第16話 新井

 十分後、錦が持ってきた芳名帳を三人でのぞき込む。

 新井姓の者は二名。

 新井青と、新井明。

 後者に覚えはない。「新井」というのが本名なのかもわからない。わざわざ「新井」をと書いたのだから、意味はあるのだろう、と現一狼は推測する。


 ――あいつ、養子縁組みでもするつもりなのか。


 あの組織の頭領なら、やりかねないことだ。代々、子どもが受け継いでいくことになっているが、たとえ実子でも、見込みがないとなったら殺して、有能な者を養子にして跡を継がせるのがならわしだった。


「二人とも、『龍』ですか」

「わかりません。ともかく、檜家が『龍』に目を付けられているのはわかりました」


 それも、檜惣時郎の時代からだ。しかも、先代の現一狼も関わっている。檜家が「龍」と先代のどちらに先に関わったのかはわからないが、運命を共にする立場ではあったと言えそうだ。

 四十年前といえば、まだ、第二次世界大戦が終わって十年しか経っていない。戦後と言われた時代だ。GHQの占領が終わって数年の頃の夢現流は混乱していて、古参の人でも記憶が曖昧だった。戦争で先々代の現一狼が死んだ後、二十七代が決まるまでにひと悶着もんちゃくあったと聞いている。先代は抜かりのない男だったが、その頃はまだ継いだばかりで、ヘマをして檜家を巻き込んだかもしれない。


 ――復讐ふくしゅうされてもしかたないのは、夢現流側かもしれないな。


 現一狼は、前に渥にいらだちをぶつけたことを思い出し、恥じた。


「接触してきている以上、気をつけないといけないな。とりあえず、ひろ子さんと由希ちゃんは、夜は中野先生の家に行ってもらおうか。急だけど、ひろ子さんを育てていた中野家なら、母子おやこまとめて迎え入れてもらえると思うんだけど」


 錦が珍しく困った顔をして、顎を指でつまむ。


「うまくいくかな、兄さん。だって、ひろ子さん、夫を亡くしたあと、中野家が面倒見るって言ったのを断って、小学生の由希ちゃんを連れて、うちに住み込んだって」


 渥も心細げに眉をしかめている。


「十代のころにうちで働いたことがあったからそうしただけだ。仲が悪いとは限らない。岩田さんに頼んでみよう。僕が言い出すと、命令じみてよくないんだ」

「わかった。で、岩田さんはどうするんだ」

「悪いけど、残ってもらおう。僕も、さすがに『龍』相手では自信がない。しばらく岩田さんの部屋で過ごすよ。渥は現一狼さんに守ってもらえ」


 勝手に話が進んでいく。現一狼は、それって自分はいつまでここにいればいいんだろう、と思った。


「ええ? だって、こいつ」


 渥があからさまに身体を引いて、げえ、という顔をした。


「大丈夫。現一狼さんは自分から襲ったりはしない。できないんだ。したら、破門ですよね?」


 急に話を振られて、現一狼は苦笑した。


「よく知っていますね」


 いったい、先代はどこまで話しているんだろう、と半ば呆れる。


「確かに、僕は相手が攻めてこないとこぶし一発出せないことになっていますよ。別に、渥さんを守るのはやぶさかじゃないけど」


 警戒するだけならいい。だが、本当に「龍」が来るというのなら、一人で対応したほうが、気が楽だった。岩田や錦ならかろうじて逃がすことができるだろうが、戦いのイロハを知らないであろう渥を無事に逃がせる自信がない。

 かといって、現一狼が立ち去れば檜家は安泰かというと、そちらにも自信がなかった。


「ええ、マジかよ」


 渥が両手を頭にやった。しばらく顔を伏せて考え込んでいたが、不意に頭を上げた。


「おい、あんた、好きな人はいるのか」

「は?」


 突然の質問だった。


「答えろ」


 だが、渥は真剣だ。


「ええと。現一狼っていうのは、各地を旅して歩いているものですから、女性との出会いってのがほとんどなくて、ですね」


 そもそも、立場上、付き合う女性を見つけようとはしていなかった。まともな家庭が築けるとも思えないからだった。

 渥はしばらく、じっと現一狼を見ていた。だが、ふうっと息を吐くと、髪をくしゃっとつかむ。


「わかった。いいよ。兄さんの言うとおりにしよう。今晩から俺の部屋に来いよ」


 現一狼はきょとんとする。さっきまであんなに嫌そうにしていた渥が、どうして夜間に現一狼と共に過ごすことを許したのかわからなかった。


「渥さんは、好きな人いるんですか?」


 いったいさっきの質問は何の役に立ったのだろう、と思いつつ、現一狼は同じ質問を返した。


「え、いや」


 渥の戸惑った視線が本棚に向いた。流行の漫画や、科学雑誌らしき背表紙が並ぶ中に、エラリー・クイーンや江戸川乱歩が混じっていた。

 錦が、くすくすと笑い出した。


「なるほど、あの子、ミステリー好きだよね」

「うるさい! 俺は、勧められた本をそろえているだけだよ」


 どうやら、二人の知人に渥の思い人がいるらしい、と気づいて、現一狼は窓の上辺りに視線を移す。


「ええと、じゃあ、僕、応接間から布団を運んできていいですかね?」


 人のことであっても、恋の話はむずがゆい。自分に縁がないと思えばこそ、まぶしくもある。


「いいぞ。どーんと持ってこい。いくらでも来い」


 顔を真っ赤にした渥が、適当な答えを返す。錦がとうとう、大きな声を上げて笑った。

 暖かな空気が部屋に満ちる。現一狼は味わったことのない雰囲気だった。意味のない、ばかばかしい、恥ずかしくて、優しい、柔らかな空間。

 こんなものが世の中にあるのなら、もう少し、浸っていたいな、と思いながら、現一狼は部屋を出た。

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