第2話 檜錦
「どうしたものかなぁ」
青年は
中に屋敷があるのだろうが門が視界を遮っている。門の左右も
匂いはこの中からしている。
表札を
門が
朝の七時半。冬の休日にしては早起きだ。
――いきなり、戦うってことは、ないだろうな。
身構えつつ、青年はじりじりと開く門に目をこらす。
門を開いたのは、青年より
栗色の髪に柔和な顔つき、髪色に合ったベージュの羽織袴姿。
唯一、
――今は、いったい、いつ?
「ええと、あの」
青年の戸惑いは意味のない言葉に変じた。
「あ」
青年を認めた少年が表情を
夜を徹して歩いたために幻影を見ているのだろうか、と、青年は
「どなたさまでしょうか」
少年の問いに、はあ、と間抜けな返事をし、尋ねる。
「その前に、よろしいですか。今は、何時代でしょうか?」
「平成七年、十二月です」
紛れもなく今年のことだ、と思いながら、青年は額を手のひらでこする。
昭和が遠くなりつつある一九九五年。この年の初めに、関西で大きな地震があった。三月には地下鉄サリン事件があった。
数年前にバフル経済が弾け、ただでさえ混乱した世情の中、青年たちは
それ以外にも、この国自体が抱える閉鎖性と伝統に崩れも見られ、生活も文化も西洋的、東洋的、どうとでも取れるかと思えばどちらでもない、独自性というには未完成な状況だ。
日本が先進国になるのに費やした百年と、勢いを失い成熟する次の百年をつなぐ時代に自分たちがいるのを、青年は自覚していた。
「そうですか。よかった」
こういうのも今っぽいよな、と青年は自分に言い聞かせて、言葉を継ぐ。
「すみません。ちょっとびっくりしたんです。何せ、僕がこんなふうで、あなたもそんな格好じゃあ、違う時代に迷い込んだのかと思いますって」
あはは、と乾いた声で笑う。
「それで? 当家に何のご用です」
少年の緊張した視線が、青年の上を行き来した。
「ずいぶん立派なお家ですね。僕みたいな庶民には縁がないはずなんですけれど。ええと、あなたは、
再び表札を見る為に首を
「
――当家、に、家長、か。
家父長制は日本国憲法の公布と共に廃止されたんだけどな、と思いながら、現一狼は早く帰りたい、と思った。古風で、しきたりだのならわしだの、面倒ごとが多そうな家とは関わりたくなかった。
早く状況を確認して離れよう、と青年は爪先立って屋敷を
「名乗ってください」
少年が腰を落とし、刀に手をやり、
「あなたに僕は
青年はちらりと見て、これは本当に早めに終わらせたほうがよさそうだ、と姿勢を正す。
「それよりも、この屋敷にある新鮮な死体、どなたのものですか」
青年は少年を真正面から
少年は刀を鞘に収め、
「死体」
「ありますよね? それを訪ねてきたんです」
少年は答えない。
「いや、犯人探しをしようとか、そういうのじゃありません。僕に関係のない死体だったら、早々に退散しますから」
青年は慌てて説明した。
「あなたに関係のある死体って、どういうことです?」
警戒心を増した少年に、いまさらながら、言い方を間違えた、と思った。
「そうだ。表札には、錦さん、あなたの名前は三番目にありましたよ。最初が
漢字は思い出せたけれど、読みがわからない。頭を悩ましていると、錦少年が涼しい声で答えた。
「弟の
ああどうも、と青年は軽く手を上げる。いい家の名前はわからない、と心の中でぼやきながら。
「惣時郎さんと夏美さんはご両親ですか」
それでは、錦が家長というのは合わないな、と青年は不幸な予想を立てる。
「両親は四年前、事故で亡くなりました」
やはり、と、青年は思わず手を合わせた。
「ご冥福をお祈り申し上げます。他に、誰かいらっしゃいます?」
「執事一人、使用人二人、家庭教師が一人」
「いえ、通いのかたはいいです。住み込みの人だけ」
「全員住み込みですよ」
錦が笑った。
「家庭教師も?」
「そうです。僕は受験生ですし、弟も来年ですから」
だからって住み込むことはないだろう、と青年は突っ込みを入れたかったが、死体を見せてもらえないと困るからやめることにした。
「あのう」
意を決し、青年は
「お水をいただけませんか。できたら、ちょっとだけ、縁側にでも上げていただけると」
――無視して門を閉ざしてしまうのなら、その前に潜り込もう。
青年が慎重と言うよりは強引な思考を練っていると、錦の笑い声が聞こえた。
「どうぞ」
――どうぞ?
意味だけが思考回路で処理され、感情が追いつかない。
「え、マジで?」
錦が笑顔でうなずいた。
「お茶くらい
青年は自分の好運に
「大歓迎ってわけにはいきませんけれど」
「やだな、錦さん。そんなきついこと言って」
青年がにこにこして答えると、錦も笑顔を崩さずに言い返す。
「冗談は言わない性格なんです。屋敷に入られるのでしたら、お名前をどうぞ」
青年は、錦の言葉を先読みして門をくぐっていた。
門の裏には大きな
――門は内側から閉まっていたのか。
錦が背後から近寄るのがわかった。青年は数歩進む。
「名前なら」
本名が口から出そうになるのを、押さえ込む。
「……
門の中には、木造の日本家屋が低い山の手前を守るように構えていた。
匂いは建物の二階らしい。そう検討をつけて、玄関の引き戸に手をかけた。
「やはり、現一狼さんでしたか。いらっしゃるかもしれないと思っていました」
深い
――僕が来るのがわかっていたなんてことが、あるわけない。
現一狼は振り返って、錦を見ようとした。
そのとき、戸が開いた。
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