プリンシラ ── アニヤ ──
ダニエルは車を残してどこかに姿を消していたが、アニヤにとっては逆に好都合だった。先に車へ乗り込み、ウェラブルOSから自宅に発信する。
数回の呼び出し音の後、母親が応答した。
「もしもし、わたしだけど……」
「あら、珍しい。書き置きひとつで母親にまともに挨拶もできない娘から電話がくるなんて。明日は晴れかしら」
母親の一言ひとことに苛立ちを覚える。こういうとき、ダニエルならきっと煙草を吸っているだろう。
車の中は少し暑かったので窓を開けようとしたがエンジンが始動していないために開かなかった。
「皮肉はやめてくれる? 少し訊きたいことがあるんだけど」
「……何かしら?」
少しどころではない。ルドバリとの会話を終えてアニヤには母親に訊きたいことが山のようにできた。
しかし闇雲に訊いたところで素直には答えないだろう。サイニ・プリンシラとはそういう人間だということをアニヤは知っている。
「プリンシラっていう姓にはどういう意味があるの? あなたは何故、お父さんが死んだらこの呪われた姓に自分とわたしを戻したの?」
しかし頭ではわかっていてもアニヤは自制出来なかった。もっとうまい会話の運び方があると思いつつも、このことを訊かずにはいられない。
この姓のせいで受けた苦しみ。捨てた時間。ブラウスの胸元をきつく握りしめる。そうすることでしか思い出される過去の痛みに耐えることができない。握った手をそのまま強く自分に押し付けて歯を食いしばる。
――この苗字さえなければ、わたしは……わたしは……。
「カロリーナが余計なことを言ったみたいね。あの子は昔から厄の種を蒔くのが好きだった。まったく、面倒なことを……。それはあなたには関係ない。意味も、理由も知らなくていいことよ」
「そんな回答でわたしが納得すると思っているの!?」
「あなたが納得するかどうかなんてわたしには関係ないのよ、アニヤ」
「ちくしょう!」
「お父さんが悲しむような言葉遣いはやめなさい」
「しゃあしゃあとよく言う!」
思い切り物に当たりたい気分だったが、ここはダニエルの車の中で、この時計はダニエルからもらったもので、彼の顔を思い浮かべるとアニヤはやっと少し落ち着いてきた。
母親のペースに乗せられては行けない。この電話でまだ他に訊かなければならないことがある。
「……いつか必ず聞き出すから。さらにあなた、自分がドゥベルだってことをわたしに隠していたでしょう?」
「それもカロリーナの入れ知恵なの? ドゥベルについて知っている人間は少ないもの。あなたはそもそもドゥベルについて知らなかったでしょう? わたしは訊かれなかったから話さなかっただけ。隠すなんて人聞きの悪い。無知の責任転嫁をしないでちょうだい」
「腹が立つ……。息吹の魔術以外に何が使えるわけ?」
「言うわけないでしょう? 魔術師が自分の魔術を知られたらおしまいよ」
トロルーカーリーの権限で今すぐ尋問にかけたかったが、たとえそうしたとしても母親が態度を変えないことはわかっていた。魔術を遣う姿こそ見たことはなかったがアニヤの魔術師としての本能は常に母親を魔術師として警戒しており、
また母親のペースになっている。アニヤは目をつむり髪をかきあげると大きく深呼吸をした。まだ訊かなければならないことがある。そう思いアニヤが会話を再開しようとしたとき、ダニエルが戻ってきた。両手に紙コップを持ち脇に紙袋を挟んでいる。
――今はだめ……いまはやめて……。
母親とやり取りするところを聞かれたくないとアニヤは思った。何故か今の自分を情けないと思った。そしてそんな自分を最も見られたくないのはダニエルだった。
しかしそんな心配とは裏腹にダニエルはアニヤを見て、唇の前で人指し指を立てて微笑んだ。ゲットーでも特区でも共通の仕草。静かに車の中に入りコーヒーをホルダーにセットすると、目を閉じて静かに鋭く息を吐き出した。そしてアニヤの頭のてっぺん、眉間、鎖骨がぶつかる少し上を素早く人指し指で突いた。
一瞬のことだった。アニヤは訳がわからず放心する。ダニエルが声を出さずに唇だけを動かした。特区標準語であれば読めなかったかもしれない。だがダニエルが使ったのはゲットー語だった。
――大丈夫だ。
アニヤの中で熱く燃えていたものが急速に冷えていく。自分の呼吸音が体を通じて聞こえていたがそれも落ち着いてきた。平常心に戻るのを待ってあらためてアニヤは深呼吸をする。息吹の魔術師は呼吸を乱さない。プリンシラに受け継がれる秘訣の一つ。
「……アニヤ?」
母親の声を聞いても心は乱されない。紙コップを指さしてダニエルを見つめるとうなずき返してくる。香りからわかっていたがホットコーヒーだった。一口啜りスイッチが切り替わる音が聞こえた。
「もう一つ聞かなくちゃならないことがある。あなた、ゲットーで言ノ葉の魔術を遣う魔術師に心当たりはある?」
