序詞(前)


 第1話前。

 郁ちゃんのお話です。


************


 高校一年の時、義母が、逃げた。

 若い男に貢ぐカネのために、

 父の会社の口座から。

 

 転落は、一瞬だった。

 父が、会社を一か月早く倒産させれば、

 ここまでの火傷にはならなかったろう。

 

 反対すべきだった。

 もっともっと、反対すべきだった。

 

 わたしのせいだ。

 わたしが、自分の意見を、言えなくなっていたから。


*


 そうなった原因は、もう、わからない。

 

 「きめぇんだよ、てめぇ。」

 

 「媚びた声、出してんじゃねぇよっ!」


 そんなつもりは、まったくなかった。

 

 父が、病気の母を裏切って再婚した頃から、

 男性に、不信感を持つようになっていた。

 

 わたしが、男性に、男なんかに、媚びるはずなんてない。

 それなのに。

 

 「なんなんだよその眼はっ!!

  ざっけんなっ!!」


 どうして、ここまで。


*

 

 高二のクラスは、最悪だった。


 5月の体育祭に向けて、

 クラスで一番綺麗な男子が、放課後に皆で練習をしようと言った。

 他のクラスの女子達まで、彼の元に群がってる。

 

 残らない人は、白い目で見られてる。

 それどころじゃないのに。

 

 貴方と、団結なんて、したくない。

 言えるわけ、ない。

 

 どうして、参加することが当然だと思えるんだろう。

 どうして、だれもが同じだと思い込めるんだろう。

 

 「体育祭なんて、

  やりたい奴がやってりゃいいんだ。」

 

 ……ぇ。

 っ!

 

 「っていう顔か?」

 

 ち、ちがぅ……っ。

 

 「ん?」

 

 な、なに……

 

 「いや……

  お前、綺麗な字、書くんだなぁ。」

 

 っ……。


*


 声を出したくない私は、

 筆談で、ただ、要件だけを書く。


 「雨守、お前の字、ほんと綺麗だな。」


 止めてしまった習字の名残。

 母が生きていた頃の、当たり前だった平和な日々を、

 心が、なぞってくれているようで。


 筆談は、書くたびに、会話が止まる。

 めんどくさい相手のはずなのに。


 「ふぅん。それに気づくか。

  お前、なかなか賢いじゃん。」


 自分で決めたルールが、もどかしくなって。

 優しい声に、シベリアの永久凍土よりも固いはずの心が、

 ほんの少しだけ、揺らいでしまいそうになる。


 絶対に、縁を持ちえない人なのに。


*


 嫌がらせをされた。

 彼と、仲良くしてると。

 

 話してもいないのに。

 話せてもいないのに。

 

 でも、分かる。

 野智真人君は、隠れた人気者だから。


 彼は、男子とも群れず、いつも、一人でいる。

 なのに、同じようにしてる男子と違って、

 物欲しそうでも、寂しそうでも、人生を諦めてるわけでもない。

 

 いつも、人とは違うどこかを見ている。

 目を合わせてしまうだけで、心が高鳴ってしまいそうになる。

 

 たまに、可愛らしさを集めたような沢名さんが、声をかけてくる。

 精悍な顔を少し綻ばせて明るく応じている姿に、

 錐で心を突かれたような痛みが走る。

 

 小銭すら貰っていないわたしが、あんな綺麗な髪になるはずがない。

 あんな綺麗な瞳になんて、生まれついていない。

 

 釣り合わない。

 関わりを持てるはずが、ない。

 それなのに。


 凛々しい横顔を見ているだけで、涙が溢れそうになってしまう。

 そんなことを想う資格すら、ない。


 秘め切るしか、ない。

 暴れ出しそうになる心の根っこを、抑えつけ続けるしかない。

 一学期なんて、あと二か月で終わる。


*


 「あれ。」


 ばったり、逢ってしまった。

 こんなところで。


 見られたくなかった。

 スーパーで、半値落ちした商品を漁る姿を。

 1点限りの商品のために、父親と並んでいるところを。


 野智君は、少しだけ目配せをすると、

 何事もなかったように去って行ってくれた。

 

 そのさりげない気遣いが嬉しくて、

 救いようがない寂しさと惨めさに打ち震えた。


*


 どうして。


 「自己破産をご存知ですね。」


 なんで。


 「貸金業法の上限利率をご存知ありませんか。」


 貴方が、いるの。


 「生活福祉資金貸付の条件をご存知ですか。」


 聞いたことのない言葉が、

 虚ろに繋がったロープの横から、次々と聞こえてくる。


 「貴方が亡くなった後、

  郁美さんは、反社会的集団に追われながら、

  児童養護施設に入ることになります。」


 こんな時なのに。

 下の名前を覚えてくれていたことが、嬉しいだなんて。


 「貴方は、

  人として、その未来を娘に残すことを望まれますか。」


 放送よりも、ゆっくりとした、

 でも、決然とした口調と、低く、力強い声で。


 「大切な娘を持つ親として、

  貴方には、残りの人生を誠実に生きる義務があります。

  違いますか。」


*


 話したかった。

 話しかけられなかった。

 

 だめだと分かりきっているのに、

 跡をつけてしまった。

 

 学校から、徒歩七百四十メートル。

 わたしの部屋への通り道にある、小奇麗な築浅のマンション。


 ついてきてはいけないと、

 入ってはいけないと分かっていても。

 足が、吸い寄せられてしまっていた。

 

 目の前の部屋なのに。

 チャイムが、鳴らせない。


 わたし、大胆すぎる。

 住居不法侵入。

 

 わたし、ただの犯罪者だ。

 こんな見すぼらしい姿をした女なんて、

 不審者そのものじゃないか。

 

 どうしよう。

 降りなきゃ。出なきゃなのに。


 立てない。

 足が、動かない。


 「……どうしたんだ、お前。

  人の部屋の前で体育座りなんかして。」


 !?


