ドゥベル ── アニヤ ──
トロルーカーリの本部に入ると、一階にいる全員が自分の方を見ている気がした。サングラスをかけているせいだろうか。魔術ゲットーほどサングラスが不必要な場所もない。
自分が特区へ派遣されることになったのは間違いなく全員が知っている。アニヤは内心でため息をつきながらも二階に続く階段へ向かった。
「見ろよ。たった一日で特区かぶれだよ、魔女様はさ」
サングラスのおかけで目の動きは隠されている。声のした方に目をやるといつもパトロールへ一緒に出ている先輩だった。がさつな言動に目が行きがちだが、粘りのある捜査をする魔術師で組織内の評価も高い。彼にあのように目をつけられたらやりづらくなる。
アニヤはそう思いサングラスを外そうとした。そしてそれと同時にダニエルの顔が思い浮かんだ。彼は笑いながら言った。
何を気にする必要があるのさ。
その通りだと思った。特区行きを命じられたのは自分なのだ。たとえルドバリにどのような思惑があろうとその事実は変わらない。誰もが掴みたいチャンスを手に入れたのは自分だ。卑屈になる必要はない。
そのまま二階へ続く階段を上りルドバリの執務室のドアをノックする。「入って」と一言。ルドバリはもう魔術痕を感知してわたしが来たことに気付いているだろう。
「失礼します」
正面に大きな窓があり、それに背を向けてデスクチェアに座るルドバリがいる。この部屋だけはいつ来ても明るい。
「経過報告と相談したいことがあります」
「座って。コーヒー、飲むでしょう? 特区だとまともなコーヒーなんて飲めないからね」
――この人はあのお店に行ったこともなければ、ドニーが淹れるコーヒーも飲んだことがないんだ。
出されたコーヒーは熱く、黒く、とことん苦い、まさにゲットーのコーヒーだった。アニヤはそれを飲みながら発見した魔術痕と西方山岳地帯の魔術を遣う魔術師についての捜査の助言を求めた。話を聞く間、ルドバリは難しい顔をしながら煙草を吹かし宙を睨んでいた。
「なるほど、確かに難問ね。黒帮が関わっているとしたらロクなことにならない。でも関わっているかどうかもまだわからない。彼は現状についてどう分析している?」
「フォシェーンは魔術痕というよりは言ノ葉の魔術について深掘りしていくのが良いのではないかと言っていました。それで、あなたであれば誰かこの魔術の遣い手に心当たりがあるかもしれないと」
「……なるほど。あなたは彼の考えをどう思っているの?」
試されている。何故かはわからないがアニヤはそう感じた。自分がこの捜査に、ダニエルのパートナーに相応しいかどうかを。
唾を飲む音が聞こえたのではないかと心配しながら、アニヤは脳をフル回転させる。
「賛成です。黒帮や魔術ゲットーと言うように大きな範囲から絞っていくと万が一誤りがあった場合、時間のロスが大きいです。言ノ葉の魔術は禁術ですから遣い手は限られてくるはずで、一人魔術師を見つければそこから芋づる式に犯人へと繋がる可能性もあるかと。これなら空振りでもまだ取り返せます」
「そうね、そのアプローチは良いとわたしも思う。ただ見込みはちょっと甘いかもしれないけど」
「……この魔術の遣い手同士に横の連帯感はない、ということですか?」
「そういうこと。そもそも禁術を修めようとする魔術師がそういう繋がりを求めているとは思えなくて」
ルドバリが再び煙草に火をつけて静かに立ち上がる。猫のようにしなやかで優雅。椅子が軋む音も服の衣擦れも聞こえない。影の中を生きる魔術師に相応しい身のこなし。
「でもね、いい線は行ってると思う。第一区にいるわたしの知り合いを紹介するからドニーと会いに行って話を聞いてみて。もしかしたら何か知っているかもしれない。まぁそれを教えてくれるかどうかはまた別だけどね。それと、お母様には訊いてみた?」
「母に?」
何故ここで母親が登場するのかアニヤには意味がわからなかった。母は怠惰で、自己中心的で、仕事も始めてはすぐに辞めてしまうような体たらくで。
そんな母親が一体何の役に立つというのだろうか。
「すみません、母が何かの役に立つとは全く思えないのですが、どうしてあの人が何かを知っていると思うのですか?」
窓から階下を眺めていたルドバリが振り返る。その瞬間、恍惚としたような表情を浮かべていたように見えたがアニヤに向き直った時はいつものルドバリだった。
「あなたがお母様にどのような感情を抱いているのかはわからない。でもね、アニヤ。あなたが知らないだけでプリンシラという姓の力はまだまだすごいものなの。私たちが知らないことでもサイニ・プリンシラが知っているという可能性は考える必要がある」
心臓の鼓動が聞こえた。それは徐々に速くなっていき、頭の中で増幅され、それ以外に何も聞こえなくなる。
ルドバリが示唆していることは何なのだろうか。エーヴァ・プリンシラが過去に行ったこと。プリンシラがまた殺人を行っているということなのか。
だとしたら自分はどうすればいい? 後ろ指を指されながらも今までどうにか生きてきた。でもこれで母親までもが殺人者だとしたら?
