麻疹(後)
「……いやー、やっちゃったかー……。」
留美ちゃんが、見たこともない疲れた顔で、力なく笑った。
「葉菜もさー、舞い上がっちゃったんだと思うなー。
清明君の件、ひとまず保留になったからさー。」
東郷建設の御曹司、
東郷清明君に芳しくない噂があることは、一哉君から聞いていた。
でも、家と家との関係は、当人同士の相性など無関係に進む。
家格からすれば、沢名家のほうが上。
経済力に優れた東郷家にも、メリットがある。
その筈なのに。
保留に、持ち込めた。
「……あんなやり方があるって、思わなかったからねー。
葉菜も、あたしも。」
街の中心部に本社を構える大手ゼネコン。
日本の経済界の一翼を担っている人物と、
葉菜ちゃんのことで、単独で、話をつけたらしい。
野智君が。
意味が分からな過ぎた。
野智君が、葉菜ちゃんにそこまでする動機があるのか。
そこまでの深い縁だったのか。なんでそんな大それたことができたのか。
「早紀ちゃんだから言うけどさー、
ルトをさー、うまいこと騙せると思ったんだよなー。」
郁美ちゃんが、鬼気迫る剣幕で告げなければ、
この件は、双谷君の中では、自分が収拾したことになったらしい。
その日以来。
葉菜ちゃんは、野智君が好きなことを、隠さなくなった。
恋していることを周りに見せつけるように、
野智君に、わかりやすいアプローチを掛けている。
天使が本気を出して、堕ちない男子などいるだろうか。
「……葉菜ちゃん。
お願いだからそのへんにしといてあげて。」
周りの目が、凄まじいことになっている。
クラスの、いや、全学年の環境が激変したことを、全身で感じてしまう。
それは、私も同じで。
「……野智君、
これ、受け入れちゃったほうがラクになるかもだよ?」
ありえそうになかった可能性が、
頭の中に、浮かんでしまった。
*
郁美ちゃんへのアプローチは、陰に陽に、増えていく。
特に、事情の分かっていない他クラスの男子から。
郁美ちゃんは、可愛い。
仕草が、態度が、心根が。
応援、したい。
ただ、恋敵は、あの大天使、葉菜ちゃん。
どうひいき目にみても、勝ち目はない。
いや。
私は、狡い。
郁美ちゃんの純粋無垢な想いを、
あわよくば、犠牲にしてしまおうとする心が芽生えている。
私、こんなに汚い人間だったのか。
自分の醜さが嫌になっていた頃だった。
「あはは。
ちょっと新鮮だなー。
こっちからだと、こう見えるんだねー。」
郁美ちゃんが、私のグループに、留美ちゃんを誘った。
その誘い方は、自然とは言い難いものだった。
(あの、ですねっ。
ま、真人君が、そうしろって。
今日、何かが起こるからもしれないから、って。)
まるで意味が分からなかったが、
煌めきを放つようになった郁美ちゃんの真剣な碧眼に、
グループの子達は気圧されてしまった。
留美ちゃんは、流石の話術で、違和感を全て、消し飛ばせてしまう。
五分もすると、私たちが、
一学期の最初から仲の良い友達であったかのように打ち解けさせてしまった。
ふと、廊下の外を見ると、
他クラスの男子の目線を遮るように、野智君が郁美ちゃんを見ていた。
それにしては、
少し、険しい目をしていたことに、
私が気づいた、
途端。
目にもとまらぬ速さだった。
野智君が、一人の女子生徒の手首を、力強く掴んでいた。
包丁よりも小さな刃物を握っている女子を、
私は、知っていた。
隣に座っていた、
演劇部の和恵が、甲高い声で、
「!
