第2話 檜錦

「どうしたものかなぁ」


 青年はあきれた声を漏らす。

 辿たどり着いたのは低い山を背に建つ大きな門の前だった。

 中に屋敷があるのだろうが門が視界を遮っている。門の左右も築地ついじで覆われていた。

 匂いはこの中からしている。

 表札をのぞき込む。木に黒い文字が彫り込まれたもので、そう古くはない。門や築地ついじと時代が合わないから、書き直したものだろう。

 

 門がきしむ音がした。

 ふところに手をやり、懐中時計を見る。

 朝の七時半。冬の休日にしては早起きだ。

 

 ――いきなり、戦うってことは、ないだろうな。

 

 身構えつつ、青年はじりじりと開く門に目をこらす。

 門を開いたのは、青年よりこぶし一つ分、背の高い少年だった。

 栗色の髪に柔和な顔つき、髪色に合ったベージュの羽織袴姿。

 唯一、不穏ふおんなのは、腰に差した刀。


 ――今は、いったい、いつ?


「ええと、あの」


 青年の戸惑いは意味のない言葉に変じた。


「あ」


 青年を認めた少年が表情をゆがめ、身体をふるわせた。それは一瞬で、すぐに柔らかく首をかしげて微笑ほほえむ。栗色の髪が揺れた。髪は緩く波打って、傷みはまったくなく、染めた形跡もない。


 夜を徹して歩いたために幻影を見ているのだろうか、と、青年は目眩めまいを覚えた。

 

「どなたさまでしょうか」


 少年の問いに、はあ、と間抜けな返事をし、尋ねる。


「その前に、よろしいですか。今は、何時代でしょうか?」


「平成七年、十二月です」


 紛れもなく今年のことだ、と思いながら、青年は額を手のひらでこする。


 昭和が遠くなりつつある一九九五年。この年の初めに、関西で大きな地震があった。三月には地下鉄サリン事件があった。

 数年前にバフル経済が弾け、ただでさえ混乱した世情の中、青年たちは混沌こんとんに巻き込まれ、ひっかき回されている。

 それ以外にも、この国自体が抱える閉鎖性と伝統に崩れも見られ、生活も文化も西洋的、東洋的、どうとでも取れるかと思えばどちらでもない、独自性というには未完成な状況だ。

 

 日本が先進国になるのに費やした百年と、勢いを失い成熟する次の百年をつなぐ時代に自分たちがいるのを、青年は自覚していた。

 

「そうですか。よかった」


 こういうのも今っぽいよな、と青年は自分に言い聞かせて、言葉を継ぐ。

 

「すみません。ちょっとびっくりしたんです。何せ、僕がこんなふうで、あなたもそんな格好じゃあ、違う時代に迷い込んだのかと思いますって」


 あはは、と乾いた声で笑う。


「それで? 当家に何のご用です」


 少年の緊張した視線が、青年の上を行き来した。


「ずいぶん立派なお家ですね。僕みたいな庶民には縁がないはずなんですけれど。ええと、あなたは、ひのき……」


 再び表札を見る為に首をひねると、少年が素早く答えた。


にしき。今はこの家の家長をしています」


 ――当家、に、家長、か。


 家父長制は日本国憲法の公布と共に廃止されたんだけどな、と思いながら、現一狼は早く帰りたい、と思った。古風で、しきたりだのならわしだの、面倒ごとが多そうな家とは関わりたくなかった。

 早く状況を確認して離れよう、と青年は爪先立って屋敷をのぞこうとする。


「名乗ってください」


 少年が腰を落とし、刀に手をやり、鯉口こいぐちを切った。


「あなたに僕はれませんよ」


 青年はちらりと見て、これは本当に早めに終わらせたほうがよさそうだ、と姿勢を正す。

 

「それよりも、この屋敷にある新鮮な死体、どなたのものですか」


 青年は少年を真正面から見据みすえた。

 少年は刀を鞘に収め、つかから手を離す。

 

「死体」

「ありますよね? それを訪ねてきたんです」


 少年は答えない。門扉もんぴに手をやり、じっと青年を見つめている。

 

「いや、犯人探しをしようとか、そういうのじゃありません。僕に関係のない死体だったら、早々に退散しますから」


 青年は慌てて説明した。


「あなたに関係のある死体って、どういうことです?」


 警戒心を増した少年に、いまさらながら、言い方を間違えた、と思った。


「そうだ。表札には、錦さん、あなたの名前は三番目にありましたよ。最初がひのき惣時郎そうじろうさん、次がなつさん、そして錦さん、最後にええと」


 漢字は思い出せたけれど、読みがわからない。頭を悩ましていると、錦少年が涼しい声で答えた。


「弟のあつみです。あの字だけで、あつみと読むのは珍しいですから」


 ああどうも、と青年は軽く手を上げる。いい家の名前はわからない、と心の中でぼやきながら。


「惣時郎さんと夏美さんはご両親ですか」


 それでは、錦が家長というのは合わないな、と青年は不幸な予想を立てる。


「両親は四年前、事故で亡くなりました」


 やはり、と、青年は思わず手を合わせた。


「ご冥福をお祈り申し上げます。他に、誰かいらっしゃいます?」

「執事一人、使用人二人、家庭教師が一人」

「いえ、通いのかたはいいです。住み込みの人だけ」

「全員住み込みですよ」


 錦が笑った。


「家庭教師も?」

「そうです。僕は受験生ですし、弟も来年ですから」


 だからって住み込むことはないだろう、と青年は突っ込みを入れたかったが、死体を見せてもらえないと困るからやめることにした。


「あのう」


 意を決し、青年は極力きょくりょくさわやかに笑いかける。


「お水をいただけませんか。できたら、ちょっとだけ、縁側にでも上げていただけると」


 ――無視して門を閉ざしてしまうのなら、その前に潜り込もう。

 

 青年が慎重と言うよりは強引な思考を練っていると、錦の笑い声が聞こえた。


「どうぞ」


 ――どうぞ?


 意味だけが思考回路で処理され、感情が追いつかない。


「え、マジで?」


 錦が笑顔でうなずいた。


「お茶くらいれさせます」


 青年は自分の好運に安堵あんどした。


「大歓迎ってわけにはいきませんけれど」

「やだな、錦さん。そんなきついこと言って」


 青年がにこにこして答えると、錦も笑顔を崩さずに言い返す。


「冗談は言わない性格なんです。屋敷に入られるのでしたら、お名前をどうぞ」


 青年は、錦の言葉を先読みして門をくぐっていた。

 門の裏には大きなかんぬきがある。さっき、門がきしんだように聞こえたのは、これを外している音だったのだろう。

 

 ――門は内側から閉まっていたのか。

 

 錦が背後から近寄るのがわかった。青年は数歩進む。


「名前なら」


 新井あらいうつつ

 本名が口から出そうになるのを、押さえ込む。

 

「……現一狼げんいちろうと申します」


 門の中には、木造の日本家屋が低い山の手前を守るように構えていた。

 匂いは建物の二階らしい。そう検討をつけて、玄関の引き戸に手をかけた。


「やはり、現一狼さんでしたか。いらっしゃるかもしれないと思っていました」


 深い溜息ためいきと、言葉が聞こえた。


 ――僕が来るのがわかっていたなんてことが、あるわけない。


 現一狼は振り返って、錦を見ようとした。


 そのとき、戸が開いた。

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