植物園での会話 ――アニヤ ――
不愉快だと感じていたのは自分だけではなかったと知り、アニヤはほっとしていた。人としての感性はゲットーも特区も変わらない。ロビンソンが言っていたことはレンホルムを気遣っているようで実はそうじゃない。自分より下に人を置くことで自己を肯定しているだけだ。ダニエルも似たように感じていたらしいということが、何故かアニヤは嬉しかった。レンホルムは特区で孤立していた。そしてアニヤはゲットーで孤立していた。特区がゲットーを差別しているのではない。人がひとを差別しているのだ。
いま、アニヤはダニエルと感情を共にして働いている。誰かとちゃんと働くというのはこういう気持ちなのだと今日初めて知った。ゲットーに居続けてはわからなかった感情。ここでは、ダニエルはプリンシラの名前を気にしない。
二人は一階に戻り外から見えていた温室に入った。暑く、植物の匂いが充満しているのはロビンソンの研究所と同様だったが、ここのはそんなに嫌じゃないとアニヤは周囲を見渡す。ガラスには太陽の光を強くする効果があるのだろうか。ダニエルからもらったサングラスがなければとても空を見上げることはできなかっただろう。
むせるような植物の匂いに目が眩む陽の光り。半日前の自分はこんなことを想像も出来ていなかった。レンホルムがゲットーに植物を持ち帰りたいと強く願っていた気持ちがアニヤには痛いほどよくわかる。そしてその気持ちを知ったいま、彼女を殺害した犯人を絶対に許すことはできない。必ずゲットーに連れ帰り然るべき裁きを受けさせる。
「良かった、彼女だ。黒いチョーカーを着けている。作戦を変えるからうまく合わせて」
リンネア・ファルクナーは大木に手をあてて目を閉じていた。しかし突然パッと身を翻して二人に向き直ると警戒するように後ずさる。笑って、とダニエルが囁き本人は両腕を肘から曲げて掌を見せた。
「おっと。どうか警戒しないで。少し話を聞きたいだけなんだ」
ダニエルに倣い、アニヤもゆっくりとサングラスを外す。世界の色が変わった。木々はそのままの方が光り輝いて見えるが空は案外、サングラスを通して見る少し濃い青の方が好みだ。
「リンネア・ファルクナー? ほくは特区魔対課のビル・スミス。彼女は相棒のソフィ・ヨハンソンだ」
ダニエルが差し出した手をファルクナーがおずおずと握り返す。この調子だと自分は手を出さない方がいいだろう。アニヤは状況の観察に徹する。ゲットーでもツーマンセルの捜査のときは必ずもう一人が誰かと喋り自分が話すことはなかった。誰もプリンシラとは話したくないからだ。そんな時にはいつも周囲の観察を行い、対象のちょっと仕草などから嘘を見抜いたりする訓練を自分自身に課してきた。
「少し待ってもらっていいですか? いま、観察の途中なので」
「もちろん」
ファルクナーが再び木に向き合い手を当てる。アニヤは彼女が向き直る際に一瞬自分を見たことに気づいた。
(あなたたち、何しに来たの?)
