変身 ── アニヤ ──
ダニエルが電話をしてくると言ってバルコニーに出て、アニヤは大きく息を吐き出した。まだ顔が火照っているような気がし、手で顔を扇ぐ。
――危なかった。本当に、危なかった。
あのとき電話が鳴らなければどうなっていたのかと思うと胸が苦しかった。
父親が亡くなる前、アニヤがまだプリンシラではなかった時は好きになった異性もいた。実際に付き合ったりはしなかったがお互いに好意を抱いていると感じられる友人もいた。その彼と実際に付き合ったらどういう過ごし方をするのだろうかと考えては夜な夜なベッドの中で一人クスクスと笑っていた。
しかし、プリンシラを名乗るようになって彼はすぐに別のクラスメートと付き合い始めた。そのあとも誰かを好きになる余裕などなかった。自分はこのまま一人で生きていくのだろうと漠然と思っていた。そしてそれはアニヤの強さになった。
いま、その強さの素に一筋のヒビが入ったことにアニヤは気がついた。孤独の恐怖が押し寄せ、誰かと一緒にいる居心地の良さにしがみつこうとしている。
――ドニーはわたしのことが好きなのだろうか……。わたしは彼のことを……。
再び胸が苦しくなる。もはや疑いようがなかった。自分はいま、恋をしている。それを認めた途端に甘美な気持ちが麻薬のように全身に広がっていく。
恐るおそる回りを見渡すと、目に映る全ての景色が変わって見えた。窓から射し込む陽の光も、お洒落なソファやコーヒーカップも、その全てを通してダニエルと自分が見えた。そこにいる二人は幸せそうに笑いあっている。
いや、とアニヤは首を振った。いま自分にはやるべきことがある。それを中途半端にすることだけは絶対に考えられなかった。
この事件が終わったら、とアニヤは思った。その時には結果がどうなろうと自分の気持ちをダニエルに伝えようと決めた。それまではもどかしいこともあるかもしれない。でもいま自分が最優先にすべきことはやはり事件の解決だ。期待して任せてくれたルドバリ、今となっては何者なのかわからないが恐らく危ない橋を渡って協力してくれた母親。そして、いつも自分の幸福を願ってくれていた父親。やるべきことをしっかりやらないとそういった人たちに顔向けが出来ない。
「アニヤ」
バルコニーのドアを開けてダニエルが戻ってくる。
「これから今夜のパーティーに向けて色々準備をする。パーティーは十九時からだからあと四時間くらいしか時間がない。急いで出かけよう」
――ドニーはやはりプロだ。すぐに気持ちを切り替えている。わたしもパートナーとして恥ずかしくないように行動しないと。
「わかった。わたしはすぐにでも出られるよ」
「よし。作戦は道々考えよう。まぁ、良いのが思い付けばいいんだけど……」
アニヤにとってはもうお馴染みになった、銀色の小さな車に乗って二人は街に出た。魔術ゲットーは特区ほど車が多くない。トロルーカーリーのパトロールも徒歩で巡回することが多かった。一般人は自家用車を持っていないし、何かあればこうして車で移動することが新鮮だった。
――車だけではないけれど。魔術ゲットーの人々はその日暮らしていくことに一生懸命だ。だから本当に有益なものにしかお金を遣わない。特区民は何かをより良く魅せるためにお金を遣うことが多いんだ。より良い住まいに食事、衣服。魔術ゲットーでこんな風にお金を遣えるのは一握りの人たちだけだ。この差はどこから生まれているんだろう。
「第一区までは一時間半から二時間ってところかな。これがただのドライブなら寄り道して特区を紹介するところなんだけど、まぁ、それは今度ね」
特区は山岳地帯を後ろに抱き、五つの平野が半島となって海に突き出している。それぞれの半島は橋で繋がっており、車と電車が移動手段だった。
電車にも乗ってみたかったがダニエルの言う通りそれはまた別の機会になるだろう。
しかし、とアニヤは第二区に繋がる橋から海を眺めながら思う。この事件が解決すれば自分は魔術ゲットーに戻ることになる。次に特区に来るのはいつになるだろうか。そもそもその機会があるのかどうか。
