喧嘩 ── ダニエル ──
陽射しが射し込む気配は全く無かった。そのせいか夏だというのに肌寒い。雨が降ったら秋と冬の中間くらいの寒さになるだろうとダニエルは思った。
悪目立ちはしたくなかったがアニヤを待つ間に煙草だけで過ごすのは辛く、我慢できずに近くのカフェに足を踏み入れた。そして予想通りに全員が会話をやめダニエルを凝視する。それらを無視して注文カウンターに向かう。
「やぁ、どうも」
「いらっしゃいませ……ご注文をどうぞ……」
錆び付いたゲットー語はどうにか通じたようだったが、若い女性店員はどのように対処すべきか迷っているように見えた。サングラスを頭にずらし、ダニエルは優しく微笑んだ。
「魔術ゲットーのコーヒーが好きで、やっと本場の味が楽しめるってわけ。ここで一番美味しいストレートコーヒーを一杯、テイクアウトで」
旅行客だと思った他の客は少しずつ会話に戻り始める。それでも数人に見られているような感覚がある。
「特区から来たんですか? すごい! わたし、特区の人に会うの初めてです!」
「なんもすごくないですよ。ええと、レートが良くわからなくて。これだけあれば豆も持ち帰ることは出来ますか? ゲットーでも特区の貨幣が使えるって聞いたんだけど」
「ええ!? 十分過ぎますよ! ええと、どうしよう。どれくらい欲しいんですか?」
「三百グラムくらいでいいんだ。あとは君へのチップで」
渡したのは最低額の紙幣だった。特区とゲットーの貨幣価値の差はここまで大きいのかと愕然とする。オーダリウスの壁は伊達じゃないとあらためてダニエルは痛感した。
店員は丁寧にドリップしてくれた。店内に広がるコーヒーの香りに新たな一杯が加わる。その時点で手渡されるコーヒーは間違いなく美味しいとダニエルは確信した。
店員から紙コップと豆を受け取りお礼を伝えて店をでる。車のルーフに豆を置きコーヒーを飲む。いつも飲んでいるコーヒーと比べると少し軽い。だがその分飲みやすい。苦味も控え気味だが代わりにフルーティな香りが口の中に広がった。それが甘味を感じさせ絶妙なバランスを産み出しているまさに絶品だった。
急いで煙草に火をつけて大きく吸い込む。煙草の味が口の中の余韻と混ざりあって別の音楽を奏でる。煙を吐き出すと同時に幸せが全身に沁みわたる。少しメランコリーな気分がゲットーの曇り空と調和する。ここで時が止まりいつまでもこの感じに浸っていたかった。
しかしダニエルの注意がカフェから出てきた三人組に向けられたことにより心地よい時間は霧散した。eyeOSのソーサリーマップが起動し魔術を検知し、色の濃淡から極微小の魔術を遣う態勢であることが窺える。
先頭に一人、斜め後方に二人。典型的な喧嘩スタイル。
――面倒なことになったぞ……。
「お前、魔女と一緒に特区から来たやつだろ?」
先頭の一人が声をかけてくる。後ろの二人は追従しているだけでリーダーはこの男で間違いなさそうだった。
「魔女? すみません、あなたが言っていることはよくわからない」
「そんなわけあるか。コーヒーを注文して若い女を口説くやつが、おれの言っていることがわからないはずないだろうが」
「違う、そうじゃない。あなたの言っていることの意味はもちろんわかっています。ぼくがわからないのは魔女という件です。一体なんのことですか?」
それがアニヤのことを言っているということはもちろんダニエルにはわかっていた。
しかし何故魔女なのか。彼女が生首を造り出せるから? 彼女が
自分が知るべきことは何か。ダニエルは興味が湧いてきた。
「おめでたいやつだ。プリンシラの魔術がどんなものかも知らないで一緒に行動しているのか?」
知っている。恐らくは息を吹き掛けることが魔術発動の条件。そしてその対象を変化させることができる魔術。
しかしダニエルは肩をすくめて敢えてわからないふりを続けて見せる。
「あいつは息を吹き掛けるだけで人を殺す魔女の末裔なんだよ。あいつの先祖エーヴァ・プリンシラは御伽話では女義侠なんて呼ばれているが、一族全員、年寄りから女子どもまでその全員の生き血を抜いて石にした化け物さ。お前はそんなやつと一緒にいるんだぜ?」
