約束 ── ダニエル ──
夜のことを考えるとダニエルは少し憂鬱だったが、午前中はその準備のために時間を使った。必要なところに連絡を取り、その度に過去の自分を記憶の古いタンスから引っ張り出さなければならなかった。それはダニエルが避けたいことの一つだったが成り行き上やらなければならなかった。
今回の依頼を達成出来なかったところでダニエルに失うものはない。それでも、とソファの上で体を抱えるアニヤを見ると力になりたいと思えてくる。
ダニエルが見ていることに気がつくと、アニヤはさっと足を下ろして靴を履いた。
「ごめん、人の家でくつろぎすぎだよね」
「いや、なにも気にしてない。そのソファ、座り心地いいでしょ?」
「うん、ソファもベッドもお風呂も、何もかもが快適。ゲットー育ちのわたしには想像もできなかったものばかりだよ。正直言うとね、何度か仕事なんて放り出してずっとこのままがいいのにって思った」
目を閉じて、幸福を噛みしめるようにアニヤは言う。
――その台詞は誤解してしまいそうだ。
「……ずっとこのまま?」
「そう……このまま、好きなことだけをする。今まで見たり触れたり出来なかったもの全てを知るの。最高に幸せだと思う」
ダニエルは静かに笑い、アニヤから適切な距離をおいて自分もソファに座る。この間が今の二人の距離感だった。いつかもう少し縮まっても良いかもしれない。ダニエルはそんな風に考える。
「アニヤが? 君はきっと仕事をしないことに我慢出来ないと思うけどな」
「わたしってそんな風に見える? でもそうだね、きっとそう。わたしは死に物狂いで働いてきた。それが身に染み付くくらいには。今さらこれを洗い流すことは出来ないかも」
「わかる。だからおれらは今という時が楽しくたって、やるべきことを思い出して仕事に戻るのさ。そろそろ連絡をしてみよう、アニヤ」
「ああ、もう。せっかく
「それはどういう意味?」と、訊こうとした時にはアニヤは既に自分のモードを切り替えていた。顔はまだ僅かに笑みを称えているが目は鋭さを帯びている。
ウェアラブルOSをスピーカーにして発信する。三コール目で相手が応答した。
「もしもし」
「わたし……」
「新しいお友だちもそこにいて、わたしの声をどうやってか聞いているのよね?」
アニヤが顔を上げ、ダニエルが頷き返す。
「そう。そうしなければならない理由がある。伝言ゲームをやっている時間はないの」
「アニヤ、あなたいま、特区にいるのね」
「……だとしたら?」
「わたしたちが一度も特区に行ったことがないからと言って、特区について何も知らないということにはならないのよ。
予想外の質問だった。電話しか持たないゲットー民が特区のデジタル回線の盗聴を心配している。ゲットーの電話であれば電話機に物理的な何かを仕込むのが盗聴の手立てになる。一方で今の場合はウェアラブルOSのハッキングも警戒しなければならない。正直そこまで考慮する必要があるのかというところだが、安全かどうかと言われるとそうではないという回答になる。
「ええと、それについては……」
アニヤが困惑した表情でダニエルを見つめる。初手で一気に囲い込まれてしまった感が否めなかった。ダニエルとしてはリスナーに徹しテキストベースでアニヤとコミュニケーションを取るつもりだった。自分の存在を限りなく隠しておくことがアドバンテージになると考えてのことだったが相手はそれを知った上で話を進めようとしている。アニヤにウェアラブルOSのセキュリティについてなんて答えられないことを相手もわかっての質問だった。
――手強い。アニヤの母親ってどんな人なんだろう。
ダニエルは自分を指差した。前回車の中で話していたときにアニヤの母親は呼吸の調子についても感じ取っていたので注意深く息を整える。相手の思惑がわからない以上、付け入る隙を与えなくなかった。
「はじめまして、ミズ・プリンシラ。わたしはアニヤの友人でダニエル・フォシェーンと申します。アニヤにこの通信手段を与えたのはわたしです。この電話番号は全く新しい番号で過去に使用された記録もありませんでした。通話を含めて一般的な盗聴対策はなされていると考えています」
「やっと声が聞けて嬉しい。そう、フォシェーンとおっしゃるのね、興味深いわ。今度ぜひ遊びにいらして」
