魔女の末裔 ― アニヤ ―

 部屋の電話が鳴ったのは午前三時ごろだった。トロルーカーリーのリーダーであるカロリーナ・ルドバリからの直接の連絡で、眠っていたアニヤの意識は急速に覚醒した。そして、与えられた任務の内容を聞き漏らすまいと必死だった。こういうときに限って隣室で眠っている母親のいびきが耳に触り、アニヤはいつも以上に母親という存在を恨む。

 

「理解できた? アニヤ」

「はい、もちろんです。しかしあの、一つお訊きします。この任務の担当にわたしを選んだ理由はなんなのでしょうか? 特区での捜査なんて、わたしより階級が上のメンバーの方が相応しいと思うのですが」

「階級と実力がイコールじゃないことは、あなただってわかっているでしょう? さっきも別場で似たようなことを話したわ……」

 

 顔が火照るのを感じる。見えないとわかっていてもアニヤは受話器越しに頷いた。

 

「それにまぁ、いまのやり取りで確信したのだけど、特区にいる協力者との相性も考慮しての人選でもある。あなたならかれときっとうまくやれると思うのよ、アニヤ」

「ありがとうございます。ベストを尽くします。いつから開始しますか?」

「午前九時のシャトルバスで出発してもらいたいの。数日間分の着替えやあなたの魔術に必要な最低限のものを用意して、二時間後に本部のわたしの部屋に来てちょうだい。ブリーフィングを行うから。詳しい話はそこで」

 

 そこからは大忙しだった。身支度を済ませたアニヤは急いでフラットを出た。母親には会いたくなかったため、リビングのテーブルに仕事でしばらく留守にする書き置きを残すに留めた。

 

 本部に着いてからは改めて任務の詳細と偽装身分の説明。入区管理局の突破方法や特区についての注意事項を聞いた。

 

「アニヤ、あなたが特区にどんなイメージを持っているのかは知らない。でも確かなことはこことは何もかもが違うということ。魔術ゲットーのいまが特区では既に歴史になっている。あの忌々しく高いオーダリウスの壁の外側は異世界だと思ってちょうだい。あなたの常識は恐らく一度粉々になる。でもそれはあなたに限った話ではなく、ここから外に出た魔術師は必ずそうなるの」

 

 ルドバリが前髪をかきあげて小さくため息を着くと、机の上に置いてあったシルバーのシガレットケースから煙草を一本取り出し火をつけた。ルドバリはどんな仕草でも絵になる美人だった。四十を越えているはずだが三十代前半くらいに見える。アニヤとってルドバリは目標であり憧れだった。だからこそ今回の任務は絶対に成功させ、期待に応えたいという気持ちが強い。

 

「正直、わかりません。特区にはもちろん憧れがありますし、任務ですが興奮しています。雲に覆われていない太陽はどんなものなのか。海や星を観ることが出来るのだろうか。いろいろ思います。でもわたしは何より任務を帯びて行くんです。そこは絶対にぶれません」

 

 ルドバリが優しく静かに微笑む。

 

「本音を話してくれて嬉しいわ、アニヤ。何度も言うけれど、やはりあなたを選んで正解だった。いい? だとしても、どれだけあなたが強く思っていても必ず惑わされる。でも特区の協力者があなたを助けてくれるから心配しないで。あなたたちどこか似ている。口ではどうこういっても、かれもわたしの頼みは必ずやり遂げる人だから」

 

 ――その協力者って、あなたにとってどういう人なのでしょうか。

 

「ちなみにその協力者なのですが、わたしについて……知っていますか?」

「わたしの知る限りかれは知らないと思う。仮に知っていたとしても、あなたに対する態度はきっと変わらない。あなたをあなたとして見てくれるわ」

「わかりました。その方の資料や写真はありますか?」

「……わたし個人のツテだから、そういったものはないの」

 

 アニヤは不自然な間があったことに気がついたが、ルドバリがそういう以上、言及するのはやめた方が得策と判断し口をつぐんだ。

 