そんな思いで、アニヤはあらためていま眼に映るものをしっかり頭の中に焼き付けておこうと決めた。そう考えると全てが貴重だった。海も、空も、ちらりと左に眼をやるとそこにある、ステアリングを握る右手も。
近代的な建物と歴史を感じさせる建物が混在し、海に向かって大きな川が流れ込む第二区を急いで通り抜け、再び橋を渡り第一区に入る。
「着いたぜ」
ダニエルが車を停めたのは、ビルが立ち並ぶ一画に建てられた古い様式の一戸建てだった。赤レンガには蔦が張り付き、細く高い窓には格子がはめられている。ノッカーが付いたドアの上にはハサミをあしらった木の看板が掲げられていた。
「ここは?」
「おれとアニヤに必要な準備を全てしてくれる場所さ」
中に入るとそこは、見るからに高級そうなスーツやドレスといった衣服が展示されているこじんまりとしたフロアで、展示品と同様に高級そうなスーツに身を包んだ細身の男性が二人を迎えお辞儀をした。
「お久しぶりです、 フェアフォックスさま。またお越しいただけて光栄です」
「こんにちは、ミスター・エドワード。いまは母方の一族の姓を名乗っています。ダニエル・フォシェーンです。こっちはパートナーのアニヤ」
どういうことなのだろうかと思ったが、アニヤは話を合わせてエドワードと呼ばれた男に挨拶をした。エドワードはサッとアニヤの全身を観察し、穏やかに微笑んだ。アニヤのように観察力に優れていなければ気付かないような早業だった。
「頼んだものは、用意できそうですか?」
「もちろんですよ。当店の歴史では飛び込みのお客様以外お断りをしたことはないのですから。ただ、時間はあまりありません。フェアフォックスさまはあちらへ。プリンシラさまはこちらへお越しいただけますか?」
それぞれが別の部屋に案内される。状況が飲み込めない中、一人になる不安はあったが危険なこともないだろうと指示に従う。
案内された部屋は一面が鏡の長い化粧台とシャワーのついた洗面台、そして数多くのドレスが吊るされておりアニヤもここがどういうお店なのかをなんとなく理解した。
――ようは貸衣裳屋ってことね。そっか、パーティーの準備ってこういうこと。
そして部屋には一人の目立つ女性とその横にもう少し控え目な雰囲気の女性がいた。
「こんにちは、サリーよ。こっちは助手のベル。あなたのことはアニヤと呼んでも?」
目立つ女性、サリーが手を差し出したのでアニヤもそれに応じてうなずいた。
サリーは長身のスラリとした体型でジーンズにパーカーという服装だがかなり洗練された印象を与える女性だった。髪はポニーテールにまとめ、とびきりの美人というわけではないが人を惹き付ける魅力を放っている。
ベルの方はサリーより背が低く、ベリーショートに切り揃えた髪に、耳には数えきれないほどのピアスを開けていた。レザーのパンツに白いシャツを来てボーイッシュな女性だった。サリーほどではないがベルも普通の人にはないような雰囲気を漂わせている。
「オーケー。じゃあそこに座ってもらえる? お金持ちのパーティーって聞いてるけど、なにか希望はある?」
「あの、すみません。わたし、突然ここに連れてこられてパートナーとも別々に案内されたばかりなんです。わたしは、わたしがここでなにをすべきなのか知らないんだけど……」
「パートナーって、恋人?」
ついムキに否定しそうになっだが、それではあまりにも子どもっぽいと思い小さな声で否定する。
「わたしたちはそういう関係じゃないの……。仕事の目的が同じだけ」
「ふぅん、なるほど……。まぁいいわ、そういうことで。ねぇアニヤ、あなたパーティーとかそういうなにか、フォーマルな場に行ったことがある?」
フォーマルという言葉の意味を引き出すのに僅かに時間がかかった。記憶する限り公式の場に出たことはなかったのでアニヤは首を振る。サリーはエドワードと同じようにアニヤの全身を観察し、もう一度、ふぅんと言った。