あ、あなた、
ま、真下さんっ!?」
真下友香。
派手系ギャルの頂点として、私を悩ませていた筈の女子が、
なぜ、留美ちゃんを、殺
「……違うよ。
真下さんじゃ、ない。」
私は、知らなかった。
留美ちゃんが、こんなに低い声を出せるなんて。
葉菜ちゃんが、こんなに冷たい目ができるなんて。
*
真下さんが、塞ぎこむようになった。
当然だと思った。
自分に成りすまそうとした人間がいたのだから。
しかも、自分が親しいと思っていた人に。
いい気味だ、と思っている子も、男女問わずいた。
私は、そこまでは思わなかった。
ただでさえ崩壊気味のクラス内のバランスが、
壊れ尽くすことを恐れていた。
そんな日の朝。
留美ちゃんが主導して、
真下さんのグループを除いた女子のラインを立ち上げた。
(あ、真人もわかんないように入るからさー。
そこんとこ、よろしくねー。)
いつの間にか、留美ちゃんは、
野智君を下の名前で呼ぶようになっていた。
自分が殺されそうになったのを助けられたから、無理もないのかもしれないと。
私は、鈍感だったのだろう。
この時に、気づくべきだったのだ。
留美ちゃんが、野智君に、海よりも深い恋心を隠し持っていたことを。
*
郁美ちゃんが投下してきた卒アル爆弾が決定的な流れを作り、
真下さんのベールは、一朝のうちに、全て剥がされてしまった。
翌週の朝。
真下さんは、金髪のまま、清楚系に劇的なイメチェンを遂げ、
クラス内外を騒然とさせた。
「にゃはははは、なっかなかのもんでしょー?
あったしとしては、かなりの自信作ですなー。
はっはっはー。なんてねー。」
メイクをしたのは留美ちゃんだと言う。
私は、その多芸さと多才さに、唖然とした。
「んでもさー、早紀ちゃん、ごめんねー。
ちょっともうカオスだよねー。」
まったく、そうだった。
新体制の新人戦で、
男子バスケットボール部は、県予選、二回戦で敗北した。
クラス内のバランスは、もはや存在していなかった。
空が、堕ちようとしていた。
*
「喜べ。
お前の嫁ぎ先が決まった。」
婚約段階ですらないのに、叔父は、興奮していた。
「あの、東郷建設だぞ。
沢名が、愚かにも手放した先だ。
これで、小林家は盤石だな。」
(清明君の件、保留になったからさー。)
まさか、私に矛先が来るとは。
落ち窪んだ目の母が、期待した表情で私を見ている。
妹は、外泊を続けている。
私が話せる親戚は、一哉君くらいしかおらず、
東京に出たい一哉君は、私を助けてはくれないだろう。
広さだけが取り柄の暗い和室の中で、
私は、海よりも深く、絶望した。
*
障子屋竹人君が、殺人未遂を起こした。
ターゲットは、野智真人君。
現行犯逮捕。地元警察に拘留中。
凄まじい勢いで流れるクラスライン。
流れ去ってゆく単語の意味が、
私の頭の中で、繋がりを持たずに消えていった。
*
週明けのクラスは、激変していた。
葉菜ちゃんと郁美ちゃんが、
留美ちゃんまでもが、廊下側の野智君の近くに座っていた。
「どうにかしてくれぇっ!」
珍しく野智君が興奮しているが、どうしようもなかった。
葉菜ちゃんと郁美ちゃんは、
周囲に背中を向けて、野智君を囲っていた。
その横で。
「ほらほら、見て?」
留美ちゃんが声を掛けた先にいた、
他クラスの女子が、さっと目を逸らした。
とんでもないことになった。
野智君は、いまや、
全学年の女子に狙われてしまっている。
「ルトがいなくなったんだから、
一極集中になっちゃうんだよ。」
留美ちゃんは、まるで、
私に解説をしているようだった。
と、同時に。
留美ちゃんは、おそらく、気づいている。
いや。
知らないわけが、ない。
沢名家とは、もともと、浅からぬ因縁がある。
沢名家に近い留美ちゃんに、相談は、できない。
それなのに。
「どうした、小林。」
こんなときに、私なんかに、
なんでそんなに優しい声を掛けてくれるんだろう。
……話せば、なんとかしてくれるんじゃないか。
葉菜ちゃんの時のように。
ひょっとしたら。
だめ。
構わないで。
私なんかに。
自分が助かりたいだけの、穢れた私なんかのために。
「……ううん、なんでもない。
野智君、死なないでね?」
*
妹の妊娠が発覚した、らしい。
叔父が、妹の顔が変形するまで殴り続け、即日堕胎させた、らしい。
叔父は、母と私の監督不行き届きを責めた。
「食えることの有難さがわかっとらん。
五年くらい自衛隊にでも放り込めばいいんだ。」
母は、泣き腫らしながら、私を、ネチネチと詰った。
母の精神は、もう、限界だった。
