夢幻の現実 ── アニヤ ──
初めてのデートは、お屋敷の庭園を模したようなレストランで二人でオムレツを食べた。まぁ、悪くない出だしだと思う。
どこに行きたいかと訊かれたので、海と答えた。ポットに入れた珈琲を持ってただ黙って砂浜に座り、潮風を浴びて、波の音を聞く。時々話をする以外はそうやって時間を過ごした。
わたしはこういう時間の過ごし方が好きだ。あくせくと動き回るのは性に合っていない。
彼は黙って付き合ってくれている。嫌がっている素振りは今のところ感じられない。自分の好きな時間を共有できる誰かが傍にいることって、こんなに幸せなことだったんだと気付かされる。
一瞬強い風が肌を刺し、身震いする。時計を見るともう夜だった。こんなに明るいのにもう夜なのだ。昼間の爽やかな風は姿を消し夜のそれに変わっている。
彼がそっとわたしの肩に手を回した。初めての触れあい。肩が異常なほど熱い。緊張していることに気付かれていないかと心配になる。
でも、おかげで暖かかった。
わたしは首を回して彼の方を見た。彼もわたしの方を見ている。優しげなのにどこか誘うような危険さが感じられる目付き。その茶色い瞳に一度捕まってしまったら、もう逃げられない。
目を閉じて、わたしは彼を待った。
※
目を開けると、知らない部屋の天井が見えた。上に着ていたブラウスは脱いでいてタンクトップ姿になっている。スカートは履いたままだが靴下はやはり脱いでいる。
横たわっているのは信じられないくらい柔らかくて大きなベッドだった。部屋の左側にはドアが二つ。右側はガラス張りで海が一望できる。今はちょうど、オレンジ色の太陽が沈んでいくところだった。その美しさにアニヤは息を飲み、自然とバルコニーに出てその景色を見つめる。
時刻は二十一時三十分。常に雲に覆われているゲットーは既に真っ暗だ。こんな時間でもまだ明るいということがアニヤとっては非現実的だ。ゲットーにいたら絶対に知ることのできない景色。
「きれいだろ? ここから見える夕陽はさ」
バルコニーには階段があって、下からダニエルが上がってきて声をかけた。
「バルコニーのドアが開く音がしたからさ、起きたのかと思って。体調はどう?」
つい夕陽に見とれていた自分を叱責する。そう。今のこの状況はどういうことなのか。最後に覚えているのはマルツィオ・パトローニの死体。そして襲いかかってきた目眩。
「わたし……倒れたの?」
「ああ、大変だったよ。ほらこれ、水。飲んだ方がいい」
手渡されたペットボトルの水は氷のように冷たかった。
「短時間で魔術を遣いすぎたんだと思う。特にあの顔の再現はちょっとキツかった。今こうして落ち着いているっていうことは、わたしは薬を飲んだっていうこと……ですよね?」
「ああ、うわ言で何度もリュックの中の薬って言ってたから。取り敢えず一粒飲ませたけれど問題なかったかな?」
「……ええ、大丈夫です。すみません、ご迷惑おかけしました」
失態だった。アニヤは唇を噛む。やはりどこか浮かれていたに違いない。ルドバリはあれほど警告してくれていたのに結局自分は……。
後悔の念が押し寄せる。なんと報告すれば良いのか。定時連絡の時間もとうに過ぎている。これ以上先延ばしにするわけにはいかない。失敗したことはさっさと対応してしまい状況をクリーンにする必要がある。
「この時計、魔術ゲットーにも電話をすることが出来ますか?」
「え? ああ、もちろん。ああそうか、報告か。うん、ほら、ここをこうして、あとは番号を入力するだけ。おれは席を外す」
言われた通りに操作をすると、時計から電話の発信音が鳴る。ダニエルは親指を立てると先ほどアニヤが眠っていた部屋に入っていき、二つあるうちの一つのドアに消えた。
「ルドバリよ」
「お疲れさまです、アニヤ・プリンシラです。報告が遅くなり申し訳ありません」
「いいのよ。彼とディナーでもとっていた?」
アニヤは「サウンドオンリー」と投影された画面に向かい、ミシェルのこと、大学でのこと、パトローニのマンションでのことを手短に報告を行った。昼食のことは省いた。やましいつもりはなかったが気が付けば何故かそうしていた。