「ご迷惑でなければ喜んで。しかしあなたが気にされているのはわたしのことよりこの通話の安全性かと思いましたが……?」
「焦りは禁物ですよ、お若いフォシェーン」
ルドバリを老練にした感じ、というのがダニエルの感想だった。話の主導権を握ろうにもやはり潰されてしまう。自分の外交スキルでは全く歯が立たないことを悟ったダニエルは戦法を変えることにした。この手合いには小細工よりも謙虚、誠実さがモノを言うことを経験で知っている。足りないスキルは経験でカバーする。
「しかしあなたの言う通り、わたしたちは安全性を危惧しています。あなたたちにとっては一情報だとしても、わたしたちにとっては必死に守りたい理由があるのです」
その理由を訪ねても教えてもらえないという確信があった。だが、ここが相手側のアキレス腱だということはわかった。彼女たちはこの話し合いを決して公にはしたくない。それでもこうして機会を作ってくれたことに感謝すべきだろう。
――やはり下手に刺激するべきではない。
「仰っていることは十分に理解できます。わたしに出来ることがあれば教えてください」
「殊勝な心がけね。特区人らしくない。そういう態度は称賛に値します。では一つ。あなたたちがいまいる場所の座標を教えてちょうだい。そうすれば安全な環境はこちらで用意します」
こちらの位置情報を公開することはリスクではあったがダニエルは了承し緯度経度を伝えた。
「よろしい。こちらの準備が整い次第、あなたたちは一人の男性と対面する。彼の名前を知る必要はない。ただの協力者と思ってちょうだい。そしてこの会見は全くの非公式のもので彼のことは絶対に他言してはならない。カロリーナにも黙っていてもらう」
「その
「
ダニエルとアニヤは顔を見合わせる。実の母親から脅されて取り乱してもおかしくないところだが、自制心を保って毅然としている。彼女はただ肩をすくめただけだった。
だが決して比喩でも映画の台詞を真似たわけでもない。そういう確信があった。彼女が命を落とすと言うのであれば間違いなくそうなるのだろう。
「わかりました。そちらの条件を受け入れます」
「ありがとう。こちらの準備も整った。あなたたちにとって有意義な会合になることを祈っているわ。お若いフォシェーン、いつかあなたに会えることを楽しみにしているから。それでは、良い旅を」
「旅?」と訊きかける寸前で視界が歪んだ。目眩のような感覚が襲いかかり頭の中が揺さぶられる。眩しい光に包まれて強く目を瞑り、開いたときには別の場所にいた。
ダニエルとアニヤの位置関係は変わっていない。二人で並んでソファに座っているのはそのままだ。だがそこはダニエルの部屋ではなく、窓のない真っ白な真四角の部屋だった。二人が座っているソファも白、目の前には白いテーブルと椅子が一脚。その先にドアがあることにダニエルは気がついた。全てが白色のため目を凝らさなければ見えなかったが確かにそこにはドアがあった。
「なんなの、ここ……。真っ白なのに黒の魔術痕で覆われてる」
言われてやっと気づいた自身の至らなさに内心で舌打ちをしダニエルはeyeOSを起動した。確かにアニヤの言う通りで、この部屋自体を黒の魔術師が作り出したようだった。
「……わからないな。こんな魔術見たことも聞いたこともない。初体験が知り合いを通じてで良かったよ。突然こんなところに放り込まれたら普通はパニックだ」
「そうだね、一人じゃないってのは大きいかも。混乱はしてるけど意外に落ち着いてる」
「一人だったら檻の中の動物のようにそこら辺を歩き回ってただろうな」
「同感」
目の前の見えないドアが開き、中年の男が一人入ってきた。中肉中背で古ぼけたえんじ色のセーターとグレーのスラックス姿。靴は所々汚れている白のスニーカー。この部屋で自分たち以外の唯一の色。短くカットされた黒髪で鼻は低く薄い顔立ちをしている。
ダニエルとアニヤは立ち上がってその男を出迎えた。軽く頭を下げた男は椅子に座り二人にも腰かけるように促す。
「客人に対してお茶の一杯も出せないことを許してほしい。安全に会話をするにはここしかなかったのでね」
「お気持ちだけちょうだいします。しかし、それほどまでに言ノ葉の魔術というのは秘密にしなければならないものなのですか?」
ダニエルは真っ直ぐに男を見据える。彼はやがて小さなため息をついて語り始めた。