広さだけが取り柄の、暗い和室の中で、
私は、睡眠薬なしでは、寝られなくなった。
*
二年の大天使、沢名葉菜ちゃんの心が、
野智真人君にあることは、
今や、全学年の共通了解となった。
そうならば。
私が。
名和座君に、声を掛けても、
問題は、ないんじゃないか。
県大会の予選敗退以降、
双谷君を取り巻いていたはずの女子は、激減していた。
それだけじゃなかった。
双谷君の友達だと思われていた障子屋君が、野智君を殺そうとした。
留美ちゃんや、真下さんまでも亡き者にしようとしていた。
男子も、女子も。
障子屋君と親しかった人は、連帯責任だとばかりに、
双谷君や名和座君から、距離を置いている。
あれほど持ち上げていたのに。
神だと崇めてすらいたのに。
こんな時に、二人を支えるはずの留美ちゃんは、
葉菜ちゃんや郁美ちゃんと一緒に、野智君の元にかかりっきりだった。
それなら。
私が、名和座君を、支えてもいいじゃないか。
あわよくば。
*
「……お前が、小林早紀か。」
やっていけない。
いけそうに、ない。
「……どうせ俺を、馬鹿にしてるんだろう。」
たったいま、そうなった。
なるべく、先入観を持たないようにしていたのに。
「……葉菜と、天と地の差だな。
なんだよ、ったく、しけた面だなぁ。」
最悪だ。
「お前の作り笑顔なんか、見たくねぇんだよ。
こっち見んな。離れろ。」
覚悟が、決まった。
*
文化祭に向けた、演劇部の映画撮影。
私まで端役で出ることになってしまった。
山の中腹に立つ、もとは美術館だったという洋館。
撮影用に、演劇部員総出で、三つの部屋だけを掃除したらしい。
東京の子役劇団に属していたという留美ちゃんの規格外の演技力に、
ただただ圧倒されていた時だった。
「ねー。
早紀ちゃんさー、康彦君、狙ってんのー?」
タオルで汗を拭きながら、
突然、留美ちゃんが話しかけてきた。
探りを入れてきた、
と、思ってしまった。
「そうだけど。」
正直に、言ってしまった。
と同時に、自分の熱量の低さに、驚いた。
どうみても、郁美ちゃんや葉菜ちゃんとは、違っている。
「あのさー、康彦君はねー。
んーーー。」
あの活発な留美ちゃんが、珍しく言い淀んでいた。
牽制の言葉を、探しているのだろうか。
でも。
もう、後には引けない。
(こっち見んな。離れろ。)
引けっこ、ない。
*
「私、名和座君のことが、好きなんだ。
よかったら、付き合って、くれないかな。」
言えた。
思ったよりも、高揚感があった。
私が、名和座君に好意を持っていたことは、嘘ではなかったから。
次の瞬間。
「……君も、俺を馬鹿にしてるのか。」
耳を、疑った。
どうして、私が。
愛の告白をしたはずなのに。
「……どうせ、君は、
俺を盾に使いたいだけなんだろう?」
顔から火が出るようだった。
なにもかも、見透かされているかのようだった。
「……俺の血は、絶やすべきなんだ。
こんな穢れた、呪わしい血はな……。」
なにを言われているのか、分からなかった。
「……
真矢野から、なにも、聞いてないのか。」
どうして、留美ちゃんの名前が。
名和座君は、端正な顔を歪めると、
私の息を止める言葉を、告げた。
「……
俺は、ゲイだぞ。」
私は、逃げた。
全力で、逃げてしまった。
名和座君から、私の運命から。
*
集めた睡眠薬は、もう、十分だった。
私は、酷い人間だ。
名和座君を利用しようとし、
名和座君の決死の告白に向き合いもせず、
自分のことだけを、考えてしまった。
どんな謝罪も、どんな態度も、
名和座君を傷つけてしまうだけだろう。
私は、自分という存在の醜悪さに、愛想をつかした。
私は、もともと、生きている資格なんてなかった。
自分で、自分を断罪することが、たった一つの誠意の見せ方だ。
そうするべきだった。
父が亡くなった時に、
私は、そうするべきだったんだ。
死は、断罪であるとともに、
人間の最後の自由であり、復讐でもある。
せめて、死ぬ時くらい、私の自由にしたい。
息づまるあの家から、解放されたい。
そう思った時、
頭の中に、草深い洋館が、浮かんだ。
そうだ。
あの朽ち果てた佇まいこそ、
いまの私に、相応しいんじゃないか。
私は、貯金をすべて降ろし、
駅からのタクシー移動ルートから、
成就までの全計画を、頭の中だけで、慎重に立案した。
*
「無理だな。
ただのビタミン剤だぞ。」
「!?!?」
麻疹
了
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