耐えられる自信はない。
――落ち着け、自分……。いくらなんでも飛躍しすぎ。ルドバリはそんなこと一言も言っていない。落ち着け、おちつけ。気付かれないように、深呼吸をして。
平常心を、とアニヤが苦悶している最中にルドバリが指を鳴らした。図らずしもそのお陰でアニヤも我に返る。幸い、ルドバリに気付かれた様子はなかった。
「そっか。サイニのことを話していて思い出した。どうしてこれに気付かなかったんだろう。あなた、ドゥベルって知っている?」
「え? どういう意味ですか? ドゥベルという言葉の意味はもちろん知っているつもりですが……。すみません、情報が多すぎて少し混乱しています」
それは本音だった。黒帮のことから始まったはずなのにいつの間にかルドバリの知り合いだったり母親の話となり、次は言語の問題を出された。この話がどこに向かっているのかアニヤにはわからない。ルドバリはドゥベルについて思い出したことで少し興奮しているようだ。
「ドゥベルとは、二重に魔術を遣える魔術師の俗称なの。当然、魔術痕も変わってくる。でも、本人固有の痕は決して変わらない。かなり時間がかかりそうだけどこっちでは人海戦術でその比較作業を始めてみることにする。アニヤ、あなたたちはさっき伝えた通りわたしの知り合いとサイニを当たってみて」
「あの! プリンシラの姓の力って、どういう意味なんですか? 誰もが嫌悪しているこの姓に何が出来るって言うんです?」
「まぁ、当事者であればそう思うのも仕方ないのかしら。……でも、サイニはあなたに何も話していないのね」
再度窓の外を眺めたルドバリは、今度は僅かに眉をひそめた。そして注意して見ていなければわからない程度にため息をつき電話に手を伸ばす。ダイヤルを回さない内線電話。応答を待つ間に再び煙草の火をつける。
「ルドバリよ。下の騒動は適当に片付けて。一般人の男には手を出さないように。え? ……ええ、それでいいの。心配しないで。あなたたちが束になっても勝てる相手じゃないから。それともう一つ。急いで現像して魔術師を特定してもらいたい魔術痕があるの。こっちが急ぎ。重要事案以外はすべてこの案件に人員を割いてちょうだい。ええ、それで全部」
電話を切るとルドバリはアニヤが投影した魔術痕を写真に収めた。
「サイニと話をしてちょうだい。何を話すも彼女次第だからわたしからは何も言えない。ただ、言ノ葉の魔術や西方山岳地帯の魔術師についてはしっかり確認をとって。さ、時間は限られているわよ」
話は終わりだった。一階に降りるとさっき嫌味を言ってきた先輩やその取り巻きが担ぎ込まれてきてアニヤとすれ違った。
つかみどころのないルドバリの話に苛立っていたアニヤは、何があったか知らないが良い気味だと内心でほくそえんだ。
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