「言ノ葉の魔術、これは元々西方魔術で向こうでは
迫害。特区と魔術ゲットー。魔術ゲットーとアニヤ・プリンシラ。西方山岳地帯と咒語術士。マジョリティがマイノリティを。強者が弱者を。この図式は人という存在がいる以上、どこであっても存在するのだ。
「いまあなたは、
「はい。わたしは咒語術士です。咒語術は術士の子孫にのみ受け継がれてきました」
その答えを聞いてアニヤが考え込む。
「咒語術はこんな空間を作り出すこともできるっていうことですか?」
「いえ、この空間は
まだ何かを訊きたそうにしているアニヤにダニエルは目配せをしてそれを留めさせた。この場は純粋な魔術の知的好奇心を満たす場ではない。焦点は言ノ葉魔術とその遣い手について。
「どんな言葉でも魔術として遣うことが出来ますか? 例えば内外傷を一切残さずに相手を死に至らしめる、なんてことも可能ですか?」
「可能です。咒語術は魔術師としての能力にもその効果を左右されますが何よりも言葉の持つ意味を正しく理解し、適切に遣う能力が必要なんです。例えば
「あなたのご家族でそのレベルに達している咒語術師はいますか?」
「いません。質問の意図をお訊きしても?」
話すべきかどうかは賭けだった。男の話を聞く限り彼は仲間を守るためならこれ以上は何も話さないだろう。もし彼の仲間内に今回の犯人がいたならば、男から話を聞いた犯人は隠され絶対に見つけることが出来なくなる。
一方で正直に話をしてさらに情報を引き出せなければこの会合の意味は半分もない。嘘をついて適当に話を進めることも出来るかもしれないが、いまこの瞬間をアニヤの母親が監視しているかもしれない。あの女性であれば自分の嘘など一瞬で見抜いてしまうだろう。
それに何より、嘘をつくのはダニエルの性分ではなかった。必要な嘘、誰かを傷つけない嘘、そういったものがあることは理解してた。しかし少しでも自分は正直でありたいというのがダニエルの考え方であり、相手が危険を冒して時間を作ってくれているいま、嘘をつくのは大変な不名誉に思われた。
――この男とアニヤの母親を信用するしかない。
「……先日、特区で魔術師が殺害される事件がありました。わたしたちは残された魔術痕から犯人は言ノ葉の魔術師だと考えています。あなたを紹介いただいたのにはそういった経緯がある。あなたの話を聞く限り言ノ葉の魔術は門外不出のようだ。失礼を承知で言いますが、だとすると犯人はあなたの仲間内ということになる」
ダニエルは男の反応を注意深く観察していたが狼狽えるような様子はなかった。彼が犯人を知っている、もしくは犯人に心当たりがあるとすればかなりの自制心と演技力だ。
「ただ、わたしは直感的にあなた方ではないと感じています。だから何か別の心当たりや犯人逮捕に繋がるようなヒントがあれば教えてもらいたいんです」
アニヤの方を見ると彼女もうなずいている。ダニエルは自分の考えがアニヤと同じだったのだろうと感じ同様にうなずき返した。
「状況は理解しました。あなたがわたしたちを疑っていないということにお礼を言うべきなのかな」
ダニエルは黙って見つめ返し続きを促す。
「一つ可能性があるとすれば、西方山岳地帯において咒語術が滅びなかったということです。わたしたちの祖先が抜け出した時、すべての咒語術師がそうしたわけではありませんから。隠れるか権力者に取り入るかして生き残った。そうした一族の末裔か弟子たちがその事件に関係しているのではないでしょうか。いま、魔術痕を見せてもらうことはできますか?」
「もちろんです、ミスター」
ダニエルは魔術痕を投影し、三人は顔を突き合わせる形でそれを確認した。男がしきりに頷いている。
「やはり、これは
眼の前で言ノ葉の魔術を見られる機会にダニエルもアニヤも色めく。いざ犯人と対峙した際には魔術発動までの所作等を知っているか否かで勝敗が大きく変わってくる。
しかし男はただ一言、
「
と言っただけだった。
そしてそれど同時にeyeOSが起動し、青色の粒子が鋭く吐き出されるのが見える。粒子は瞬く間にテーブルを覆い凍らせてしまった。テーブルからは冷気が漂い身震いする。見せかけの幻術などではなく本当に凍っており、触れた冷たさにダニエルは反射的に手を引っ込めた。