男の言葉はダニエルに戦慄を与えた。何故そのことに気がつかなかったのか。確かにアニヤが石化を念じて魔術を遣えばそうなるだろう。
錬金術と言ったとき何故アニヤが複雑な表情をしたのか。
何故苗字が嫌いなのか。
何故自分は嫌われている、歓迎されないと言うのか。
どうして彼女はふとした瞬間に悲しげな
「そういうことか……」
ダニエルが目の前の三人を睨み付ける。
「特区の多くの人々は魔術ゲットーを蔑み、差別している。それは自分たちにはない巨大な力を持つ魔術師が怖いからだ。オーダリウスの壁は特区を外敵から守るものではなく、魔術師たちを閉じ込めておくためにある。そしてそうやって差別されている集団の中でもやはり、差別が行われているって言うことだ。お前たちはアニヤ・プリンシラが怖いのさ」
ダニエルはコーヒーを飲み干すと紙コップを投げ捨て、車を背にする位置から移動して自由に動き回れるスペースを確保した。案の定、三人が黒、赤、青の魔術色につつまれる。だがそれはダニエルが知っている色よりずっと淡い。こんなレベルの魔術師がアニヤと同じ組織の一員だとしたら、この程度の人材しか召集できないルドバリを不憫に思うほどだった。
「こっちは親切心で言ってやってるのにぐちゃぐちゃうるさいやつだな! お前らのその上から目線が気に入らないんだよ。特区のやつがっ!」
先頭の赤の魔術師が手をつき出すと僅かな時間差で掌から炎が一直線に吹き出した。手をつき出すということはこれから魔術を遣うと宣言したも同然のこと、そして実際に魔術が放たれるまでの数秒間。これだけあればeyeOSが魔術の軌道を予測するのには十分だった。
こいつの魔術は直線でしか作用しない。
「わかれよ! 彼女の気持ちを!
ダニエルは迫り来る炎を避けがてら一気に相手までの距離を詰める。咄嗟のことで反応できない相手の懐に飛び込み間合いを図り、右足を踏み込むと同時に鳩尾に掌底を打ち込む。悲鳴を上げて赤の魔術師が吹っ飛ぶ。
eyeOSがアラートを鳴らす。至近距離からの魔術放出のリスク。黒の魔術師が同じように手をつき出しているが魔術発動のスピードは赤の魔術師よりさらに遅い。
「魔術に頼りすぎなんだよ! 演舞じゃないんだっ!」
掌底を打った低い位置から全身を使って跳躍し、相手の胸骨に膝蹴りを当てる。黒の魔術師がスローモーションで後ろに倒れていく。
次はeyeOSがアラートを鳴らす前に直感で体を捻った。右頬に熱さが走る。青の魔術師が放った風刃が僅かに頬を撫でた結果だった。
受け身をとって態勢を整え即座に相手に向かってダニエルは駆け出したが地面から舞い上がる風の壁に行く手を阻まれる。
――リーダーは赤だが実力は青が一番だったか……。だけどっ!
ダニエルは魔対課にいた際に数多くの魔術師と対峙した。その時に魔術色から相手の力量を推し量る術を身に付けていた。
――このレベルの魔術師がこんな勢いで魔術を遣い続けたら行き着く先は……。
風が弱まり、やがて消え去る。青の魔術師は膝をつき肩で荒く息をしている。息を潜めて遠巻きに眺めていた人々が止めていた会話を再開させ、雑踏は元の姿に戻った。誰も気にしている様子はない。魔術ゲットーではこうした魔術を用いた争いが日常茶飯事なのだろうか。
ダニエルは青の魔術師の髪を引っ張り自分の方を向かせた。相手の表情には恐怖の色がある。
「自分のキャパシティを考えず魔術を遣い続ければこうなるさ。自分で言うのもなんだが、喧嘩を売った相手が悪かったな。あんたらとは戦闘経験が違うんでね」
空いている手で煙草に火をつけて煙を吐き出す。その間もダニエルは相手から視線をそらさない。
「二度とおれのクイーンを侮辱するな。彼女に対する嫌がらせも同様だ。赤と黒のやつにも言っておけ。次はこんなもんじゃすまないぞ」
本当は目の前のこの男にも一撃を与えたい。ダニエルはそう思ったがふと考えた。自分はなぜこんなにイラついているのかと。
それと同時にアニヤが入っていった建物から人々が駆け出してくる。ここにいると面倒なことになりそうだと、コーヒー豆を手にしてダニエルは人知れずその場を後にした。
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