警告 ── ダニエル ──
ダニエルとアニヤは特区へ戻るために来た道を戻っていた。目の前に聳え立つ巨大な壁へ向かって車を走らせることはとてつもないプレッシャーでダニエルは落ち着かなかった。
この時期、特区が曇ることはほとんどない。しかし今、特区に向かって走っているはずなのに壁の上に見える空は厚い雲に覆われている。黒と茶色の歪な壁と灰色の雲。一本道の両脇は白に近い黄色の枯れ草の草原。モノトーンの世界が覆い被さってくる。
「ゲットー側から見ると本当に大きいな、オーダリウスの壁は。というか、巨大。特区側から見るのと全然印象が違う」
「……周りがただの草原だから余計にそう見えるとかってあるのかな?」
「どうだろ。わからないな。でも魔術師たちから身を守るためにここまで巨大な壁を作る必要があったんだろうか。昔は魔術師たちの力がもっと強かったとか?」
アニヤは首を横に振る。
「さぁ、そんな話は聞いたことがないけれど。あと、多分発想が逆だと思う。自分たちを守るんじゃなくて魔術師を閉じ込めたかったんだよ。この壁が張り巡らされているのは特区じゃなくて魔術ゲットー。こっちが内で特区が外ってこと」
「なるほど……。そういう風に考えたことはなかったな」
「普段の立ち位置によって見方って変わるから」
「そりゃそうか」
ぬるくなり始めているコーヒーを飲んで、ダニエルは煙草に火をつけた。窓を少し空けると湿った空気が流れ込んでくる。特区とは異なる空気の匂い。壁の内外で同じものもあれば異なるものもある。
でもそれはやはり、特区だからとかゲットーだからということじゃないとダニエルはぼんやり考えた。人々の世界を構成する要素は基本的にどこだって同じだということが今日あらためてわかった。
「人は理解出来ない物事が怖い。だから、境界線を作って区別しようとする。自分はあれそれとは違う。あれは自分とは異なる異質なものだ。そういったものはどうしたらいい? 線を引いて、追い出してしまえ」
「え? ゲットーと特区の話?」
気がついたら口にしていた。これはプリンシラという名前、君についてのことだ、という勇気がダニエルにはなかった。余計な詮索をして関係が悪化するかもしれない。いつかアニヤが自分から話してくれると信じていた。
「うん、まぁそんなとこ」
「急に言うから」
「ごめん、一人でいる時間が長いから、つい独り言」
「それはなんとなくわかるかも」
「だよね。一人でいるとさ……」
話を続けようとしたとき、eyeOSが魔術を関知しアラートを発した。
「ドニー!」
アニヤも同時に魔術を関知したのだろう。横にいるのに叫び声に近い感じでダニエルを呼んでいる。
「どこから来るんだっ!」
無意識にアクセルを踏み込む。こういうとき、止まるより動いていた方が良い結果につながると頭と体に染み付いている。
境界のトンネルまであともう少しだった。あそこまで辿り着ければ危機を回避できるという直感がダニエルにはあった。
「正面! 空からっ!」
青い閃光が雷のように目の前の地面に落ちる。ダニエルは咄嗟にハンドルを切り、タイヤを軋ませながら車体をコントロールしてそれを避けた。車はスピンをし進行方向とは逆向きになる。ブレーキング状態で瞬時にギアをバックに入れて再びアクセルを踏む。数秒前に車があった位置に再び青い雷が襲いかかった。
バック走行からスピンターンを行いアクセルを全開にしてトンネル内に入る。そこでダニエルは周囲を気にせず車を停めた。
ダニエルもアニヤも呼吸が荒い。
髪をかきあげたダニエルはアニヤに車中に残るよう伝え車を降りた。トンネルの出入口まで戻り外を観察する。eyeOSは魔術を検知せず、大きく息を吐き出してどうにか座り込むのを堪えた。
「魔術師は消えたみたい」
「……車内にいてくれって言ったのに。eyeOSは反応していない。アニヤも付近に魔術師を感じてないってこと?」
「うん。魔術痕を見に行こう? あそこの雷落ちたとこ」
車をトンネル内に残すリスクと再襲撃された際のリスクを天秤にかけ、魔術師はもういないという観測結果を信じて車で落雷地点に向かった。
車を降りなにか忘れていると考え、それが煙草だと気付いてダニエルは一人苦笑する。まだ少し手が震えていた。こういった修羅場は魔対課時代に何度も潜り抜けている。しかしこれは慣れるような性質のものではない。現役の時も今のように手が震えていたことをダニエルは思い出した。