「わたしの魔術痕をあらためて確認してみてください。先ほどの魔術痕と全体的に同じだと思いますが、中心部分の模様が異なるはずです。四大家はそれぞれの特徴を持って変化していきましたので、魔術痕にも差異があるんです」
これは興味深い発見だった。特区の魔術は完全に形式化されており、個人差はあれど流派や門派の個性が出るということはない。だが西方山岳地帯ではグループでのユニークな修練によって根本は同じだが固有の発展を遂げたということになる。
「金氏の魔術師が遣う言ノ葉……咒語術にはどのような特徴があるんですか?」
「咒語術は本来、火、水、木、金、土という自然界に存在する五つの要素と光と闇を言葉で体現し、農業や金属加工等への貢献のために考案された自然との調和を目指す魔術でした。そんな中、金氏咒語術が目指したのは人体や精神への干渉。医術との融合だったのです。金氏一族は多くの命を救った英雄でもあります。しかし一方で、その力を悪用した魔術師がいたのも事実。先程の
言葉に思いをのせる魔術、それが言ノ葉の魔術だと理解はしていたつもりだったが、認識よりかなり危険な魔術だとわかりダニエルは身震いした。
「そう言えば、咒語術を遣って空を飛ぶことはできますか? わたしたちは咒語術師が自分自身に魔術をかけられると考えています。自身の精神に飛ぶ、という言葉を強く暗示することでそれを実現することは可能だと思いますか?」
黙っていたダニエルに代わりアニヤが尋ねる。その質問に男は静かに笑った。
「飛行魔術ですね? できますよ。あなたたちは空を飛ぶために自分をどうにかしようとする。そのアプローチが間違っているんです。具体的な方法は教えられませんがわたしたちは空を飛ぶことができます。これは金氏咒語術に限った話ではありません」
「そんなことって……。飛行魔術は魔術師全員の悲願なのに」
「ただ、そこに至るまでの過程には地道な修練が必要です。西方山岳魔術にはそういったものが多いんです。どれだけ優れた技倆を持っていても基礎修練に二、三年はかけます。それを師匠に認められて初めて実践の修練が始まるんです。わたしも最初の二年間は発声練習だけさせられました。咒語術として自分が想像した形になったのはさらに一年後のことでしたよ」
犯人と思わしき魔術師は相手の身体を拘束し、意図した場所に雷を落とせることがわかっている。眼の前の男とほぼ同じ実力を持っていると考えて良いだろう。そうなると当然空を飛ぶこともできる。オーダリウスの壁の上にいたことも納得だった。
「どうやれば咒語術の影響を受けないようにすることができますか? わたしたちは落雷による攻撃を受けたんです。正直これは当たらないことを祈りつつ逃げるしかない。ただ精神に直接影響を受ける系統の咒語術はどうにかして防がないと、いざ対峙した時に太刀打ちできなくなってしまう」
「それは咒語術師であるわたしに咒語術の弱点を教えろと言っているのと同じですね」
ダニエルはそれに対して弁解しようとしたが、男が笑って手を上げたので冗談だとわかった。
「秘密でもなんでもないので。咒語術の最大の欠点は発声した言葉を相手も認識しなければ直接的に影響を与えられないということなんです。例えばわたしがいま、
「……極端な話、耳栓をしていれば咒語術の精神への干渉は防げるということですか?」
「そうです。ただ、聞こえる聞こえないというよりはあくまでも認識の問題なので、わたしが
これについては貴重な情報だった。犯人が拘束する魔術を遣うと予測した時点からダニエルはこの対処法について考えていた。相手の魔術色に触れなければ回避できるかもしれないと思っていたが避けきれなかった時にはリスクが発生する。声を聞かなければ魔術としての効果がないのであれば自分の格闘能力は大きなアドバンテージになるはずだった。
「さて、そろそろ時間切れです。この空間を構築するのに大きな魔力を必要とします。維持すること自体はそれほどでもないのですが、点滴のように魔力を消費していくんです。わたしの魔力はもう底を尽きようとしています。少しでもお役に立てたのであれば良いのですが?」
男が立ち上がったのでダニエルとアニヤもそれに倣い、それぞれ握手をした。
「貴重なご助言でした、ミスター。あらためてお礼申し上げます。アニヤのお母様にも同様にお伝えください」
