魔術図書館 ── ダニエル ──
魔術ゲットーから特区へ入区するには厳しい審査を要する。しかしその逆、特区からゲットーに入るのはただ身分証を提示するだけで良く、行き来は比較的自由だ。特区は魔術ゲットーを別世界というようなイメージを植え付けるプロパガンダを行っているが、ゲットーと交易を行うことで利益を上げ多額の税金を納めている業者もいる。そういった会社や人々に対して魔術ゲットーへの越境を規制してしまうと痛手を被るのは何より特区であり、この越境の仕組みはこうした矛盾が産んだグレールールだった。
越境ゲートにシルバーの小型乗用車が滑り込んだ。サングラスをかけた男女が二人、ゲットーへの越境を申請する。
「フォシェーン夫妻ですね。身分証ありがとうございます。魔術ゲットーへはどのような目的で?」
「新婚旅行なんですよ。第五区まで行くにはちょっと予算が足りなくて」
「なるほど。良い記念になるといいですね。お気をつけて」
ダニエルは係員に手を振り、開いたゲートをくぐって車を進める。
「拍子抜け。本当にこんなに簡単なんだ。魔術痕を見られたらどうしようと思っていたんだけど」
「そこに経費はかけられていないんだよ。伝えておけば良かったね」
「ふぅん、本当に、ゲットーと特区の関係って一体なんなんだろ。特区はわたしたちを閉じ込めておきたいんだよね?」
「そ。だから、出るときは少しだけ厳しいよ。それでもアニヤが来るときに受けた審査ほどじゃない。密輸入とか密入区とか、そういった所がクリアされればオーケーって感じ」
「わかんないな。閉じ込めたいならもっと真剣に色々やればいいのに」
ダニエルはアニヤとこうして自然に会話出来ることに大きな進捗を感じていた。
魔術師かそうでないか。オーダリウスの壁が象徴するようにまずここに間違いなく壁が存在する。さらに個々人のパーソナルスペースという境界線がある。クイーンとナイトの関係はこの合計二つの壁を極力低くしてお互いの妥協点をどこに置くかが求められる。魔術に秀でている、体術が優れている。ただそれだけでクイーンやナイトになれるわけではない。相互理解、尊重、そう言った当たり前のことが重要な世界だ。
そう言った観点から、たった一日で今の状況はダニエルにとっては望ましいものだった。
――それに、おれは純粋にいまを楽しんでいる。おれは会話に飢えていたんだろうか。
オーダリウスの壁を抜けると、水銀を流し込んだような曇り空が広がっていた。これはもはや雲ではないとダニエルは思う。魔術ゲットーはこの空を覆う魔術を祓おうとしているが功を奏してはいない。七聖人の末裔は今も特区に存在するが、この魔術に関する口伝はとうの昔に途絶えていた。書物による記録もなく魔術ゲットーの努力は当面続くだろう。
「陰鬱だ。特区を見ちゃったから尚更そう思う」
「……特区で暮らしていると曇り空が美しく見えるときもあるんだけどね」
「毎日これだったら醜いだけだよ」
「……そうかもね。図書館はどこだっけ?」
「まだ真っ直ぐで大丈夫」
「オーケー。曲がるとき教えて」
ダニエルは車を走らせながら魔術ゲットーの町並みを眺めた。古めかしいレンガ造りの建物からカラフルな外壁の建物まで様々で、曇り空のせいか赤や黄色、水色の外壁の明るさが際立ち、レンガだとその重厚感が増して見える。メインストリートを走る車の数は少ないが往来は人々がせわしなく歩き回り、カフェは多くの人で賑わっている。
「賑やかだね。前に仕事で来たときは気付かなかった」
「貧困から脱却するためにみんな死に物狂いなだけだと思う。カフェはそんな人たちでも安価に楽しめる娯楽の一つなの。魔術のおかげでこんな気候だけどコーヒーだけは採れるから」
「程度の差はあるかもしれないけれどそれは特区でも同じだな。日々を生きる人たちはその日のことだけで精一杯で、それが毎日繰り返されて、繰り返されることによる熟練っていうのはあるかもしれないけれど、そこからの脱却は難しい」
「特区もゲットーも変わらないってこと?」
「そうは言わない。言えないよ、そんなことは。けどなんて言うかな、結局は人の営みでしょ? 根底は同じだと思うんだよなぁ」
まるで空を覆う雲が見えない粒子となって車内に入り込んできたように空気が重くなった。あの魔術の最大の効果はこれだとダニエルは思う。ちょっとしたネガティブが一瞬にして増大される。気持ちを重くさせる。人々から活気を奪う。この魔術を発動させた七聖人は一体どんな目的でこの魔術を作り出したのだろうか。もしそれが考えた通りそこにいる人々の精神を蝕むことが目的であれば、それはあまりにも非人道的な魔術だ。
ダニエルは話題を変えた。話したかったのはこのようなことではなかった。いつも自分はこうして思っていることを何も考えずに吐露してしまう。以前にもそれで、人を傷つけたことがある。
「……ところで、特区でゲットー産のコーヒーを飲もうとしたらとんでもない値段を吹っ掛けられるんだけど、ここでなら安く手に入りそうだ。帰りに買って夜に一緒に飲もうか」
「え? あ、うん……別にいいけど」
