な、な、なに?」
「そもそも、俺ら、付き合ってないだろ。」
「そ、そう、だけどっ。」
「あのな、雨守。
お前はもう、頭ぼっさぼさじゃないし、顔にも足にも髭生やしてないし、
あのおもったそうな眼鏡も外したし、化粧も身嗜みも十分上手くなった。
なにより、学年三位の才媛だ。」
スタイルもいいしな。
オトコウケする豊満な胸部を持ってる。
「……ぜんぶ、戻したほうがいいの?」
「違うわ。
お前はもう、たまたま隣の席に座ってた俺なんかじゃなくて、
誰でも、自由に、選べるんだよ。」
それこそ双谷とかな。
顔だけなら、紛れもなく一流の上玉だ。
なんせ、日本中のイケメンが群れているバスケの雑誌で一枚絵を撮られてる。
「……そっ、か。
あの、ね。
ううん、聞いて。」
口を継ごうとした俺を、雨守は、手で強引に遮ぎった。
こんなことする奴だったか?
「その、わたし、髪型を替えた頃あたりから、
ちょっとは、告白されちゃったりするんだよ。」
「そ、そうなのか。」
「……あはは。
まぁ、葉菜ちゃんとか、留美ちゃんとかとは、
桁が違うけれどね。」
「そうか。
……良かったな。」
「ううん。ぜんっぜん。
髪型を替える前に、わたしに優しくしてくれた人は、
真人君以外、誰も、いなかった。
父親ですらも。」
「……それは。」
「いいの。
わたしが悪いって、分かってるから。
でもね。
真人君の代わりなんて、絶対に、いない。
地球上に、一人も、いるわけがないの。」
また大げさなことを言いはじめたぞ。
「……わかってる。
真人君が、わたしに何を隠してくれてるか、
ちょっとは、わかってる。」
!
「おま……っ。」
(一通りはまとめて書き出しておいたよ。)
侮ってはいけなかった。
県下第二の進学校、学年三位の調査力を。
俺はどこかで、雨守郁美を、弱い奴だと、
護り続けるべき人間だと、傲っていたんじゃないか。
その驕慢さは、双谷と何が違うんだ。
「……ごめん、ね。
わたしなんかに、縛り付けるつもり、なかったけど。
そんなこと、できるわけないって、よく、知ってるけど。」
俺だけに聞かせている、高く跳ねる、柔らかい声が、
濁音に詰まっていく。
「……
わかってる。
わかってるの。
付き合ってほしいなんて、贅沢は言えない。
でも、もうちょっとだけ、
いまのままで、いてくれない、かなぁ……っ。」
すすり泣きが、滑らかに流れる喉を、詰まらせて。
「ご、ご、ごめんね。
こ、こんな時に泣くなんて、酷い女だよね。
そうしないように、ずっと、それだけはしないように、って…っ。」
碧眼から落涙する姿すら、胸を締め付けられるような美しさで。
「……お前の気持ちは、分かった。
少しだけ、考えさせてくれ。」
断るべき、なのに。
断らなければいけないのに。
心の奥底が、揺り動かされてしまっていた。
この時の俺は、なにも分かっていなかった。
これはまだ、入り口に過ぎなかったのだと。
*
「まーくん、おはようー。」
「……おう。」
「ううん、いいんだよ。なんにも言わなくて。
わたし、告白したわけじゃ、ないから。」
は?
「でしょ?」
(「愛してるよ、まーくん。
一年の時から、ずっと、ずっと。」)
……あれ、で?
「あはは。
告白って、ふつう、交際を求めるものだよ?