「境界トンネルにある入区管理局の審査ゲートを抜けた先のロビーまであなたを迎えにくるように伝えてある。向こうからあなたを見つけるでしょうし、あなたも一目見たらわかると思うわ。名前はダニエル・フォシェーン。年齢はあなたと同じくらいよ」

 

 思っていたより若かった。

 

「他に訊きたいことはある?」

 

 アニヤは少し考えてから首を横に振る。

 

「いえ。というか、なにが適切な質問かわからないです。時間もないですし、あとは現地での判断になるのかなと思っています」

「適切な判断ね。きっとそうなると思う。それじゃあ早速取り掛かってちょうだい。期待しているわね、アニヤ・プリンシラ」


 ※

 

 魔術ゲットーと特区は南の山脈から北の海までオーダリウスの壁という名の巨大な壁で区切られている。この壁はさらにゲットーを取り囲み、どちらを見ても最終的に見えるのは壁だけだ。この壁がどのようにして造られたのか誰も正確なところは知らない。昔、いまのゲットーがある地に魔術師たちを追いやった人々。その人々に選ばれた七人の魔術師によって造られたという神話が残っているだけだった。そしてその時から壁の内側は常に雲に覆われるようになり、魔術師は太陽と星を失った。魔術ゲットーは常に薄暗く、寒い。魔術師たちが生き残るには自分たちの魔術を改良し、工夫するしかなかった。

 

 そうして魔術が発達していくなかで失ったものがもう一つある。それは科学だった。反面、特区は長い歴史をかけてどんどん科学を発展させていき、いまでは両者間の科学力の差は数十年と言われている。

 いまアニヤが乗っているバスも特区のものだし、走っているこのトンネルも特区側から掘られ、広げられ、整備されたものだった。

 トンネルの中を照らすオレンジ色の照明をアニヤは見つめ続けていた。定期的に迫っては流れていく一定のリズムが眠気を誘う。照明がやがて人魂のように見えてきて亡くなった父親のことを思い出した。

 

 ――特区に留学が決まったとき、父さんはとても喜んでくれた。

 

 しかしアニヤが留学することはなかった。そのすぐ後に父親が他界し、母親がなにを考えたのか自分とアニヤを旧姓に戻した。呪われたプリンシラという苗字に。

 

 最初は父親の死に同情的だった友人たちも、プリンシラという姓には誰も近付かなかった。あらぬ噂や身元保証の観点からアニヤの留学は取り消され、他の人物が留学枠を手に入れ、そこからアニヤの人生は狂い始めた。

 高校を卒業後、父親と同じ治安維持隊に志願した。父親は英雄的な存在であったことと、いつでも人手不足なことも相まってアニヤは入隊を許可された。しかしここでもプリンシラの姓は呪われていた。

 

 魔女エーヴァ・プリンシラ。

 魔術ゲットーの中でも貧富の差がある。エーヴァ・プリンシラは弱者から搾取する富裕層のみを狙う盗賊で、盗んだ金銭を貧困層にばらまいた。その行いから義賊と記す歴史書もあるが、エーヴァは押し入った家の家族全員の血を抜くという方法で殺害した。現場からは一滴の血液も採取されず、その奇異姓、残虐性の方が目立って後世に伝えられている。それ以来、プリンシラという姓は差別の対象となり、一族は自分たちの苗字を隠すようになった。

 エーヴァ・プリンシラの末裔はまだゲットーにいるかもしれないが、いま名乗っているのはアニヤと母親だけだった。その姓のせいで隊にもうまく馴染めず、誰よりも強い魔力と仕事の成果も正しく評価されず、アニヤは常に孤独だった。

 

 この状況はトロルーカーリーに引き抜かれても変わることはなかった。だが、とアニヤは思う。いま特区へのバスに乗っているのは自分だった。ルドバリは自分を評価してくれていたという歓びはアニヤの自信に繋がる。それに父親が言っていたことを思い出していた。特区へ行けば将来が広がる、と。アニヤの父親は娘が特区へ行くことを自分のことのように喜んでいた。

 