「あれ? あまり乗り気じゃない感じ? 無理にとは言わないけれど」
「ううん、全然そんなことない。いいと思う」
「なら良かった」
「あ、そこ。そこ左」
魔術図書館はゲットーの中では近代的と呼べる建物だった。コンクリート造で大きな窓が一定間隔で設置されている。二階建てで不思議と窓から中の様子は伺えない。
駐車場に車を停めて建物を見たダニエルの第一印象はこうだった。
「先に言っておくけどさ、わたしあまり歓迎されないと思う。かと言ってドニーが話を進めても特区の嫌なやつって思われるかも」
「あぁ……そうなんだ。ま、いいよ。昨日と同じ出たとこ勝負で行こう。おれが話を進める。あの手この手でね」
「ルドバリに話を通してもらえば良かった。あぁ失敗したな」
「確かに。でもまぁそれは奥の手だったってことで。おれらはおれらのスタイルで行こうぜ。失敗したって殺されるわけじゃない」
ダニエルはジャケットの襟を正すと背筋を伸ばしきびきびと歩き始め、アニヤもそれに従い後に続いた。
図書館の中は壁から天井、書架まですべて真っ白で本の背表紙が唯一の色に感じられた。窓からは外の様子が見えて明かりを最大限取り込もうとしている工夫が見られるが、射し込むのは灰色の陽射しのみだった。
ダニエルは視線を感じながら司書カウンターに向かった。
「恐れ入ります。お尋ねしたいことがあるのですがよろしいですか? 特区標準語はご理解されますか?」
カウンターの中で座っている、黒い髪に眼鏡をかけたいかにも司書然とした女性が顔を上げる。
「はい、わかりますよ。こう見えても四年間特区に留学していたこともあるので、あなたのようなきれいな標準語の聞き取りに問題はありません。しかし、特区の方がここにいらっしゃるなんてどういうことですか?」
柔和な顔立ちの中にも芯の強さを感じさせる女性だった。ダニエルは思わずアニヤの方を振り返りそうになるがそれを堪える。なんとなくいま、アニヤがサングラスの下でどのような表情をしているのかが予想できた。悲しげに、何かに堪えているような表情。いま、彼女を頼るわけにはいかないと本能が告げていた。
「失礼しました。わたしはダニエル・フォシェーンと申します。カロリーナ・ルドバリの要請を受けてある調査を行っているものです」
――奥の手をいきなり使ってしまったが、吉と出るか凶と出るか。
「こちらで調べたい魔術痕がありまして。書架の閲覧を許可いただきたいのです」
「トロルーカーリーの調査ですか。確認を取らせていただいても?」
「もちろんです、ミズ……?」
「ああ、こちらこそ失礼しました。ウッラ・ビルトです、ミスター・フォシェーン。では少しお待ちください」
「館長には伝わっていないかもしれません。ルドバリに直接確認いただけますと……」
既に固定電話の受話器を持っていたウッラはわかっている、というように頷いて見せる。
「ルドバリ隊長ですか? わたしは魔術図書館司書のウッラ・ビルトです……はい、そうです。今こちらにあなたの指示で特区からお客さまが……はい……はい、そうです……はい……」
やり取りは順調に進んだのか、電話を終えたウッラは先程より協力的な雰囲気になっていた。疑うような眼差しは消え、僅かに笑みを浮かべている。
「あなたたちに全面的に協力するよう言われました。ミスター・フォシェーンと、そちらの方に……」
「ソフィ・ヨハンソン。わたしの母方の遠戚で調査助手です。人見知りのところがあって、ご容赦いただけますと」
「わかりました。よろしく、ミズ・ヨハンソン」
二人が握手を交わす。目に見えない何かが飛び交った気がしたが、それはダニエルの気のせいかもしれなかった。
「で、何をお調べになりたいんですか?」
「この魔術痕について。誰の魔術痕かというよりはどんな魔術なのか知りたいのです」
ダニエルはウェラブルOSからパトローニの殺害現場で撮影した魔術痕を投影した。ウッラはそれをじっと凝視する。
「……それであれば、魔術全書か禁術全書を参照するのが良さそうです。いま、原書を取り出しますね」
ウッラは目を瞑りカウンターの上に両手を広げる。ソーサリーマップが起動し赤い魔術痕が彼女を覆った。ダニエルはこの系統の魔術痕が記憶にあった。移動魔術。物質を移動させたり高レベルの魔術師になると自分自身を移動させることが出来る。
見たところ、ウッラのレベルはそこまで高くないようだった。しかし、この魔術は移動させる物質の形状と空間をかなり正確に把握する必要があり、目の前に二冊の書物が飛んできた時、ダニエルは感心せずにはいられなかった。
――この若さで自分の魔術をここまでしっかり遣えるのは大したものだ。特区へ留学していたと言うのは伊達じゃないようだ。
「はい、こちらですね。ここの書物は特区の図書館のように電子記録でアーカイブされたりはしていませんから、目視で探してくださいね。どちらの本も魔術色で分類されていますから、そこから当たってみるのがよろしいかと」
「ありがとうございます。大変助かりました。持ち出しは可能ですか?」