「なんとなくわかったような気がするな。あなたのパートナーって、キザだったりロマンチストだったりしない?」
今度はキザの意味がわからなかったが、ロマンチストはわかったので首肯する。
「それはもう、なんていうか……。芝居がかってることは多いかもしれない。歯の浮くようなセリフも平気で言う」
「ああ、やっぱそういうタイプか。じゃあ教えてあげる。あなたはこれから変身する。自分の知らない自分に出会うことになる。そのパートナーはね、そんな状況をアニヤに驚いて、喜んでもらいたいんだと思う。どんな理由かは知らないけれど今というこの時間と体験はその人からのあなたへのプレゼントなんだわ」
「ごめんなさい、ここは貸衣裳屋ではないの? プレゼントってどういうこと?」
サリーが近づいてきてアニヤの顎をそっと持ち上げる。
「あなた、魔術師でしょ? 瞳の色もそうだけどやっぱり魔術師固有の美しさがある。いいよ、大丈夫。アニヤは何も心配しなくていい。逆にパートナーを驚かせて仕返ししよう。ベル、八十六番のドレスとそれに合うアクセサリーと小物、用意して」
「八十六番? 胸元開けないんですか? 形も大きさも申し分無いのに?」
「隠すことで刺激できる気持ちもあるんだよ。さぁアニヤ、あらためてこっちへ。髪から手を入れていくよ」
自分の体型について勝手な議論がなされ恥ずかしかったが、アニヤは黙ってサリーの指示に従った。サリーが言っていることは訳がわからなかったし、特区とゲットーでは性に関する話題の扱いも全く異なるということを知った。ゲットーでは女同士で相手の身体に関することをこんな風には話さない。男同士ではこういう話題で盛り上がるが女性は慎みを重んじて、相手の胸が羨ましいくらい大きくてもそれを褒めたりはしない。
例えばルドバリの体型はとてつもなく女性らしさに溢れている。加えてあの美貌なので男性はいつも彼女のことを盗み見して涎を垂らしそうな顔をしている。でも女性は誰も彼女のそういう面を話題にはしない。心の中ではどう思っていても、決してそれを口にはしない。
――ここにも差異がある。性への解釈の違い? ゲットーの文化の遅れのせい? どちらも違うような気がする。でもそれが何かはわからない……。
「少し短くするよ。今は鎖骨の辺りまであるけれど、これを肩にかかるかかからないかくらいまで。癖のウェーブと色はそのまま。あなたはこれから変身はするけれどアニヤらしさも残したいから」
そこからのサリーの手捌きはまるで魔術のようだった。変身という言葉は全然誇張ではなく、アニヤは今まで知ることのなかった自分を知ることになった。
「アイシャドウとリップは薄いピンクにする。あなたの紫色の瞳に絶対良く似合う。今夜は自分に向けられる視線に驚くわよ。パートナーにしっかり守ってもらうことね」
化粧を終えた自分はいよいよもって自分ではないようだった。アニヤは自分のことを輝いていると思った。鏡に映っているのは魔術ゲットーでプリンシラの名前に隠れて怯えている自分でない。生まれて始めて自分のことを可愛いと感じていた。
「ドレスとハンドバッグ、用意しましたよ。アクセサリーはアメジストのネックレスにしました」
「ありがとう、ベル。あなた、どうやってもアニヤの胸を目立たせたいのね」
「だってもったいないでしょう、こんなの。さぁアニヤさん。次はこれに着替えてください。メイクが崩れないよう手伝いますね」
ベルが渡したのは黒色のロングドレスだった。一見、露出は少なめだが、かなり深い位置までスリットが入っており姿勢に気を付けないと下着が見えそうだった。それ以外は派手すぎずアニヤの好みだった。
「このネックレス、すごくきれい……。不思議な金色ね。少し赤みがかってるっていうか……」
「ピンクゴールドっていうの。あなたは少し可愛らしい方が似合うと思って。でもね、ほら実際につけてみると胸にアメジストが乗るでしょう? あなたの胸とアメジストが一気にここに視線を集める。可愛いだけじゃなく大人の魅力をも出せるってわけ」