「わかった。今のところ、そっちの警察よりは先を行っているみたい。でも明日には魔対課からクイーンとナイトが派遣されるみたいだから油断しないで」
魔術犯罪対策課は特区における魔術犯罪捜査のエキスパート集団で、魔術師と一般人の捜査官二名のツーマンセルで捜査を行う。クイーンとナイトということは魔術師は女性。どんな魔術師なのだろうか。
「承知しました。フォシェーンとも相談ですが、可能であれば明日はアンニカ・レンホルムが殺害された現場に行ってみるつもりです。パトローニの死体に残っていた魔術痕と現場のそれを見比べてみたいので」
「わかった。フォシェーンが記録した魔術痕をこちらに転送できれば速いんだけど……。こういうとき、つくづく魔術ゲットーが嫌になるわね」
通話を終え、思ったいたほどクリティカルな事態ではなかったことにアニヤは安堵した。後方の憂いを断つことが出来たので気持ち的には楽になっていた。
バルコニーと部屋を区切る窓がノックされる。ダニエルが中に入ってくるように促していた。
「風呂を用意したよ。入るといい。魔術ゲットーから来た魔術師はみんな、風呂に感動するんだ。きみも例外じゃないと信じたいね」
「お風呂……でも、そんな暇は……」
「言いたいことはわかる。でも、こんな時間からじゃ出来ることはないよ。パトローニの件については食事をしながら話せばいい。まぁそれが、食事中の話題に相応しくないことは認めるけど。さ、せっかくなんだから。きみは少しリフレッシュする必要があるよ」
浴室は部屋と直結していた。何かあれば時計で呼び出してと言いダニエルは部屋を後にする。この腕時計は耐水性らしい。
そう言えば新しい下着を買う暇がなかったとアニヤは思い返した。入区管理所での出来事が遠い昔のようだった。それこそそんな暇はないと決意して、アニヤは着替えを用意して風呂に入る。ボタンだらけだったが適切なピクトグラムが記載されておりどうにか操作することが出来た。
ダニエルが言っていた感動は、浴室に踏み入れた瞬間から感じ取れた。まず、寒くない。大量のお湯が張ってあるせいか水蒸気が充満して浴室全体が暖かい。
そして、シャワーから出るお湯の暖かさも驚きだった。魔術ゲットーではこんなに暖かいお湯は出ない。シャワーの勢いも強く、それ自体がマッサージを受けているようだった。いい匂いの石鹸とシャンプーで頭と体を洗い、恐る恐るお湯の中に体を沈めた。
「ああ……」
思わず声が出る。文化としては知っていたがこうしてお湯に体を浸けるのはアニヤにとって初めての経験だった。
――なんて気持ち良いんだろう。これは、本当にすべてがどうでも良くなる……。
「はぁぁ……」
浴室もバルコニー側はガラス張りになっており、ちょうど海に沈みきる夕陽を眺めることが出来た。オレンジ色の一筋が水平線の向こう側に消え今日の終わりを告げる。自分の意識もこのまま消え去りそうだったが、アニヤは意を決して風呂から上がった。
ゲットーから出てきた魔術師がお風呂に感動する、というのは納得だった。これは決して魔術ゲットーでは味わえない至福感だろう。しかし、と体を拭きながら広い浴室と洗面所を見渡す。こんな豪華なお風呂を体験したことのある魔術師はそうそういないだろう。特区の生活水準としてはマルツィオ・パトローニの住居が平均に近いような印象を持った。あの部屋と比べるとここはまるで天国だ。もしここがダニエルの住居だとしたら……いや恐らくそうなのだろうが、彼は一体何者なのだろうか。相当お金を持っていなければこんなところには住めないはずだ。
汚れ物をとりあえずリュックに突っ込んで、ショートパンツとTシャツに着替える。人前に出るには少しラフすぎるような気もしたが、それはもう気にしてもどうしようもない問題だったのでアニヤは割り切った。腕時計が振動し、メッセージが空中に投影される。
「風呂からあがったら食事にしよう。部屋を出て階段を下に降りてくれ」
自分は上司から依頼された任務のために特区に来た。そんな自分がこんなことをしていて良いのだろうか。
――今はもしかして、夢か幻なのではないだろうか。これではまるで……まるで……。
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