「わたしがサイニ・プリンシラに協力するのは当然のことです。しかし、あなたの気持ちはいつかご自身でお伝えになるといい」
不意に視界が真っ白になり、急激に後ろに引き戻される感覚があった。目も開けていられないほどの明るさになり、少しずつ視界が戻ってきたときには先ほどと変わらず自宅のリビングでアニヤとソファに座っていた。
二人はいま起きたことを確認するように見つめ合った。
「……色々な魔術を見てきたつもりだったけど、きみと出会ってからは初めてのことばかりだよ」
「それはわたしも同じ……」
未知の体験をし心が昂っているのがわかる。元の場所に戻ってみると急に今までいた場所が怖くなってきた。それはアニヤも同じなのかアニヤを見つめる自身の視線と自身を見つめるアニヤの視線が普段と違うことにダニエルは気がつく。
――吊り橋効果、かな……。
「いったいおれを、どこに連れて行くつもりなんだい? アニヤ・プリンシラ……」
「それは……あなたが決めることでしょう? ダニエル・フォシェーン……」
自分を見つめるアニヤの瞳の色が少し違って見え、ダニエルは顔が熱くなった。手を伸ばせば触れられる距離。アニヤの唇が少しだけ開かれ自分が唾を飲み込む音が聞こえる。
「きみとなら、行きたいところへ……」
アニヤのウェアラブルOSの着信音が二人の静寂を破った。慌てて距離をとり、アニヤは乱れてもいない髪を手で撫でつけ咳払いをして着信を受ける。
「……もしもし」
「ひどく呼吸が乱れているわね。かれの魔術はそこまで強烈だった?」
アニヤは苛立った表情でわざとらしくため息をついて返事の代わりにした。
「フォシェーンも聞いているわね。どう? わたしの情報源は役に立ったかしら?」
「それはもちろんなのですが、どうやってゲットーからここに電話を?」
「技術に対して技術で応えているのがカロリーナ。だからあの子は成熟しない。魔術っていろいろなことができるのよ」
「わざわざそれを言うために連絡してきたわけ?」
「聞いたのはそっちでしょう? ……あなたたち、次は張亮に会いに行くつもりなのよね?」
ダニエルは咄嗟にアニヤを見る。なぜ彼女がそのことを知っているのか。アニヤもダニエルの疑問を察して首を振る。
「どうしてそのことを? ミズ・プリンシラ」
「魔術ゲットーはあなたたちが思っているほど隔離されているわけではないとだけ言っておくわ。でも、やはりそうなのね。連絡して良かった。フォシェーン、あなたにお願いがあります。今回の借りを返すと思って聞いてほしいのだけど」
「もちろんです、わたしにできることがあればなんなりと」
「張亮はあなたたちが思っているより遥かに危険な存在よ。娘を必ず守ると約束してもらえる?」
今までのサイニ・プリンシラから受けていた母親像とは一致しない予想外の依頼だった。アニヤも驚いた顔をしており、仮にこの依頼に裏があったとしても見抜けてはいないようだった。
彼女がどんな意図でこの依頼をしてきたのかはわからない。しかしダニエルにはこれを断る理由はなかった。ナイトとしてそれは必ず果たすべき使命であるし、この電話が掛かってくる数分前の出来事でダニエルは自分の気持ちをしっかりと理解していた。
「わかりました、お約束します」
「清々しいお返事ね。言ったからには全うしてちょうだいね。お若いフォシェーン」
掛かってきたときと同じように唐突に通話は終了した。彼女と話すとやはり緊張する、とダニエルはアニヤに肩をすくめて見せる。
「あの人が言ったこと、別に気にしなくていいから。自分の身はじぶんで守れるし」
この事件が終わったら、とダニエルは思った。焦ることはない。自分の気持ちがはっきりした以上、やるべきことも決まった。自分は大切な人を守ればいい。距離を縮めるとか相手の気持ちを確かめるとか、それはエゴだ。
「それでもさ、おれはアニヤを守るよ。お母さんとの約束なんか関係なしにさ」
アニヤの頬がさっと朱色に染まる。怒ったように何かを言いかけ口を閉じ、今度は小さく何かを言おうとして、それも思いとどまった彼女は最後に窓の外に顔を向け、やがて言った。
「まぁ……それならそれでいいけどね。そのときはお願いするわ」
了解、と言うとダニエルは煙草に火をつけた。
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