幕間(第20.8話)
「片側を書いて押印した離婚届」
が、都合よく出てきた理由です。
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これは、なんだ。
「少々、やりすぎましたね、山門さん。」
この方は、誰だ。
「幕下の者は、大事になさらないといけませんよ?」
私は、何を見ていたというのだ。
「何か、お申出になられることはございますか。」
*
葉菜お嬢様は、美しい方だ。
生母から受け継いだ、波打つような甘いブロンドの髪、
暖かな栗色の大きな瞳、形の良い唇と少し小さな耳。
なによりも、人を癒す、麗しい声。
私がこの家に経理責任者として雇われた時には、
葉菜お嬢様の美しさは、完成していた。
紛れもなく、この濁世に降臨された天使だった。
その完璧な容姿にも関わらず、
常に寂しそうに微笑まれる葉菜お嬢様は、
どうにもならないご自身の悲運を、
幼心に受入れておられるものとばかり思っていた。
あの時。
風向きが変わったと、知るべきだった。
*
「東郷建設の嫡子が、やらかしたようだ。
先方から、丁寧な詫びが入ってしまった。
こちらからは、どうにもならない。」
結婚を来年に控えた筈の相手から、婚約を解消される。
旦那様から、無表情で告げられた時、
葉菜様の未来に、暗雲が垂れ込めたように感じられた。
沢名家には、葉菜様以外に、有力な後継候補が三人いる。
そのトップが、光澤昇様。
名門、奥御門家の血を継がれる男子であり、先代様の血を継がれている。
五百年の歴史を持ち、血に拘りがある沢名一族は、
昭和以前と見紛うような発言をする者達が溢れている。
東郷建設の御曹司との婚約は、
旦那様が、葉菜様の立場を強化するために進められたものだ。
経済界の名士である東郷家との縁談は、
没落とは言わないまでも、停滞しつつある沢名にも利がある。
葉菜お嬢様と、先方の御曹司との関係は、悪くはないと聞いていた。
それだけに、今回の件は、葉菜お嬢様の未来を絶つものと思われた。
*
予想通り、葉菜様の立場は、沢名一族の中で急速に悪化していた。
旦那様の元には、一族の取り纏めを自称する有力な分家筋の元が、
一か月に一度くらい、入れ替わり立ち代わり訪れている。
接待を供されるのが当然と思っている連中だ。
使用人向けの食費のグレードを削り、備品費を削減しながら応じざるを得ない。
そもそも、使用人は多すぎる。社費で賄える警備隊とは、事情が違うというのに。
そんな時。
「奥様、それは。」
莉緒様が、
自由に使える金を、増やせと言って来た。
「いますぐに、必要なの。
大丈夫よ、数か月だけのことだもの。」
「恐れながら、どのような用途に用いられるのですか。」
「あら。内緒のことよ。
大丈夫。貴方に累は及ばないから。」
意味が、一つも分からない。
会社組織なら、当然、却下すべきものだ。
しかし。
「沢名家は、法人化でもされてたかしら?
ここは、財産管理団体なのかしら。」
旦那様と奥様の意思は、五百年の歴史を持つ沢名家中では、絶対だった。
それを誤った前任者は、莉緒様の手で、旦那様の名により解雇されている。
ごく一部の常勤使用人だけが、その事実を知っている。
旦那様は、莉緒様に骨の髄まで腑抜けにされている。
莉緒様が、離婚届をちらつかせるだけで、
旦那様は、言いなりになってしまう。
確かに、若い頃は、美しかったのだろう。
だが、莉緒様が恐ろしいのは、容姿などではない。
旦那様が、離婚を恐れるのは、
旦那様が、
「家のために、機動的に必要なお金があるの。
なんだったら、離れの金庫にあるもの、売っぱらっても良いのよ。」
この言葉が意味するものが、
分からない者は、沢名家にはいない。
二年前。
先々代の旦那様の奥方様であらせられた昌子様が、失踪された。
この事は、沢名家の家人の中で、ごくごく一部の者だけが知る枢機だった。
現に、離れには女中が雇用され、昌子様の食事代も計上されている。
だが。
私は、見てしまっていた。
昌子様が、
「……御冗談を。」
私の声は、私が想像するよりもずっと、弱々しかった。
「わかるでしょう、山門さん。
保護責任者遺棄致死罪。
貴方も、同罪なの。
そうじゃぁない。
貴方こそ、お母さまを殺めた犯人なのよ。」
少し割れた莉緒様の唇から出た言葉は、
私にとって、破滅を意味した。
「むろん、そんなことはありませんわ。
でもね、この屋敷にいる者は、皆、天道から外れてしまったの。
この私も、旦那様も、皆。」
だからと言って。
「子どもさん、再来年には大学生ですって。
進学祝いは何が良いかしらね。」
……子どもの、ために。
私は。
*
資産運用先のうち、旦那様の報告を要さないものを搔き集め、
マージンの高いリスク債に極秘に振り替えたり、
備品費を先送りし、修繕計画を差し止めるなどして、漸く搔き集めたカネが、
莉緒様の元で、得体の知れない者共のために使われていく。
「これでは足らないわ。
もうちょっと融通できないの?」
さすがに、我慢できなかった。
どれほどの苦労をしてこのカネを融通していると思っているのか。
「そんなこと、くどくど言わなくて良いわ。
しょうがないわねぇ。
あと二か月でいいのよ。」
「ですが。」
「貴方、気に入らない者がいたでしょう。
解雇なさい。」
いないわけではなかった。
だが、それは。
「貴方から、旦那様にお申出なさい。
そうすれば、わたしにそのような口を利いたこと、見逃して差し上げますわ。
昌子様を殺めた犯人さん。」
魅入られてしまっている。
そうだと、分かっていても。
「あと、一か月でいいわ。
そう、たったの。」
高校生活を謳歌する娘の顔が、私の頭にちらついた。
*
左右を固め、私を射殺さんばかりに睨む警備員達を従え、
物証、証言をすべて揃え、淡々と私を追い詰められた葉菜様は、
この柔らかいお顔のどこに隠しておられたのかと思われる
人を嬲り殺すような覇気を、ふっと、緩められ、
栗色の瞳で、柔らかく私を包み込まれた。
「山門さん。
何か、お申出になられることはございますか。」
申し出ること。
天使様に、申し出なければいけないこと。
なにか、悪しき魔法が解けたような感覚があった。
そうだ。
あの女を。
あの女狐を、処分しなければならない。
私は、知っていた。
あの女狐の頸動脈を、ひと思いに掻き切る方法を。
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