クイーン・アンド・ナイト ── ダニエル ──
黒いショートパンツに白いシャツで螺旋階段を危なげに降りてきたアニヤに、ダニエルは目を奪われる。そして、やはり彼女をここに連れてきたのは間違いだったかもしれないと思った。それくらいにアニヤは魅力的だった。
「……お風呂は感動した?」
平静を装い尋ねると、アニヤは申し訳なさそうにうなずく。そんな仕草もいじらしく、静かに深呼吸をして精神を整えた。
「予想以上でした。それに、景色も。あらためてありがとうございます。色々してもらって」
「いやまぁ、気にしないで。晩御飯は届けてもらおうと思うんだけど、何にする?」
アニヤの腕時計にメニューデータを転送すると、ウェラブルOSの操作にはある程度慣れたのか、迷うことなく内容を確認していく。
料理を頼んだ二人はテーブルに向かい合って座った。重苦しい沈黙。どこかアニヤは恥ずかしそうな顔をしてダニエルと目を合わせようとしない。そんな彼女を見ているとダニエルも急に居心地が悪くなってくる。
――くそっ。中学生じゃないんだぞ……。
「だいたい……どれくらい魔術を遣ったら限界がくるとか、あるのか? ほらまぁ、なんだ。また倒れないようにおれもある程度把握しておいた方がいいかなと思ってさ」
「その時のコンディションにもよる……んです。いつもなら自分でもう少しコントロールできるんですが、今日はいつもより少し、気を張り詰めていたというか……」
「そうか……。まぁ、無理は禁物だ。焦る気持ちもわかるが、ある程度は慎重に行こう」
「はい……」
再びの沈黙。ダニエルは立ち上がり、出来ることを探した。
そういえば彼女は風呂上がりに何も飲んでいない。そう思い冷蔵庫を開けたが入っているのはアルコールだけで、いま彼女に酒を進めるタイミングとしては間違っているという直感がダニエルにはあった。
他には珈琲があるが風呂上がりには相応しくないような気がして、結局水を出した。
「すまない、明日には何か気の利いたものを買っておくよ」
「いえ……。ゲットーでも飲んでいるのは主に珈琲かお水ですから。気にしないでください」
食事が届いても二人は無言で食事をした。ダニエルはステーキを頼み、アニヤはペペロンチーノを頼んだ。「どうしてペペロンチーノを?」という質問すら憚られる雰囲気。ナイフとフォークが皿とぶつかる音が部屋に虚しく響く。
「あの……」
「うん……?」
アニヤが不意に口を開く。
「食事中に相応しくない話題かもしれないんですが……どうしても気になって」
「いや、別に気にしないよ。なに?」
彼女は何を話そうとしているのか。ダニエルの鼓動が自然と速くなる。食事中に相応しくない話題とはなんだろうか。いくつかの可能性を思い浮かべては却下していく。
「死体のことです」
「……死体?」
――……その話題は却下リストには含まれていない。
「そうです。現場の写真を撮りましたか? カメラは持っていなかったと思いますが……」
確かに現場の写真は撮っていた。eyeOSのフォトライブラリを開きそれをアニヤのウェラブルOSに転送する。彼女は投影したその画像をピンチアウトして拡大をした。
「あの時はわたしも朦朧としていたので記憶に自信がなかったのですが、ほら、見てください。死体には防御創や暴れてどこかに打ち付けたような痕が一切ないんです。おかしいと思いませんか? その……切り取られているんですよ? 想像を絶する痛みだったはずです」
確かに食事中に相応しくない話題だった。ダニエルはステーキの皿を避けてあらためてマルツィオ・パトローニの死体を眺める。
口と目が大きく開かれ、苦悶というよりは驚愕しているような表情。
肌は異様に白く、股間だけがどす黒い。手足に縛られていたような痕はない。性器を切除される瞬間も切られてからも、ただ黙ってここに横たわっていたかのようだった。
「確かに……。麻酔か何かを使ったんだろうか」
そう言ったとき、いま確認した箇所に違和感があることに気が付いた。eyeOSのレイヤーを拡大し違和感の正体を探す。そしてそれは確かにそこに存在した。
「口の中を見てくれ。きみの言う通り確かにこの死体はおかしい……」
投影された画像をギリギリまで大きくしたそれにも、確かにそれを確認することが出来た。
「舌が少し上を向いたまま固定されている。これは死後硬直とは別物のような気がする。おれはこんな死体を見たことがないし、そもそもあの死体は死んでからまだそこまで時間が経っていないように感じられた。こんな不自然な形で固まってしまうほど硬直は始まっていなかったはずだ」
「……抵抗しなかったのではなくて、動けなかった?」
「というか……ある瞬間で止められたっていうような感じがする。そんな魔術があるんだろうか? 金縛りにあわせるような」
