星空の下 ── アニヤ ──

 夜風が少し冷たくなってきたが心地よかった。さっき見た夢のようだとアニヤは珈琲を啜りながら、目の前で煙草に火をつける男を見た。

 魅力的だった。柔和な顔立ちの奥に強さを感じる。いまこの瞬間が仕事ではなければ良かったのにとまでアニヤは思った。


 しかしそうではない。自分は命を受けて今ここにいる。


 あらためてその思いをアニヤは胸に刻んだ。


 豪華な家に魅力的な異性、父親が楽しみにしてくれていた特区での生活。これは自分で掴み取ったものではない。仕事がなければダニエルと出会うこともなかった。


 ――この幸せは仕事の副産物でしかない。


 それでもやはり、ダニエルにパートナーとして受け入れてもらえたことがアニヤは嬉しかった。ここではゲットーように遠慮する必要はない。ダニエルは今の自分を受け入れて対等に話してくれる。そのことはアニヤにとって太陽の光を初めて浴びたときと同じくらいの感動を与えていた。


「それで、明日からはどう動くの?」


 ドニー、と名前を呼ぼうと思ったがやはりどこか恥ずかしかった。


 ――ただパートナーを呼ぶだけなのに意識しちゃって、わたし……。


「うん、おれもいまそれを考えてた。ロビンソンを揺さぶってみようかとも思ったけれど、今日、遅くても明日には必ず警察が彼を訪ねるはずだ。鉢合わせでもしたら厄介なことになる。それに……」


 大きく煙を吐き出してダニエルは思案顔をする。


「なんかなぁ、それだと違う方向を見るような気がするんだよな。ロビンソンのあの態度は確かに引っ掛かるが……」

「わたしたちの任務は犯人を捕まえることであって動機を調べることじゃない」

「そう、そういうこと。じゃあどうすべきだろうか」


 考えろ、と自分自身にアニヤは言い聞かせる。やっと巡ってきたこのチャンスを逃すつもりはない。いつものように考えて、ダニエルのアイディアと組み合わせれば必ず良い結果かでるはずだと信じるに足る何かが確かにある。

 珈琲に映る自分の顔を見つめる。今までになく自信に満ちた表情。


「マルツィオ・パトローニの死体を覆っていた魔術痕を辿るのがいいと思う。レンホルムとパトローニ殺害の犯人が別人だと考えるのには逆に無理がある。あの魔術痕を辿れば犯人にたどり着くと仮定して行動すべきじゃないかな」

「うんうん、やっぱりそこだよな。おれもそう思う。と、なるとだね、あの魔術痕を誰かに鑑定してもらわなきゃいけないわけだけど、生憎おれにそんな便宜を図ってくれる知り合いはいないんだ。そうなると、答えは一つになってくる」


 やはりそこか、とアニヤはうなずく。ダニエルも自分と同じことを考えているのがわかった。


「ゲットーの魔術図書館。そこで司書に魔術痕を見てもらう」

「だな。おれは行ったことはないけれど、全ての魔術の情報が収められているのであれば、きっと答えが見つかるはずだ。ただし問題もある。ゲットーまで行って調べて戻ってくると考えると早くても昼は過ぎる。貴重な半日を無駄にするわけだ。それでも行く価値があると思う?」

「どのみち手がかりはこれ以外にないんだからいいんじゃない? ラッキーを期待して闇雲に町中を歩き回るより有意義な時間になると思うけど」

「確かになぁ。別行動っていうのも考えたけど、アニヤ一人だとこっちには戻ってこれないだろう? おれが行ったところで門前払い。アニヤもこっちに土地勘ないわけで。やっぱり一緒に行動するのが良さそうだな」

「そうね。そうしましょう」


 事件の話が終わると、二人の間には再び沈黙が降りた。食事のときのような気まずい沈黙ではなかったが、アニヤは何を話して良いのかわからなかった。


 ――こういうとき、何を話せば良いのかもう忘れてしまった。


 昔の話を、とも思ったがダニエルは今から始めると言った。誰にだって訊かれたくないことはあるし建設的な話を、と考えれば考えるほど混乱してくる。

 本当に訊きたいことはきけない。それは、仕事のパートナーではなく友人同士の会話だから。


 自分はどうしてこうなんだろうか。大事な何かが始まったはずなのに、自身は何も変わらずにただビクビクしている。アニヤはため息をついて空を見上げた。


「あ……」

「ん……どうかした?」


 真っ黒ではないが、限りなくそれに近い群青色の夜空に輝くもの。本の中でしか知らなかったその輝きをアニヤは見つめた。ふと室内照明が暗くなり、目が慣れてくるにつれて夜空がどんどん明るくなってくる。

 はっきり見えるもの、ぼやけたそれらの集合体。一度目を離してしまうとまた同じ輝きを見つけるのが難しいくらいの広大さ。

 

「……あの星のどれか一つに誰かがいるとして、わたしからその誰かは見えないし誰かからもわたしは見えない。いま心の中を渦巻いている悩みは、その星の人からすれば天体望遠鏡を使っても視認できないちっぽけなものだよね」

「まぁ、そう考えればね」

「大事なのは視点なんだって思った。違う視点で見れば、今の自分の悩みなんて大したことない。くよくよ考えるのはやめよう」


 アニヤは精一杯ダニエルに微笑みかけた。まだ父親が生きていた頃の楽しかった時を思い出して。

 自分は今回の捜査を通じて自分を取り戻す。犯人検挙とはまた違うもう一つの目標が出来た。


 アニヤに対してダニエルも微笑み返す。


「それはなんていうかさ、摂理っていうか、まぁそうなんだろうけどって。うん、それはそれでいいと思う。でもさ、人ってそんな単純じゃないよね、とも思うわけで。必ずしもいつだってそうやって納得できるものじゃないとも思ってて。だからなんて言うか……悩んだときは相談してよ。おれたち二人で考えようって決めたんだからさ」


 この人は、と薄々気付いていたことに確信を得る。

 普通は恥ずかしくて言えないようなことをさらっと言う。それがダニエルという人なのだと。

 この薄暗い状況でもミシェルが言っていたをしていることがはっきりわかる。人を魅了して離さないあの瞳。頬が赤くなっていることをアニヤは自覚していたが、この薄明かりの元でどうかそれには気付かれないようにと必死に祈る。


「ありがとう。ねぇ、ちょっと気になるんだけどさ、今みたいなこと、ドニーは誰にでも言うわけ?」

「まさか……」


 ダニエルも夜空を見上げる。いま、アニヤとダニエルは間違いなく同じ空を見上げていた。言葉に出来ない幸福感をアニヤは味わっている。初めて青空と太陽を見た。夕焼けと日の入りを見た。星空を見た。横には自分を支えてくれる、いつも煙草を吸っているパートナーがいる。


「そんな軟派な。硬派なんでね、おれは。誰にでも優しくすることはないよ」


 ――よく言う。


「あ、そう。


 横を見なくてもダニエルが煙草を探しているのがわかる。煙草の箱を探る音、その後に続くライターと、そっと息を吐き出す音。星空に一瞬かかる煙が広がっていくのと同時に、アニヤは心の中の靄が晴れるのを感じた。


「さすがに疲れた。先に休むね、わたし。今日だけはこのまま、夢を見たい」

 

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