二回目の朝 ── アニヤ ──
寝心地の良いベッド。肌触りのよいシーツにくるまりアニヤは眠っていた。朝の時間になるとカーテンの透過度が少しずつ上がっていき、まるで実際の日の出のようにゆっくりと自然光が部屋を満たしていく。その明るさに誘われてアニヤもゆっくりと目を開けた。
特区での二回目の朝。陽光で目覚めるという贅沢の中でもう少し惰眠を貪りたい誘惑に抗いベッドから抜け出す。自由に使って良いと言われているのでシャワー浴びて身支度を整えた。鏡の前でおかしなところがないかを入念にチェックする。日によって纏りの悪い髪の毛が特に気になったが今日は大丈夫そうだった。
下におりる前にベランダに出て海を眺めた。太陽は空の高い位置にあり海は陽射しを反射して輝いている。目覚めたときと同じように自分が特区にいる実感を噛みしめる。機会があれば何度だってそうするだろう。自分はいま、ゲットーにいるだけでは知り得ない多くのものを目にしている。
「起きたの? そのまま下にどうぞ。コーヒーと焼きたてのパンを買ってきたから」
ベランダの下から声をかけられて下りていく。ダニエルが煙草を吸いながらポットからコーヒーを注いでいた。寝起きという感じはない。時計を見ると七時を少しまわったところだった。
「朝、いつも早いの? 小説に出てくる探偵はもう少しずぼらな生活をしていると思うんだけど」
それを言えば小説の探偵はこんな立派な部屋には住んでいない。
「第四区の夏は短いんだ。だからこの町の人々は太陽が出ている時間を大事にする。明るいときは行動しなくちゃ損ってね」
「その感覚はわかる。二十八年間、曇り空しか見てこなかったわたしとしても同じ気持ち。これ、食べていいの?」
「もちろん。近くのベーカリーで買ってきた。結構美味しいと思う」
シナモンロール、デニッシュと多くの菓子パンがあって目移りしてしまう。味はダニエルの言う通り確かに美味しかった。昨日の朝はゲットーに向かう車の中でコーヒーとダニエルが作ったサンドイッチを食べた。今まで食べた特区の食べ物で外れたものはない。美味しくないものなんてあるのだろうか。
そこまで考えてアニヤはふと思い至った。そしてすぐに青ざめる。なんということだろうと、アニヤは席を立ち上がった。一体どうしたとダニエルが見上げてくる。
「ドニー、今まで気付かずにごめん。わたし、昨日から一切お金を使っていない……。どうすればいい? てか、あれ? 特区の通貨って……」
黙ってアニヤを見ていたダニエルがやがて笑い始める。
「なんだよ、真剣な顔をするから何かと思った。気にしないでいい。ゲットーのお金をこっちで換金するととんでもなく安いし、大抵はネットワーク上で決済するんだ。それにかかった経費は全てルドバリに請求する。心配しないで、アニヤ」
「でも……」
「いいのさ。おれはルドバリに借りがある。だから今回の件を手伝うことになったわけだけど、だからと言っていいように使われる気はない。調査終了の暁には一泡吹かせてやるさ」
アニヤにとってルドバリは尊敬する上司でトロルーカーリーに引き上げてもらった恩もある。それでも特区にいることの高揚感とダニエルの笑顔がそれに勝る。昔に友達と少しだけ悪いことをしようとしてお互いにクスクスと笑いあったときのことを思い出してアニヤもはにかんだ。
「ルドバリ隊長は……どんな顔をするかな」
「そうだ! ルドバリがさらに困惑するようなことがあるんだった。昨日、ミシェルから
時計にデータが転送された。張亮の顔写真とプロファイル、彼が経営する会社の表の顔と疑われている裏の推測がまとめられている。
「紫雲藝美公司。表向きは西方民族の美術品を特区で販売する会社だが、まぁよくあるマネーロンダリングみたいだな。ただそれに加え不法労働の斡旋と……
幽幻草のことはアニヤも知っている。鎮静効果を持つ種が採れる西方山岳地帯固有の植物だが、粉末にして熱するか水に溶かすかすると強い幻覚作用も引き起こす。依存性が強く過剰摂取では死に至るケースもある。
ゲットーでは資格のある医療従事者のみが取り扱うことを許可されており、それ以外に流通しているものは全て違法薬物として定められ、所有していることが知られただけでも逮捕される。
「ルドバリはどうしてこんな人と知り合いなんだろう」
「魔対課時代になんらかの取り決めをしていたんだろう。まぁそれはそれとしてだ。今夜、顧客を相手にしたパーティーがあるらしい。張亮は用心深い性格でこういう機会でもないと会うのは難しいだろうってミシェルは言ってる。つまりだ、これはパーティー行けっていうことだ。そうだろう?」
「ルドバリはそのことも知っていて紹介状を書いたのかな?」
「ありえそうな話だ、ルドバリなら」
「パーティーなんて行ったことないのに、どうしろと……」
昨日はこういうことに対して意気込みを新たにしたはずだった。それでもやはり性格や思考の根本は即座に変わるものではない。人生初のパーティーは高校の卒業パーティーの予定だったが、誰も
父親が亡くなり楽しみにしていた全てが奪われたことをアニヤは幾度も思い出し、その度に心が苦しかった。今もそうなりかけている。でもこれまでと違うこと。自分の傍にはダニエルがいる。そしてダニエルはこれからイタズラをするように口の片側をあげて笑っていた。
「社交界デビューだな。一般的なドレスコードがあるだろう」
「……ドレスコード?」
魔術ゲットー語で置き換えようと思ったがうまい言葉が見つからず理解出来なかった。
「こういう場では服装の基準があって、それをクリアしなくちゃ会場にすら入れてもらえないんだ」
「ええ? わたし、今着ている服しかないよ? そりゃ、ブラウスの替えくらいはあるけれど……」
「アテがある。さっきも言ったでしょ? 心配しないで、アニヤ。ただ準備には少し時間がかかる。昼にはアニヤのお母さんに連絡しないといけないし計画的に動こう。あ、もちろんこれもお金の心配はない。全てルドバリ持ちさ」
――この人といると、きっと退屈しない。
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