もちろん中には恐怖を克服し、平然と戦いに赴くナイトもいた。戦闘力も判断力も優秀なメンバーばかりだったが、戦闘中の死亡率も高かった。恐怖を克服することにより生存本能が引き際を正しく判断できないのではないかというのが周囲の見解だった。
生き残るために恐怖は必要だ。死んだ彼らが無謀だったとは思わない。だが彼らのことを勇猛という人々がいないのも事実だ。
「魔術痕、見て」
アニヤに呼び掛けられてeyeOSを起動する。
「……同じだね、パトローニの現場にあった魔術痕と」
「わたしたち、犯人のすぐそばまで来ているっていうことだよね。でもどうやって……」
「どうやっておれたちのことを知ったのか。おれたちがレンホルムの事件を調査していることを知っている人物は限られている」
「ルドバリ隊長……?」
「まずはうん、そう。ロビンソンやファルクナーには身分を偽ったけれどあの二人もおれたちがレンホルムに関わっていることを知っている」
「パトローニの件はどう?」
「ルドバリとファルクナーの二人だな」
ルドバリについても言及しているが、ダニエルは彼女が犯人だとは全く思っていない。可能性はゼロではないがダニエルの知るカロリーナ・ルドバリであれば、そもそも死体など残さない。
「でも、なんかしっくりこない。無理やり当てはめるとすればロビンソンが誰かを雇って犯行を行っている線かな……。これだと黒帮とも繋がりやすい」
「あのおっさんにそこまでやれる力があるかな? 大学の教授って権力筋に近い所にいるから人脈はありそうだけど……。言ノ葉の魔術の線はどうだろう? 禁術の一つでアニヤのお母さんの話だと魔術師は隠れたがっている印象を受けた。おれらがこの魔術を知ったのは数時間前なわけだけど、そのことを知っているのは?」
「トロルーカーリーのメンバーは魔術痕を見てるでしょ? それから図書館司書のビルトもだけど、彼女はわたしたちがあの本から何の魔術を参照したかわからないはず。あとはそうね、うちの親がどこまで広めたかによる」
「その中の一人に犯人がいた場合、犯人はおれたちが追っていることを知ったわけだな……。しかし、どう思うよ。攻撃地点はほぼ間違いなくあそこだぜ?」
ダニエルが示した先をアニヤも見上げる。ほぼ壁の付け根からその先を見上げると遠近法で感覚がおかしくなる。それくらいにとてつもない高さだった。
「おれたちはあそこの上から魔術によって狙撃された。言ノ葉の魔術っていうのは、あんなところに上がれるものなんだろうか」
オーダリウスの壁は長さ約五十キロメートル、高さ約六百メートル、厚さ約一キロメートルの超巨大建造物だ。特区側にあるエレベーターを使っても頂上までは四分ほどかかる。ゲットー側にエレベーターは存在しない。
「言ノ葉の魔術で空を飛ぶことが出来たらあの上まで行けそうだけど……」
「飛行魔術は存在しないと思ってたんだけど。赤の魔術師が自身の肉体を強化して高い身体能力を得ることは知っている。跳躍力もあがるわけだけど、家の屋根に飛び乗るくらいが関の山だ」
「……言ノ葉の魔術は言葉の力で新しい状態を創造する魔術だと思ってて。それだとわたしの魔術と向いてる先が違うだけでやってることはあまり変わらないかもしれなくて。で、もしそうだとすると、言ノ葉の魔術は魔術師自身にかけることが出来ると思う」
ダニエルはアニヤが言いたいことを察することが出来ずに相槌を打って続きを促す。
「例えば飛ぶっていう言葉を自分にかければ、飛ぶことが出来るような気がする。確証はないけど」
「……自己暗示みたいなもの?」
「わからない。言ノ葉の魔術については概要がわかっているだけだし」
「アニヤのお母さんかジャン・リャンから聞き出すしかないか」
ここでこれ以上見るべきものはないような気がして、ダニエルは空を見上げた。そびえ立つ壁に全てを飲み込みそうな曇り空。不意に吹いた風が二人を震わせる。壁を挟んだ二つの世界は似ているようで全く異なる場所だとダニエルは感じた。
「戻ろうか、第四区に。おれたちは今日、よく働いたと思う」
「そうだね……。ここは少し、寒いから」
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