「わたしは聞いたことがないけれど……。でもあなたの言う通りだとしたら声を出すことも出来なかったはず。猿ぐつわをされていたような形跡もないし、普通なら大声を出しているでしょう? 誰かが異常に気付いていたはずだもの」
「魔術痕が身体を覆っていたのもこれで納得だ。麻酔や薬物っていう線もまだありそうだけど、おれは十中八九魔術だと思うな」
「金縛り……拘束……固定……? 固定する魔術なら工業系で使われていそう。系譜としては黒か白の魔術師だけど……」
「パトローニを覆っていた魔術痕は青だった。創造を主とする青の魔術師がそんな魔術を遣うのか?」
「うぅん……どうだろう。わかんない……」
手詰まり感があった。「食べてしまおう」と促して、二人は食事を終えた。珈琲を淹れて戻るとアニヤを誘ってバルコニーに出る。二人でガーデンチェアに腰を掛けダニエルは煙草に火をつけた。時刻は二十三時近くで今が一番暗い時間帯だ。
「そう言えば、プリンシラの魔術色は白なんだな」
名前を呼ぶとアニヤはびくりと身体を震わせた。
「物を創造するわけだから青だと思ったんだけど」
「わたし……わたしは白の魔術師」
「あー、でもなんか納得。秋とか鉱物とか、なんかそっちっぽい。瞳もアメジストの色みたいで綺麗だし」
「そっちっぽいって、一体何を理由に?」
「え? いや、わかんない。なんかなんとなく?」
「なにそれ?」
ダニエルが笑うと、アニヤも小さく笑った。
ふと、過去がよみがえる。前にもこうやって笑いあえる相手を助け、一緒に仕事をしていたことを。互いに必要とし、公私共に最良のパートナーだった。
アニヤともそういう関係になりたいかどうか、いまはまだわからなかった。だがあの時のパフォーマンスを発揮できれば今回の仕事もうまく行くはずだという漠然とした思いがダニエルにはあった。彼女とのことは全てが終わった後にまた考えればいい。今はまず、アニヤとの信頼関係を築き上げることに全力を注ぐべきだとダニエルは思った。
「気付いてる? きみは普段は消極的だけど事件の話しになるとすごい積極的に色々なことを話してるっていうこと。話し方も含めてさ。普段通りの感じでいいよ? おれもそっちの方が話しやすいし。プリンシラの特区標準語はきれいだけど少し堅苦しい感じがするからさ」
アニヤは再び考えるような表情になる。何だろうか。何が彼女を押し留めているのだろうか。
「普段通りと言われても……普段からあまり話さないから。事件のことになるとあれこれ話してしまうのは、こういったことをいつも一人でやってきたから、誰かと話し合えるのが嬉しくてつい」
「魔術ゲットーでは事件の捜査は一人でやるっていうこと? ルドバリが指揮している捜査チームで?」
「いえ、基本的にはツーマンセルで動く」
そこでアニヤは一度言葉を区切り、珈琲を一口飲んでから苦笑した。悲しいような、恥ずかしいような、そんななんとも言えない表情で。
「嫌われているの、わたし。詳しい理由は省くけど、今のチームにわたしと話したがる人はいない。仕事だけじゃなく、友達も同じ。もう十年以上、わたしのことを知っている人が自分からわたしに話しかけてきたことはない。だからこんな風に誰かと話すのも十年越しっていうこと。正直、誰かと会話をするってこういう感覚だったっけ? っていま思ってる」
「本当に? 信じられないな。きみみたいな……」
――魅力的な人を前にして?
「優秀な人材を? ルドバリも何を考えているんだろう。戦力を無駄にしているのと同じことじゃないか」
「色々あるの、わたしにはね。聞きたい? 聞きたかったら話すけど大した話じゃないよ」
十年間誰にも話し掛けられない生活。アニヤには一体どのような秘密があるのだろうか。
知りたい、とダニエルは思った。でもそれと同時にそんなことはどうでもいいとも思った。肝心なのは
――それに、だったらライバルは少ないってことじゃないか……。
「いや、いいよ別に。興味がないと言えば嘘だけどおれが今日出会ったアニヤ・プリンシラとは何も関係はない。どこまで知ってるのかわからないから話すけど、おれは数年前まで魔対課のナイトだったんだ。ナイトの仕事は自分のキングかクイーンを守ること。そのためには互いを良く知り合う必要がある」
右手を差し出したダニエルの顔は、少し恥ずかしそうに笑っている。
「おれは今からきみのナイトになるよ。
差し出された手をアニヤがおすおずと握り返す。そして、ダニエルの顔を見つめた。
「ダニエル・フォシェーンだ。ドニーと呼んでくれ」
戸惑い、驚き、羞恥。唇を少し噛み、アニヤはさらに深く、ダニエルの瞳を覗き込む。
「アニヤ。アニヤ・プリンシラ。苗字は嫌いなの。わたしのこともアニヤって呼んで」
そして最後に、満面の笑みを浮かべて彼女はそう言った。
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