目を閉じているがファルクナーは心話でアニヤに話しかけてきた。ダニエルはきっと気づいている。だが我関せずというように明後日の方向を向いている。ならばここは好きにやってみようとアニヤも応じる。
(サミュエル・ロビンソンはあなたのことをテレパスだと言っていた。そんな質問をするっていうことは心話はできるけど読心はできないのね)
(あのエロオヤジ。いつも女の子のことを見ている)
(そんな感じだったわね。しかしあなた、どうやってわたしと心話しているの? 心話魔術は同じ青の魔術師同士でなければ基本的にできないと思っていたけど)
そこまで言ってアニヤは、この心話領域にもう一つ、自分たちよりはるかに大きい意識の存在を感じ取った。静かな生命のエネルギー。青の魔術師は春を司り東方の力で植物と風に守護される。ファルクナーはいま、大木に手を当てている。
(樹齢の高い樹木の力を借りて心話領域を拡張する実験に成功したの。これを追求すれば赤ちゃんや動物との会話も夢ではないかもしれないし、医療の現場では導入に関して高い期待を寄せてくれている)
(すごい。本当に尊敬する。あなたのこと応援するわ)
(ありがとう。あなた、悪い人じゃなさそう。でもこの子はすぐに、気をつけろという警告をした。ビル・スミスにソフィ・ヨハンソン? 世界で最もありふれた名前の二人組み。当然偽名よね? そのスミスさんに限って言えば精神のガードが固すぎて心話の余地もない)
相手が精神系の魔術師だとわかっていたのだから、当然その準備はしておくべきだった。一般人のダニエルがそれを怠らず魔術師である自分が怠りこうして心話を許しているのは情けない話だとアニヤは唇を噛む。
ダニエル・フォシェーン。カロリーナ・ルドバリの知り合い。一体どんな人物なのだろうか。
(疑うのも無理はない。だけど、同じ魔術師として信じてほしい。わたしたちはあなたに危害を加えるつもりはないし、いまの生活の邪魔をするつもりもない。スミスも同じ。かれは信用できる)
(……)
ファルクナーが目を開け静かに息を吐きだす。ダニエルにあらためて向き直ると軽く頭を下げた。
「お待たせしました。こちらの用事は一区切りついたので用件をお聞きします」
「ありがとう。アンニカ・レンホルムについて教えてもらいたくて。最近悩んでいたり困ったりしている様子はなかったかな?」
ファルクナーの眉間に軽く皺がよる。魔対課が特区の魔術師を訪ねてくるなどそもそもマトモな話ではない。彼女は本人の知らないところであれこれと話すことに抵抗があるように見えた。
ダニエルもそれを感じ取ったのか慌てて手を振る。
「いまの段階で詳しいことは話せないけど、決して彼女を疑ったり逮捕することが目的ではない。むしろ彼女を助けるためだと思ってほしい。それを踏まえた上で話したくないということであれば無理強いはできないから、おれたちはおとなしく退散するよ」
「……話したくないことは話さなくても大丈夫ですか?」
「もちろん。これは取り調べや尋問ではないから」
それを聞いてファルクナーの緊張がやっと少し解けたように見えた。
「困っていたり悩んでいたりっていうことはなかったと思います。むしろ最近は前より積極的に研究に打ち込んでいるなっていう感じでした。『必ずゲットーに花を持ち帰る』って。わたしからしたら、どうして向こうに戻りたいのかよくわからないけれど」
彼女には目的があった。そこに向かって努力をしていた。
「ゲットーに恋人でもいたんだろうか?」
「あ、恋人はこっちにいました。ほんの短い期間。多分半年くらいだと思うけど」
「なるほど。その人の名前を覚えている?」
「……」
「もちろん、きみから名前を聞いたということは言わないよ、リンネア」
相手に応じて態度や攻め方を変えるダニエルの聞き取りはうまい。ロビンソンのような普段から人に指示を出すことに慣れている人間にはさらに上位の態度を取ることで力関係をはっきりさせた。ファルクナーに対しては友人のように振る舞っている。一人二役。通常はこれをパートナーと分担して行うけどダニエルは一人で行える。
アニヤは急に、今いる世界がさらに眩しくなったのを感じた。あの暗い世界で今まで自分がやってきたことはなんだったのだろうか。この眩しい太陽も優れた知識や能力を持つ二人も、自分には不釣り合いな高みの存在。
「マルツィオ・パトローニ。ここの博士課程二年目です。別れた理由はよく知らない。マルツィオは素敵だけどその分遊んでる噂も多くて。ひどい目にあわされたの? って訊いたら自分とは合わなかっただけって言ってた。すごく悲しそうな顔で」
ファルクナーの発言で物思いから引き戻される。悲観している余裕はない。それならそれで現実として受け入れて前に進むしかない。
――たとえそれが痛みを伴うことだとしても。
「ありがとう、リンネア。話してくれて感謝する。他には特に気になることはなかったかな?」
ファルクナーが首を横に振り、ダニエルは会話が終わったことを示すようにサングラスをかけ直す。
「この木が少しでもぼくたちのことを認めてくれたのであれば良いんだけど……。時間を作ってくれてありがとう」
「あなた、この子のことがわかるの?」
「いや……」
そう答えながらダニエルはファルクナーのように木に手を当てた。
「わからないよ。ぼくは魔術師ではないからね。でもなんていうかな? この木がきみをとても大事に想っているような佇まいみたいなものは、なんとなくね」
ダニエルとアニヤは改めてファルクナーに礼を告げてその場をあとにした。
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