「いえ、ここの書物は持ち出せません。あちらの閲覧室を使ってくださいね。こちらが閲覧許可証です。サインだけいただけますか? ミスター・フォシェーン」
教えられた閲覧室は個室になっており、入室するとアニヤが小さく、しかし深く息を吐き出すのをダニエルは聞き取った。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫」
自分が歓迎されないということと、今の彼女の様子には間違いなく関連がある。だがそれについてはアニヤが話したくなったときに自分から話してくれるだろうとダニエルは思った。今はそれよりやることがある。
「よし。手分けしよう。おれはこっちの書物を確認するからアニヤはそっちを見てくれる?」
「わかった。見つかるかな? かなり分厚いけど」
「まぁやるしかないでしょ。今夜の珈琲を楽しみに頑張ろうや」
「だね」
そこからはページを捲る音すらうるさいと感じるような作業が始まった。アニヤは本に描かれている魔術痕と同サイズで件の魔術痕をウェアラブルOSから投影し、重ねるようにして比較している。ダニエルはeyeOSで比較アプリを起動し、スキャンした書物の画像と写真の魔術痕を比較する。
「見つけた」と言ったのは作業を開始してから約一時間後、アニヤだった。
「これで間違いない。細部は異なるけど特徴的な痕は一致してる。魔術の説明を読んでも腑に落ちる。こんな魔術、知らなかった……」
アニヤが指差すページをダニエルも覗き込む。魔術痕には確かに類似点が多かった。
しかし文章に関しては旧字体のゲットー文字で書かれておりダニエルには読むことが出来ない。
「ごめん、読んでもらえない? これはさすがに読めない」
「ああ、そっか。いいよ。ええとね、この魔術の名前は言ノ葉の魔術。ルーツは西方山岳民族だけど始祖は不明。この本が発刊された時点での人口も不明。この魔術痕自体もかなり古いもので現存する最後の記録って書いてある。この魔術は言葉に力を込めて対象に放出することで、その対象を言葉の支配下に置くこと。例、
アニヤが顔を上げてダニエルを見る。その表情から相手も同じことを考えていることがわかった。
「パトローニは見えない鎖……言葉で拘束されていたんだ。黙れという魔術をかけることで声を出すことも出来なくなるだろうな」
「うん、これで納得がいく」
「禁術か。魔対課にいたときもこんな魔術は聞いたことがない。ルドバリはゲットーの魔術師がやったと思っているからおれに調査を依頼したんだろうけど、西方山岳地帯の魔術ってなると黒帮の可能性もある。参ったな、対象が一気に広がってしまった」
特区には魔術ゲットー以外にも区別される人々がいる。それが特区北西に横たわる山岳地帯で暮らす人々だった。
特区標準語とは異なる言語を操り独自の文化を形成している。それらはゲットーとは違い異文化として特区にも浸透しているが少数であることに変わりはない。
そして、その西方山岳地帯の裏で悪事を牛耳っているのが黒帮と呼ばれる組織だった。その勢力は特区にも進出しており、幻覚を引き起こす薬物であったり非合法の武器売買など、その活動は多岐に及ぶ。当然その中には殺人を職業とする輩もいる。
「黒帮の話は聞いたことがある。オーダリウスの壁があるから魔術ゲットーには来ないけれど……。どうする? ルドバリに相談した方がいいかな?」
「……そうだな。魔術痕から犯人の魔術がわかったのも大きい。こっちにいるんだし、ルドバリに直接報告してもいいんじゃないか? 何か知ってることあるかもしれないし。おれは行かないけどな」
「え? ドニーは一緒に来ないの? 知り合いなんだよね?」
「いろいろ因縁がある知り合いなんだ、残念ながらね。会わなくていいなら会いたくないなぁ」
ダニエルは手元の書物を撫でた。今では珍しい紙のザラザラとした感触。それが不意に過去への扉を開く。急いでそれを閉じてアニヤを見つめる。
――いま、おれまで取り乱してどうする。アニヤも何かに耐えて頑張っているんだ。せめておれは平静を保たなくては。
「まぁ、取り敢えず行こうぜ。思っていた以上の収穫だ。二日目にしてここまで進めばルドバリだってまずは満足さ」
閲覧室を後にしてカウンターへ書物を返しにいくとウッラが先程と同様にそこにいた。
「お役に立てましたか?」
「はい、お陰さまで。大変助かりました」
「探していたのはどんな魔術痕なんですか?」
「あー……ええと、すみません。それは調査中なので答えられないんです。事件が解決したらいつかきっと、報告に来ますね」
「いえ、少し気になっただけですから」
車に戻った二人は同時にため息をつき、顔を見合わせて笑った。
「嘘をつくってさ、結構疲れるよな」
「いや、ほんとにね。なんか、ありがとう……気を遣ってもらって」
「ああ、いや、別に大したことじゃないよ。それよりさっき伝えた通り、ルドバリへの相談は任せるよ。その後にどこかで昼食を食べてコーヒーを買って帰ろう」
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