おれのおんなになれー、とか。」
あぁ……。
って、それは。
「あれは、日ごろのご愛顧への感謝と、
わたしの大切な大切なお気持ちの表明。
それだけだから。」
あぁ。
こんなときに、こんな超絶癒し声なのに、
なんて高い矜持を持ってしまってるんだ。
「わたしは、まーくんに、なにも求めない。
それなら、いいよ、ね?」
……なんてやつ、だ。
そんなもん、断り様がないじゃないか。
「……どっちみち、顔面工事爺と約束しちまってるからな。
俺は、お前には、手を出せない。」
(まだ十代ですから、変わりようもあるでしょう。
その時に、改めて機会を設ければ。)
「んー?
手、出したいの?」
「出せない、つってんだよ。」
「あはは。まーくん、ほんと律儀だねー。
そんなことないんだけどなー。
そんなところも、大好きだよ?」
ぐっ。
さ、さすが学年一のアイドル。
心をほどいた時に放ってくる無垢風な笑顔の破壊力が半端ない。
「ね?
わたしはなにも求めてない。
……で、しょ?」
ぐはぅっっ。う、上目遣い、完璧すぎるだろっ。
わ、わかりきってるのに、オトコってのは、どうしてこう……っ
「……葉菜ちゃん。
お願いだからそのへんにしといてあげて。」
こ、小林の背中に翼が見えるっ……。
「はぁ……野智君、
これ、受け入れちゃったほうがラクになるかもだよ?」
……お前もかよ、ブルータスぅっ。
*
「言ったよ?
いろいろ覚悟しといたほうがいいって。」
……あぁ。
ようやく意味、わかったわ……。
「正直さ、郁ちゃんの爆弾、
あたしらにはめっちゃ堪えたよ。
あんなこと、あたしや葉菜が、ルトに言えるわけないから。」
あんだけ言ってよくわかってねぇんだから、
ハナっから言えるわけねぇだろ。
「……あはは。
ま、それもあるんだけどさ、
ばらしちゃうと、偶像作ってたトコもあるんだ。」
ん?
「人ってさ、見たいものを作るんだよ。
オンナノコは特にそうで。
そうじゃないって百も承知でも、作りたがるんだよ。
実際のオトコの乱雑さを知っていれば、なおさらだし、
手近に願望を投影できるものがあれば、まぁ、そりゃね。」
……。
あ。
「そ。
葉菜はどこまでそうだったか分かんないけど、
あたしはちょっと、めんどくさかったんだよ。
ルトに幻影を見せられるなら、真下さん達も、静かにさせやすかったからね。」
あぁ……。
そういうことな。
女子はいろいろ大変だなぁ。
「そりゃ悪いことをしたな。」
そこまで雨守の頭が廻るとは思えない。
絶賛引き籠りだったわけだし。
「あはは。
真人のせいじゃ、ないんだけどさ。」
って、いきなり呼び捨てかよ。
さすが陽キャの鏡。
「ま、こうなったらしょうがないかぁー。
あたしが責任を持ってルトを再教育するから。」
助かる、って言っていいのかわからんが。
根は善人だと思うから、なんとかしてやってくれ。
「……。」
なんだ?
「いやぁ、なんでもないよー。
ふぅん、そっか……。」
ん?
「あはは。なんっでもないよー。
ま、パワーバランスの再構築ってやつかな?」
意外にめんどくさいこと考えるんだな、お前って。
「あはは。『お前』って。
距離の詰め方、やっばいなー。」
よりによって真矢野が言うのかよ。
*
「るみっ!!」
悲鳴と怒号、取り押さえられる姿。
歪に笑う人影が、男達に殴られ続けている。
小さな突起物が、明確な殺意を持って、
少女の腹部を突き刺している。
磨き抜かれた形の良い瞳に浮かぶ微かな驚きは、
やがて、諦念と圧倒的な苦痛に歪められ、
堪えきれずに前のめりに倒れていく。
混乱と絶叫が教室中を覆った時、
緋色のどす黒い波が、誇り高き女王の御櫛を穢すように
「るみぃぃぃっ!!!!」
*
はっ。
はぁ……はぁ……っ
い……、
……いま、の、は……
ま……っ
……間違い、ない、な。
真矢野、だ。
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