「……わたしに他の魔術師を売れと言っているの?」
「曲解しないで。わたしは
母親が今日の会話で初めて長考した。
「……わたしからあなたに連絡する手段は?」
ダニエルを見やると彼は首を横に振った。
「残念ながらそれはないの。こっちからまた連絡する。……いつ、連絡すればいい?」
「……明日のお昼過ぎにはなんらかの答えを伝えられるでしょう。過度な期待はしないでもらいたいけど」
「わかった、明日の昼過ぎに連絡する……」
こういうとき、言わなければならない言葉がある。だがその言葉は、父親がなくなってから母親に使ったことはない。アニヤには躊躇いがあった。母親との確執は一瞬で解決するには根深すぎる。
無意識にダニエルを見ていた。彼が今の自分を見ているかどうか。ダニエルはコーヒーを片手に窓の外を見ていた。しかし、その後ろ姿がしっかりと伝えてくれている。大丈夫だ、と。
「……あの、ありがと。助かる」
母親の笑い声が聞こえる。
「ずいぶん殊勝なこと。自分を正しい人間に見せたい誰かが今そこにいるんでしょう? しかも、その人から随分影響を受けているようね。あなたの呼吸が途中からはっきり変わったことにわたしが気付かないとでも思った? 凄腕じゃない、あなたの激情の呼吸を一瞬で静めてしまうんだもの。アニヤ、キスはもう済ませたの?」
アニヤは通話を切った。怒りと恥ずかしさで顔が熱くなっている。今度は意識的にダニエルを見た。彼はいま、口を開けてアニヤを見つめている。
「……何?」
「いや……中々パワフルなお母さんだね」
「物は言いようね」
「嫌みじゃなくて。また一つ前に進めそうだ。ルドバリとの会話はどうだった?」
「あ、あの毒親とのやり取りですっかり忘れてたわ、まったく……」
アニヤはルドバリから受けたアドバイスや指示を共有した。それを聞いてダニエルが顔をしかめる。
「ルドバリの知り合いで第一区の黒帮……。嫌な予感しかしないな。指示書を見せてくれないか……ありがとう。……一枚目が指示書で二枚目が……紹介状。うわ、マジかよ。これはマズい。アニヤ、ここに載っている
「それだと何がマズいの?」
「上流階級のやつらを相手にするのは大変なんだよ。それに周囲にも色々気を遣う必要がありそうだし……。まずはミシェルに連絡して大至急、張亮のことを調べてもらおう。ルドバリの知り合いだからという理由だけで万事オーケーという相手じゃない。まったく、ルドバリときたら……」
アニヤにはダニエルが焦る理由が正直に言ってよくわからなかった。魔術ゲットーにおける上流階級という存在はエーヴァ・プリンシラが殺戮を行った対象で遠い昔のものだった。それ以来、魔術ゲットーには貧富の差はあれど、そこまで大きな開きはない。誰もが余分な富を持つことに固執しなくなった。今でも欲張りな子どもにはエーヴァの名前を出して注意する親がいる。「そんなに欲張って自分のことばかり考えていると、エーヴァに連れていかれるよ」と。
上流階級が相手だと何が大変なのだろうか。自分にはまだまだわからないことがたくさんある。ダニエルと出会ってからこう思わされるのは何度目だろうか。
わからないことは不安だ。でもこれは確実に成長のチャンスだった。
真剣に悩んでいるダニエルの表情を盗み見る。そこでアニヤは気付いた。
――わからないのは、わたしだけじゃない。
どうしてこんな単純なことに気付かなかったのだろう。ダニエルにだってわからないこと、出来ないことがある。お互いに助け合って切磋琢磨すること。それがクイーンとナイトのあるべき姿じゃないだろうか。
アニヤの肩からすっと何かが降りた。特区で果たすべき責任も、プリンシラの名前の呪縛も。残ったのは、アニヤ・プリンシラという個人のみ。自分はじぶんに出来ることを精一杯やるだけだ。失敗するかもしれない。そうしたらその時また考えればいい。助けてくれる人もいる。
「ドニー、そんなに心配しないで。考えることは大切だけど、その場になってみないとわからないこともある。それに万が一の時は全力で逃げればいいでしょ? そういう単純な解決は、わたしもあなたも自信があるよね」
「単純な解決? それってもしかして、武力と魔術による強行突破のことを言っている?」
「うん、そう。あなたが強いのはわかるつもり。でもわたしの魔術だって案外荒事に向いていたりするんだよね。だからさ」
アニヤは笑う。今このときもこれからも楽しくてしょうがないというように。
「やろうよ。あなたはわたしのナイトなんでしょ?」
驚きから、呆れになり、次に諦めになって、最後にはダニエルも笑った。芝居がかった仕草で胸に手を当てる。
「仰せのままに、マイ・クイーン」
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