 ――この任務を成功させればあの世にいる父さんも喜ぶだろう。それに……もしかすると母親あの人も前のように笑うかもしれない。

 

 シャトルバスが停車して、アニヤの意識は現実に引き戻された。入区ゲートの先にあるラウンジで商売をする露店商たちが我先にとバスを降り入区審査を受けにいく。アニヤもはやる気持ちを抑えられないといった態で周囲に溶け込むようにしてバスを降りた。降車場はロータリーになっていて、その先にガラスで仕切られた入区審査ゲートがある。あれはすべて防魔ガラスなのだろうかとアニヤは眺めた。魔術ゲットーで防魔ガラスと言えば高級品でこんなに広い面積で使用されているのを観るのは初めてだった。

 

 列に並び手続きを行う。アニヤが露店商ではなく文化交流団の一員として入区すると伝えると、手荷物が詳細に調べられた。

 

「これは何に使いますか?」

 

 係員が大量の羽根飾りを指さして言う。

 

「演奏会で楽団員の飾りつけとして使います。針がありますが危険なものではありません」

 

 係員は、そんなことはわかっているという風にうなずき、自分の特区標準語に違和感がなかったかアニヤは少し心配になった。

 

 服や下着も念入りに調べられ、それらは予想されていたことだがやはり気分が悪くなった。特区では服や下着を買えるだろうか、という疑問がアニヤの頭に浮かぶ。ルドバリは特区のことを異世界と言ったが人が住んでいるという点は同じだ。買えるに決まっているのに何故こんな疑問を感じたのだろうか。

 

「この薬はなんです?」

 

 一番危険なところだった。この赤いカプセルに入った薬はアニヤが魔術を使うのに必要なもので万が一取り上げられると困ったことになる。ルドバリは問題ないと言っていたが緊張を必死に隠しながらアニヤは答える。

 

「持病の薬です。わたしは持病があってこの薬は発作を抑えるためのものです。特区で認可はされていませんが魔術ゲットーからは医薬品として申請がされていて安全なものです」

「その持病は空気感染したりするものですか? あなたが他のメンバーより遅れてきたのはその持病に関係していますか? だとすると、精密検査を受けてもらい完全に害がないとわかるまで隔離施設に入ってもらう必要がありそうです。いずれにせよ、確認を取りますので少し待ってください」

 

 係員はそう言うと、インカムに向かって状況を説明し始める。アニヤの後ろに並んでいる人々からは時間がかかっていることに対する苛立ちが感じられ始めていた。

 

「はい、はい、そうです……え? しかしこういうケースの場合は……はい……はい、わかりました。そのように対応します」

 不満と驚愕が混ざりあったような表情で係員がアニヤに向き直る。

 

「あなたの入区許可は既に降りているので既定の手続きを行うようにとのことでした……。わたしはこの荷物を片付けるので、あなたはこのチョーカーを首に巻いてください」

 

 なるほど、とアニヤは思う。ルドバリが問題ないと言っていたのはこういうことだったのだろう。裏でなんらかのやり取りが行われたのは間違いない。

 

 アニヤは申し訳なさそうな表情を浮かべ、チョーカーを受け取った。入区自体は問題なさそうだが最後の問題はこの黒色のチョーカーだった。一度これをつけると特別な装置がなければ外せない。

 チョーカーのバックルを留めると、首にチクりと痛みが走った。アニヤが顔をしかめると係員がうなずく。

 

「それで良いです。特区ではあなたの位置と魔術の使用についてすべてモニタリングされています。魔術の使用は当然禁止されていますし、予定されていない場所に行かれた場合も逮捕となりますので気をつけてください」

「わかりました」

 

 まるで奴隷の首輪だとアニヤは思った。これも協力者がどうにかしてくれるのだろうか。魔術が使えなければ操作を行うことが出来ない。

 

「では、良い特区を」

 

 アニヤは入区審査ゲートを通り抜けた。体の中を興奮が走り抜ける。

 自分はゲットーの誰もが一度は夢見る特区へと、足を踏み入れた。

 

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