*


 「……信じねぇと思うけどさ。」


 父親に見せた堂々とした態度とは違う、

 戸惑うような、傷ついた顔。


 「お前の親の夢、見たんだよ。

  首、括る夢をな。」


 身体が、震えた。

 起こったことと、ぴったり、一致していた。


 なんで。

 どうして。


 「知るかよ。

  ただ、あんなもん見た後は、だいたい、現実になる。

  ……ガキの頃から、そうなんだよ。」

 

 精悍な顔の上に浮かんだ、見たこともない昏い表情に、

 得体のしれない親近感が沸いてしまった。

 そんなこと、塵一つでも思えるはずがないのに。


 「お前を見捨てたら、人間じゃなくなる。

  アイツらみたいな、人非人になっちまう。

  そんな気がした。

  それだけだ。」


 昏さを払うように、

 精悍な、強く輝く瞳で、

 彼は、わたしの心を、猛鷲の烈しさで掴み取った。


 「誰にだって、生きる権利はある。

  だがな。」


 わたしの、一番欲しい言葉で。


 「お前には、生きる価値がある。」


*


 「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る。」


 ?


 「カネがない時は、

  何したって、どうだっていいってことだ。」


 ぇ。


 「死ぬなんて、いつだってできちまう。

  あっけないくらいなんだぞ。


  幸せに生きることが、

  お前を見捨てた奴らへの、最高の復讐になる。」

 

 言葉の波が、

 わたしの心の鉄鎖を、壊していく。

 溢れそうになる涙を見せないように、わたしは後ろを向いた。


 その背中に、向かって。

 

 「雨守。

  お前は、生きろ。」


 ……だめ。

 だめ、だよ……。


*


 「ほれ。」


 手渡されたパンは、購買に売ってないものだった。

 たぶん、校外の


 !?


 (俺に向かってその金を出せ。)


 ぇっ。


 「お前、カネ、よこせよ。」


 「!

  あ、は、はいっ………。」


 いつぶりだろう。

 お金を、人に、手渡せたのは。

 

 思わず。

 声を、出して、しまった。

 恥ずかしさを感じるよりも先に。


 「ったく。

  札出されてもな。」


 「ご、ご、ごめんなさいっ。」


 あ、貴方の、お金なのにっ。

 

 「ほら。」


 渡してくれた小銭が、鈍色に光っていて。

 笑ってくれた顔が、眩しくて。


 炭水化物に炭水化物を合わせた、

 ソースのきつい、オトコノコの食べ物。

 身体が、凄まじい速さで炭水化物を吸収していく。

 

 生きたいん、だ。

 わたし、生きていたいんだ。


 「なんだお前、泣くほどうまいのか?

  そりゃよかったな。

  朝から遠くまでいった価値があった。」


 あぁ、

 これが、優しさなんだ。

 こんな感情のうねりは、はじめてで。


*


 「雨守さん。」


 っ!?

 こ、小林、さん?

 

 「ああ、そんな顔しないで。

  どう? 私達と一緒に、お昼食べない?」


 わたし、と?


 「んー、

  野智君に、言われちゃったから、かな?」

 

 !

 

 なん、で。

 どうして、そこまで。


 「でも、それもいいかなって。

  雨守さん、最近、明るい顔するようになったから。」


 それは。

 それは、ぜんぶ。


*


 「しょ、奨学金、ですか。」


 「ああ。

  お前、めちゃくちゃ運がいいんだぞ。」


 どうして。


 「星羅ちゃん、そういうの好きなんだよ。

  奨学金担当。」


 ぇ。

 なんで、そんなこと。


 「カネが動くところは、抑えとくもんだぞ。」


 ……ちがう。


 「政府のカネは勿論貰いに行くが、

  美味しいのは、金持ちの事業者が個人的に道楽でやってるやつだ。

  あとは県人会とかな。うちの高校のOB会の個別基金もある。


  古いのだと、明治時代からのやつもあるぞ。

  お札になった奴も貰ってたっていうぞ。」


 分かる。

 わたしのため、だ。

 わざわざ、調べてくれたんだ。


 「雨守。

  お前は、賢い。」


 だめ、だ。


 「学年で三十位以内に入れば、

  星羅ちゃん、目の色変えて来るぞ。」

 

 精悍な瞳の輝きが、笑顔が、眩しくて。

 深い声で、限りない優しさで。


 「大丈夫。

  お前は、やれる。」

 

 わたしを、包んでくる。

 

 「絶対に。」


 こんなの。

 こんなの、もう、

 無理、だよっ……。


*


 命を賭けて、死にもの狂いで勉強した。

 やれることは、ぜんぶ、やりきった。

 

 ただ。


 「おおおう、マジかよ。

  すげぇなお前。」


 思ったより、ちょっと良かった。


 「……えへへ。」


 安心して、言葉を、話せる。

 馬鹿に、しなかったから。

 優しい目で、頷いてくれたから。


 「学年三位か。できすぎなくらいだけど、

  ……ほら、やっぱそうじゃん。」


 ?


 「笑ったら可愛かった。

  お前、顔、整ってんだよ。」


 !?!?


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