そう言われてドレスを確認すると、普段着ている服より身体の線がはっきり浮き出ており、自分の胸が強調されていることがわかった。
「ちょっと! こんな風になってるなんて……。恥ずかしくて歩けないって」
「それはパートナーに訊いてみたら? ああ、あとこれね、キトゥンヒール。履いたことないようだったら今のうちに少し慣れておいて。サリー、こんな感じでどうです?」
「うん、いいと思うよ。さぁアニヤ、そんな風に胸を隠して縮こまっても何もいいことないから。自信をもって背筋を伸ばして。早速パートナーに仕返ししに行きましょう。あなたの魅力で逆に驚かしてやろう」
ヒールのある靴を履いたことがなかったアニヤはバランスを取るのに苦労をしたが、それもすぐに慣れた。しかしこのような格好をしている自分自身には中々慣れることが出来ない。
――どれだけ着飾ったって、わたしが魔術ゲットー出身の田舎者には変わりはない。ドニーはなんて思うだろう。
ホールに向かう中、緊張してギリギリまで顔を上げることが出来なかった。しかしダニエルの靴が視界に入るとアニヤは思い切って顔を上げた。
ダニエルもパーティー用に着替えていた。茶色と灰色が混ざったような、落ち着きのある不思議な色のスーツに茶色のワイシャツ、黒のネクタイを合わせている。少し収まりの悪い癖のある髪の毛もセットしてお洒落な雰囲気になっており、普段より大人に見えた。
彼のことをハンサムだと思った。やはり自分なんかではパーティーの相手として釣り合わない。だけど、ダニエルの横を他の女が歩くのも嫌だった。
「フェアフォックスさまもアニヤさまも、とても素敵かと存じます。あなた方お二人に当店をご利用いただけたのは光栄の極みです。お二人とも、とても良くお似合いです」
エドワードのその言葉で、ずっとアニヤを見つめていたダニエルがハッとしていつもの表情に戻る。
「お世辞でも嬉しいです、ミスター・エドワード。でもアニヤ、きみは……お世辞抜きでとても素敵だよ。ええと……ああ、どうしようかな。言葉がうまく出てこない」
しどろもどろになるダニエルを見てサリーが意地の悪い声を出す。
「あなたの思惑通り、アニヤは自分の変わりようにとても驚きつつも喜んでいるよ。でも、一番はあなたみたいだね。まさか自分のパートナーが誰にも見せたくないくらい魅力的だとは思っていなかったんだろう? 失礼なやつだ」
「いや、決してそんなことは! アニヤが魅力的なことはわかっていたことだし。ただその、なんというか……」
「
「サリー、お客さまへの言葉遣いに気を付けなさい」
サリーは笑い、アニヤにウィンクをすると手を振ってその場を後にした。エドワードが深々とダニエルに頭を下げる。
「いえ、ミスター・エドワード。全然気にしていませんから。支払いは以前と同じ形で大丈夫ですか? ぼくたち、この後用事があって少し急いでいるんです」
「承知いたしました。フェアフォックス家のチャージから引き落とすよういたします」
「ありがとうございます、大変助かりました。じゃあ行こう、アニヤ」
アニヤもお礼を言い、ダニエルに続いた。サリーとベルにはもう少しちゃんとお礼を伝えたかったが、この後のパーティーの目的について思い出し気を引き締める。
しかしだとしても、今日のこの時はアニヤにとって特別な思い出となった。いつもより高い視点に短くなった髪。今まで身に付けたことのない綺麗なアクセサリー。そして、車に乗るとダニエルが言ったセリフ。
「パーティー会場に入ったらおれの傍を離れないようにしてね。他の男性が放っておくはずがない。それくらい、本当に綺麗だよ、アニヤ」
追想者のコトノハ《セクション4のクイーン&ナイト》 咲部眞歩 @sakibemaayu
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